クリープハイプを聴くとどうしてこんなにしんどくなるの?
時々、どうしようもなくやりきれなくて、泣きたくて仕方なくなることはありますか。
歳を取ると涙もろくなる、と言います。わたしもそのせいなのか、確かに数年前よりも涙を流してしまうことが増えました。人に投げつけたりできない行き場のない気持ちがいっぱいに溜まったとき、それが溢れる手段が「泣く」ということばかりになってしまって、またその回数もちょっとずつ多くなっているように思うのです。
いい歳なので人前で泣くことはなかなかありませんが、ひとりで音楽を聴いていたりYouTubeを観ていると、たまに勝手に涙が出てくるときがあります。特に彼ら、クリープハイプの音楽を聴いたときに感じるなんともいえない切なさには、いつもつい涙がこぼれてしまいます。
あまりに心の琴線に触れてくるというか、こうも毎回泣けてくると曲を聴くのがしんどいし、なにより条件反射のように思えてばかばかしいし、なんだかクリープの4人にも失礼なことをしている気にもなってしまいました。
特に言葉にしてこなかったけれど、この"ポイント"にぐっとくる、というのがあるはず。そこでこの機会に、なぜ彼らの音楽がこうも涙を誘ってくるのかについて、特にわたしの印象に残っているフレーズを取り上げながら考えてみたいと思います。
クリープハイプとは
クリープハイプは2012年メジャーデビューの4人組ロックバンド。ほとんどの楽曲は、ギターボーカルを担当する尾崎世界観さんの手によって作られています。
この個性的すぎる芸名は、インディーズ時代によく言われていた「世界観が〜」という評価に疑問を感じたから自ら名乗り出した、というのが由来だそう。この時点で、彼のちょっとひねくれた性格が感じ取れます。
その通り、クリープの楽曲で描かれる人間はみんなどこか欠けたところがあるのが魅力です。ラブソングであっても、すれ違いや別れなど「うまくいかない」部分を描いたり… 綺麗な部分ではない、人間の生々しい部分を描くからこそ、聴いていて心の深いところをえぐられる感覚があるのです。彼の持つこの視点は、人間の弱い部分に寄り添うような温かさと同時に、人間なんて所詮こんなものだろうという諦めも含んでいるように感じられます。
まずは、このバンドとしてのコンセプトから、彼らの持つセンチメンタルな雰囲気を感じられるのではないでしょうか。
死ぬまで一生愛されてると思ってたよ
そして、そのメジャーデビューアルバムのタイトルが『死ぬまで一生愛されてると思ってたよ』。わたしが彼らを知るきっかけになったアルバムです。
このフレーズはアルバム1曲目「愛の標識」の歌い出しにもなっています。
死ぬまで一生愛されてると思ってたよ 信じていたのに嘘だったんだ
そこの角左 その後の角右 まっすぐ行っても 愛は行き止まり
この曲のストーリーは「同棲していた男女の別れについて、まだ未練が残っている男性目線で歌った」ものですが、この「死ぬまで一生愛されてると思ってたよ」という表現にははっとさせられました。
このストーリーを知ってから読むとなんだか女々しい、うじうじしている印象を受けるかもしれません。しかし"相手に受け入れてもらえなかった"という悲しい気持ちに直面し、絶望することは、特に恋愛でのケースに限らず誰しも一度はあるのではないでしょうか。そのときの気持ちに対して、この「死ぬまで一生愛されてると思ってたよ」という感傷的で、ちょっと大げさな表現が、当時思春期まっさかりのわたしにとって的確にハマる感覚がありました。
これまで聴いてきた音楽や、読んできた本のなかにも、こんな表現を教えてくれるものはありませんでした。ここから、クリープハイプはわたしにとって、他のどのバンドとも違う存在になったのです。
百円の恋に、八円の愛
メジャーデビューアルバムからクリープを知り、そこからインディーズ2作を聴き、そして2nd『吹き零れる程のI、哀、愛』も購入して聴いていましたが、そこから一旦彼らの音楽からは離れていました。そこからまた彼らの音楽に触れたきっかけになったのが「百八円の恋」でした。
MVよりも、この曲が主題歌となった映画『百円の恋』の予告編を観ていただきたい。「百八円の恋」は、この映画のシナリオを読んで尾崎さんが書き下ろした曲です。
※作品はR-15指定です。
この映画は日本アカデミー賞で脚本賞を受賞、最優秀主演女優賞に主演・安藤サクラさんが輝くなど(ここから安藤さんの映画・ドラマへの出演が格段に増えましたね!)、非常に各方面より評価の高い作品でした。わたしもこのニュースを見て興味を持ち、観賞しました。
なんともやるせない気分になる物語のラスト、そこにそっと流れてくる「百八円の恋」。歌い出しはこうです。
もうすぐこの映画も終わる こんなあたしのことは忘れてね
これから始まる毎日は 映画になんかならなくても 普通の毎日で良いから
この映画のためだけに書き下ろされたからこそのフレーズです。これが映画にあまりにも合う。これまでのストーリーを踏まえて聴くこの歌詞に、流れてきた瞬間号泣してしまいました。
そして、わたしが一番ぐっとくるのはサビのこのフレーズです。
終わったのは始まったから 負けたのは戦ってたから
別れたのは出会えたから ってわかってるけど
涙なんて邪魔になるだけで 大事な物が見えなくなるから
要らないのに出てくるから 余計に悲しくなる
悲しさや無力感に打ちのめされてしまったあとに、なんとかして立ち直ろう、自分を励まそうとするけれど、どうしても涙が溢れてしまう。悲しくて、悔しくてたまらなくなる。そんな気持ちにわたしも心当たりがあるから、ついこの部分を聴くと自分のそんな経験が呼び起こされてしまって、同じように涙が出てしまうのだと思います。
悔しさのループにおちいってしまうのは自分だけじゃない、と思うと絶望がやわらぐので、落ち込みすぎて涙が止まらないときはいつもこの曲を聴くようにしています。前向きな気持ちにまで持っていける曲では正直ないけれど、むしろ本当に切羽詰まってしんどいときって、前向きになろうとしてもめちゃくちゃ難しくないですか? そんなときに、そっと寄り添ってくれるような曲だと思います。
もちろん、映画を観てから聴くとよりこの表現の素晴らしさが実感できると思います。年齢制限がありますが、アマプラでも配信しているのでぜひ。
簡単なあらすじなんかにまとまってたまるか
「百八円の恋」で、すっかりクリープハイプは「泣きたい気持ちのときに聴くバンド」となったので、このときから彼らは積極的には聴けないバンドになってしまいました。元気なときに聴くと、この曲を聴いているときのような不安定な心理状態が呼び起こされてしまうように感じるからです。
そう思っているなか、Spotifyの自動作成プレイリストで偶然耳にした曲が「栞」でした。
関西圏の方にはなじみ深い、毎年名曲を生み出す春のキャンペーン「FM802 × TSUTAYA ACCESS!」2018年キャンペーンソングとして書き下ろされた1曲です。イントロのサウンドから「あ、これはクリープハイプだ」とわかる優しいサウンド。聴いたらやばいかも、と思いながらも聴き続けました。
クリープの楽曲は、サビの盛り上がりへのドラマティックな展開が毎回秀逸です。この曲もその通り、サウンドに合わせてどんどん盛り上がっていくストーリー。そして、サビの詞がこちらです。
桜散る桜散る ひらひら舞う文字が綺麗
「今ならまだやり直せるよ」が風に舞う
嘘だよ ごめんね 新しい街にいっても元気でね
一番盛り上がるサビに、桜「舞う」ではなく「散る」という言葉を選ぶセンス。
このフレーズまでのコード進行などは比較的明るく、物悲しい雰囲気はあまりありません。もしこれに明るい歌詞が乗っていたら、違和感なく明るく聞こえるはずです。
しかし、サビに突入して「桜散る」という明らかに良い表現では使われない表現、そしてその寂しい表現に畳み掛けるように、『「今ならまだやり直せるよ」が〜』の部分からのマイナーコードの響きがその切なさを加速させているように感じます。
そして、サビ終わりのここ。
うつむいてるくらいがちょうどいい
地面に咲いてる
気持ちを伝えられず、やりきれない思いでうつむいたときに目に入った、散った桜の花びらが地面にたくさん散らばっている様子を「地面に咲いてる」と表現しています。
「落ちてる」「散らばっている」というと散らかった、薄汚れたような光景に感じますが、ここを「咲いてる」と表現することで、その春ならではの光景の美しさに加え、未来への希望も表現することができている、と感じました。ただ奇をてらった表現ではなく、その裏に隠されている確かな意味を感じるから、一回聴くだけで忘れられなくなるのだと思います。
もう少し付け加えると、「咲いてる」のところの半音上がるメロディ、ちょっとクセがあります。この上がる音で"あ"の母音が強調される感じが、まるで泣き喚いている声を表現しているようにも聴こえました。ただの深読みかもしれないけど…
これまでの「ACCESS!」キャンペーンソングは、春の新生活を前向きに応援してくれるような明るい曲がほとんどです。秦基博提供の「スプリングハズカム」、aiko提供の「メロンソーダ」など。どちらも好きでよく聴きます。
でも、春といえば出会いだけでなく、別れの季節でもあります。その別れの部分に目をつけ、こんな叙情的な表現で美しく描写するのが「さすが尾崎世界観だな」と思うところです。
「かゆいところに手が届く」
ここまで、尾崎さんの書く歌詞について特に「ぐっとくる」ポイントを挙げてみました。このほかにももちろん、彼らの曲にはぐっとくるポイント、はっとさせられるポイント、どきっとさせられるポイントが沢山あります。こんなに揺さぶられる歌詞を毎回リリース続けているバンドは、わたしにとってはクリープハイプくらいです。このワードセンスはどこから生まれているのだろう…
このセンスは各方面からの評価も高く、尾崎さんは小説やエッセイなど、文筆家としての活動もされています。今年6月には対談集『身のある話と、歯に詰まるワタシ』を出版され、8月にはサイト「好書好日」にてインタビューにも答えられていました。
このインタビューの後半、「言葉の扱い方」についての話題で、このように語られています。以下、本文より引用します。
( 略 )そのなかで、かゆいところに手が届くような言葉を発する存在でありたいと思います。自分は昔から、みんなに好かれているとかすごく人気があるわけではなく、ちょっと癖がある人が好きでした。戦隊ものの番組を見ていてもよく悪役を好きになっていたし(笑)。だから、ちょっとふてくされながら物事を見ているような人に、安心してもらえるような存在でいたいです。
この部分を読んで、わたしは尾崎さんのスタンスに「こういうことか」と深く納得した感覚がありました。特に「百八円の恋」を聴いているときに感じる安心感のとおり、まさに彼の書く詞は「かゆいところに手が届く」ものだからです。
またこの部分より前にもインタビュアーの方が、尾崎さんの対談のスタンスを「幻想をはがす」と形容されています。これはクリープハイプとしてリリースしている楽曲の歌詞にも通じるところがあるように思って、先ほどの部分と合わせて、彼の考え方がよりはっきりと言語化されたように感じました。
自分が、彼の表現する「ちょっとふてくされながら物事を見ているような人」なのかは自信がありません(なんとなく自称しづらい感じもあります)。しかし、まっすぐ直接的でわかりやすい、ある意味「大衆的」な表現をされるよりも、よりピンポイントで「聴いているわたし」へと刺さる魅力が、彼らの楽曲には確かにあります。こう思うこと自体が、まさにふてくされた視点で物事を見ていることになるのかもしれませんが…
タイトルの通り、やっぱりクリープハイプの楽曲は、聴くといつもしんどくなってしまいます。まさに、歌詞とメロディがわたしの「かゆいところ」をくすぐるようなものだからなのでしょう。前回のAC部の記事を書くときに観た「愛す」のMVでも(情報量が過剰でしたが)落ちサビでは思わず感動してしまったし、この記事を書きながら泣きそうになることが何度もありました。
これからも、自分でも持て余してしまうような心のかゆくてたまらない部分を、彼らの曲に支えてもらうのだと思っています。どうか、この繊細な歌詞の機微をしっかり感じ取れる「ふてくされた」部分を、これからもずっと忘れずにいられますように。