夜の青春物語「カカオ60%の恋」
「雨だ」
そう言って彼が頭上を仰ぐと、淡いねずみ色をした雲間から、サアーッと雨粒が降ってきた。
「なにぼんやりしてるんだよ、行くぞ」
彼は少し焦るように、制服の上着を脱ぎ、それを私の頭にかぶせた。あ、日なたの匂い―――気づいたとたん、ふいに自分の意志とは関係なしに顔が熱くなった。サッと下をむく私の手首を、いきなり、彼が強くつかんだ。そこから熱が直に伝わってきて、胸がドンと脈打った。
「ほら、信号が赤になる!」
走り出す。私は空いた方の手で頭をおさえた。そうしなければ彼の上着が風で飛んでしまう―――けれど本当は上着なんて役に立たないくらい、雨脚はもの凄い強さで横断歩道を打ちつけていた。
赤信号が点滅する。
息を切らして渡りきった時には、二人ともずぶ濡れだった。私たちは顔を見合わせ、お互いひどい姿をしていることに笑った。このまま時が止まればいいのに―――そう思った瞬間、彼の顔から笑みが消えた。その横顔を見て、私はハッと息をのんだ。
視線の先を追うと、歩道沿いに赤いポルシェが停まっていた。
「あ……わたし、大丈夫だから。行って」
私は目線を落とした。今まともに彼を見ることなんてできない。お願いだから言うとおりにして―――違う、本当は行ってほしくない、でも……。
せめぎあう二つの感情に押し潰されそうで、胸が苦しい。地面の上でバシャバシャ跳ねる雨粒を、ひたすら眺めている時間がやけに長く感じる。さっきまではまったく逆のことを考えていたのに……。
「お前も来いよ」
思いがけない言葉に「え?」と顔を上げていた。
「リカに頼んでやるよ。お前も一緒に乗せてもらえるようにさ」
照れたような笑顔がそこにあった。私の胸はヘンな音を立てて、ぎゅっと締めつけられた。
「……いい」
それだけ言うのが精いっぱいだった。リカ―――呼んだ彼の、少しかすれた低い声が、耳の奥でエコーする。リカ、リカ、リカ……彼の、好きな人の名前。
「いーから遠慮すんなって」
笑いながら、彼が手を伸ばしてきた。カッとなった私はその手を振りはらって叫んだ。
「遠慮なんかしてない!」
その時、空気が止まった。ザアアと降る雨音が、やけに鮮明に聞こえ、耳の奥まで支配してくるようだった。動けなくなる私のそばで、彼が困惑しているのがわかる。
私は彼の顔を見ないまま言った。
「ごめん、でも、ほんとに大丈夫だから……家、すぐそこだし」
「いいのか? 俺、ほんとに行くけど」
「うん」
「風邪引くなよ」
「うん……ていうかこれ、返す」
「いいよ持ってけ」
びしょ濡れの上着を突きだしたら、ぐいと押し返された。「じゃあな!」と言って彼は、風のように私の前から走り去った。
私は地面に足を張りつかせたまま、横を向き、小さくなる彼の背中を目で追った。どんどん、どんどん遠くなる。
行ってしまう、手の届かないところへ。
「待っ……」
足を踏み出しかけて、止まった。ポルシェの扉が開いて、中から女の人が顔を出すのが見えた。運転席から助手席側に身を乗り出しているのだろう、かがんだ肩から、ウエーブがかった長い黒髪がすべり落ちる。そこへ走ってきた彼が、嬉しそうに彼女の手を取り、次の瞬間、甲にキスをした。
バン、と扉の閉まる音がして、私は我に返った。
灰色の景色のなかで紅一点―――ひときわ鮮やかな花のようなそれは、あっという間に道路の向こうへ見えなくなってしまった。
私は、手にしたままの上着をきつく握りしめた。雨に濡れて、彼の香りはもう、すっかり消えている。
「……何やってんだか」
気がつくと泣いていた。信じられない……こんなに好きだなんて。こんなに苦しいのに、好きなのを止められないなんて。
容赦なく降りつづける雨に打たれながら、私は鞄の中から食べかけの板チョコを取りだした。銀紙をはがし、口でパキッと割る。
「バカみたい」
雨まじりのカカオ60%なビターは、思ったよりずっと、ほろ苦い味がした。
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