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夜のファンタジー「さよならレイチェル」

 さよならレイチェル。

 ぼくらは君のことを忘れない。

 何日たっても、何年たっても、君のことを忘れたりなんかしない。

 絶対に絶対に。

      ◇

 空は、水に溶かした絵の具みたいに、透きとおった青色をしている。その中を飛んでいるのは、うろこ雲や、枯れ葉や、鳥たち。そしてたった今ぼくの手から離れていった、黄色い風船。どこまでも、どこまでも高く、のぼっていく。

「行っちゃったなあ」

 となりでシンが言った。ぼくは「うん」とうなずき、目をほそめて、太陽の光にのみこまれた風船をじっと見つめた。

「これからどうする?」とシン。

「ジュク」とぼく。

「サボれば?」

「だめだよ、母さんにしかられる」

「いいじゃん、おれなんかしょっちゅうしかられてんぜ」

「おまえのとこと、ぼくのとこの母さんは、ぜんぜんちがうんだよ」

「たしかにな。おまえの母ちゃんのほうが、美人だ」

 ぼくは苦笑いをしながら首を横にふって「じゃあまた明日」と歩きだした。シンが背中で「明日、おれんちにこいよ、プレステしよーぜ」と声をかけてくる。ぼくは上半身を後ろにひねって、こぶしをシンにつき出した。これがぼくらのあいさつ。シンも、同じようにこぶしをつき出して、ニッと笑っている。

「なあ、今日、転校生がくんだって」

 次の日、教室に行くと、そんな話題でもちきりだった。

「転校生?」

「ああ。なんか、ガイジンらしーぜ。さっきD組のやつが見たって言ってたんだけど、キンパツだって」

「ふーん」

「なんだよ、興味ないのか?」

「べつに。今どきガイジンの転校生なんて、めずらしくないんじゃないかと思って」

 言ってから、しまったと思った。ぼくにいち早く情報を伝えにきたのは、クラスの中で一番バカの、エザキだ。エザキはいつも、自分がバカだということを自慢しながら、先生に反抗し、みんなに呆れられている。

「へん、ちょっとアタマいーからって、調子にのんなよな」

 エザキがわざと低い声を出した。でもぼくは、ちっとも恐くなんかない。エザキが夏休みの前、いっこ下の低学年とケンカして、ボコボコにやられたという話は、五年生の男子のなかでは有名だ。

「おーっす」

 と、そこにシンがやってきた。

「なになにお二人とも、じーっと見つめ合っちゃったりして。も、もしかして?」

「バーカ」

 とぼくは言った。シンが意味ありげに目くばせしてくる。ぼくはうなずき、一番後ろの自分の席についた。

 窓ぎわのカーテンのところで、シンとエザキが話し合っている。内容は分かっている。ぼくが言ったことに対して、シンがエザキにフォローを入れているのだ。

 ごめん、いつもわるいな、シン。

 心からそう思う。シンがいなければ、ぼくはとっくに、クラスで一番の嫌われ者になっているかもしれない。

 チャイムが鳴って、先生が教室に入ってくると、みんなはザワつくのをやめ、ぞろぞろと席についた。いちおう静かになったのを見て、ドアのそばに立っていた先生が「入りなさい」と言った。

 いよいよか、というムードがただよい始める。みんな、どんなやつか品さだめしてやろうと、少し上目づかいなんかして、様子を見守っている。

 ガラッと音がして、転校生が入ってきた。その子は、エザキの言っていたとおり、キンパツだった。だけど……

「転校生のレイチェルさんだ。レイチェルさん、自己紹介をしてください」

 先生がぽんと肩をたたく。レイチェルという名前のその子は、こくん、とうなずいて、ぼくらをじーっと見回した。まるで人形みたいに丸い目だった。クラスのみんなが、ひどくきんちょうしているのが、伝わってくる。

「はじめまして。わたしは、レイチェルと言います。今日から、みなさんといっしょに、ここでお勉強することになりました。どうぞよろしくお願いします」

 ぺこっと頭を下げたレイチェルを、みんながボーゼンと見つめた。ぼくも、口をぽかんと開けたまま、閉じるのを忘れてしまった。

「なんだ、あれ……」

 誰かが怯えたようにつぶやいた。あちこちでツバを飲む音が聞こえた。ぼくもようやく口を閉じ、やっぱりごくんと、ツバを飲んだ。

 そんなぼくたちを前に、金色のカツラを頭にかぶったレイチェルが、にっこり笑っている。

「見たか、あの転校生」

 休けい時間になると、やっぱり、レイチェルのことでもちきりだった。

「見たもなにも、あそこにいるじゃないか」

 とぼくは、窓ぎわから三列目の、前から三番目の席に座っている、見たこともない生物の背中を指さした。

「あれって、イルカ……だよな?」

 シンは、ぼくの机の横にしゃがんで、じーっとレイチェルの方を見ている。イスに座っているぼくも、「イルカだよなあ」と答えながら、レイチェルを見ている。ついでにいうと、教室の外の廊下に集まってきている他のクラスの生徒たちも、クラスにいるみんなも、遠巻きにレイチェルに熱い視線をそそいでいる。

 その時、エザキが仲間たちにそそのかされて、仕方ねえな、というふうにバツの悪い顔をはりつかせて、レイチェルに近づいていった。

「ど、どーも、レイチェルさん、っすよね?」

 腰の低いセールスマンみたいに、手もみしながらヘラヘラするので、ぼくは内心ずっこけた。たぶん、みんなもそうだと思う。それでも、なんだか変な展開になってきたぞ、という好奇心が、教室全体にただよっている。

 エザキは引きつった笑顔で、レイチェルに言った。

「あの、あなたってその、ぼくたちと同じ……じゃ、ないっすよね?」

 レイチェルは、ゆっくりとエザキを見あげた。その光景は、ものすごく変だった。なにしろ、服をきたイルカが、金色のカツラをかぶって、机の前に座っているのだ。毛のない首がツルンと光っている。青でもグレーでもない不思議な色をしたレイチェルの体は、どこからどう見ても、イルカのそれだった。

「同じですよ」

 レイチェルはにっこりして答えた。エザキはちょっと納得いかないような顔をして、しつこく言った。

「でも、あなたの体は、その、ぼくたちとは、ちがうじゃないっすか。肌の色も、目の色も、ぜんぶちがうでしょ」

「いいえ。わたしは、ここにいるみんなと同じです。わたしは、みんなと仲良くなりたいのです」

 エザキはますます顔をゆがめて、もう、敬語を使わなかった。

「どこがだよ、どこが同じなんだよ、おまえは人間じゃないじゃないか!」

 やめろよ、とシンが立ち上がった。教室中がシーンと静まりかえった。そこでチャイムが鳴った。でも、誰も動こうとしない。その時、ボソッとつぶやく声が聞こえた。

「キモい……」

 ぼくはハッとした。いや、ギクッとした。ドキッともした。みんなもそうだったと思う。そういう空気が流れだすと、レイチェルはますます、一人ぼっちになった。

 一番さいしょに動いたのは、学級委員のフジモリだった。

「やめようよ、レイチェルさんが、かわいそうじゃない」

 女子のフジモリに言われると、エザキは顔を真っ赤にして「うるせえ!」とどなった。だけど、フジモリは負けじと言い返す。

「レイチェルさんは転校生なんだよ、うちに来たばっかりなんだよ、それなのに、みんな優しくないよ、レイチェルさんが泣いちゃうよ」

 そうだよエザキやめろよ、という声が、さざ波のように、そこかしこで上がった。

「おい、おまえら、何やってんだ! 早く教室に戻らないか!」

 先生が来たので、廊下にいた生徒たちが慌てて帰っていった。教室にいたみんなも自分の席についたけど、それぞれ無言で、異様なムードがただよっている。

 シンが、フクザツな顔でぼくを見つめ、それから自分の席に戻った。ぼくは、前の方にいるレイチェルの後ろ姿を見つめた。ちょっとごつくて、ツルンとしたレイチェルの背中は、ひどく傷ついているように見えた。

 五時間目は図書室で自習だった。

”イルカ。クジラ目。マイルカ科。二~一〇数頭(ときに一〇〇~五〇〇頭)のグループで沿岸部を泳ぎ、食べものは魚類やイカ類”

 動物辞典にはそう書かれてある。人なつこいので、世界中の水族館で飼われているそうだ。

 その本によれば、レイチェルはバンドウイルカという種類になるらしい。バンドウイルカが住むのは、あったかい場所で、寒いところは苦手みたいだ。体長は二五〇~四〇〇センチもあり、体重は……

「一五〇キロ?!」

 ぼくの声はひっくり返った。近くにいたみんなが〈しずかに!〉という目でぼくを見てくる。ぼくはうつむき、そこからはなれて、奥の、シンのいるところへ向かった。

「シン、何やってんの」

「べつに。見るもんねえし、寝てるだけ」

 と言いながら、シンはうす目を開け、グラウンドでサッカーしているB組の男子を、窓ごしにながめている。棚の上に座り、足をのばし、柱にもたれて、ボーっとしている。

「いま、動物辞典を見てたんだけどさ、レイチェルはたぶん、バンドウイルカだよ」

「バンドウイルカ?」

「そう。たぶん、イルカの中で一番大きいやつ」

 ぼくはシンの真下に腰をおろした。そこは絵本コーナーで、背中の棚には、色とりどりの背表紙と、ひらがなの題名が並んでいたけど、かまわずもたれた。

「バンドウイルカって、よくイルカのショーとかで使われてるやつ?」

 頭にシンの声が降ってくる。

「うん。でも、レイチェルは小さいから、まだ子どもなんだと思うよ。お父さんとお母さんは、もっと大きいんじゃないかな」

 ぼくはページをめくりながら答える。イルカの次は、ウサギだった。ウサギ目、ウサギ科、と書いてある。

「水の中にいなくて、平気なんかなあ……」

 シンがぽつりと言った。ぼくは思わずシンを見上げた。ひげの生えていない、ツルンとしたアゴと、くろい鼻の穴が見える。

「さあね」

 と答えて、ぼくは本に目を戻した。自習時間だっていうのに、なんだかちっとも盛り上がらない。原因は分かっている。レイチェルだ。

 レイチェルは二時間目で早退した。ぼくらのせいだった。ぼくらが、転校生のレイチェルを、よってたかっていじめたからだ。でも一部の女子グループはエザキのせいばかりにしている。だからエザキはカンカンに怒って、エザキを中心にした男子グループを味方につけ、女子グループと戦うつもりだ。中立派のぼくとシンは、その様子を、フクザツな気分で見ている。

「今日、ウチくるだろ」

 シンが言った。ぼくは、こぶしを上につき出した。そこに、シンのこぶしが、コツンと当たった。

 次の日、レイチェルはちゃんと登校してきた。休むんじゃないかと心配していた女子グループが、昨日とはうって変わった態度で、レイチェルの周りを取り囲んだ。

「レイチェルさん、大丈夫?」

「体はもう平気?」

「病院には行ったの?」

「気分悪くなったら、いつでも言ってね」

 レイチェルは、とつぜんの好意にびっくりしていた。しばらくは「大丈夫です」「はい」の二言しかしゃべらなかったくらいだ。見ているこっちの方が、もうやめてやれよ、と止めたくなる。でも、イルカとはいえ、レイチェルは女子だし、男子が口出しして、またムードがピリピリしたらめんどうだ。ここは、レイチェル自身に、がんばってもらうしかない。

 シンは、面白くなさそうな顔をして、その様子をじっと見ていた。たまに、チッ、とか、ケッ、とか言っているので、きっと女子グループが気にいらないんだろう。実をいうと、ぼくもそうだ。

「あいつら、なんなの? レイチェルを自分らのペットかなんかとカンチガイしてんじゃねえの?」

 シンが小声で言った。ぼくは黙ってうなずく。ぼくがシンと仲がいいのは、こういう時、思っていることがピタリと一致するからだ。逆に、教室の後ろのすみっこなんかにかたまって、コソコソしゃべってるような男子グループのやつらとは、絶対に気が合わない。

「レイチェル、大丈夫かな……」

 ぼくは、ものすごくレイチェルが心配だった。

 それから一週間たった。ぼくの予想に反して、レイチェルには女子の友だちがけっこうたくさん出来た。今のところ、仲良くやっているみたいで、いっつも、きゃーきゃーさわいでいる。エザキの男子グループと、エザキを敵視していた女子グループも、いつの間にか仲直りしていた。それどころか、レイチェルがぼくらの教室に転校してきてからというもの、前よりもっと、みんなが仲良くなった。

 レイチェルは明るくて優しい。誰かが困っていたら、かならず助けに行くし、頼まれた仕事も、きちんとこなす。勉強も熱心で、分からないところがあれば、すぐ先生に質問しにいく。授業中、当てられて、答えを間違えたら、照れたように笑う。

 レイチェルが、あのとんがった口で笑う声は、まさしくイルカの「カカカカカ」というやつで、それを間近で見たとき、ぼくらはすごく驚いたけど、今となっては名物だ。だから、レイチェルの周りには、いつも人がたくさん集まってくる。実際、レイチェルは見ているだけでも面白いし、どんなに落ち込んでいるときでも、レイチェルを見るとワクワクして、なんだか楽しくなってくる。

 そう、レイチェルは、みんなの人気者なのだ。

「レイチェル! 今日、あたしらと遊ぼうよ!」

「じゃーあたしも行く」

「あたしも」

 放課後、女子たちがレイチェルを連れて下校していった。ぼくとシンはそれを見送って、顔を見合わせた。

「あいつら、ホントに仲いーんかな」

 ぼくが思っていることを、シンが言う。ぼくは、「うん」と返事をする。

「ま、べつに、レイチェルがいーんならいいけどさ」

 シンが頭の後ろで腕を組んで歩きだす。ぼくはその横に並び、下駄箱に向かって歩いた。

「今日、おまえジュクだっけ?」とシン。

「うん」とぼく。

「んじゃー遊べないな」

「明日はいけるよ」

 いつもと同じ会話をしていると、エザキの男子グループが下駄箱にいて、そこに、レイチェルを含めた女子グループもいた。合わせて十人ぐらいいる。

「なんだあいつら?」

 シンがつっけんどんに言った。じっと見ていると、男子と女子が楽しそうに笑い合っている。どうやら、これからみんなでどこかに行くらしい。でも、レイチェルだけ一人、元気がない。

 様子が変だな、と思ったのは、ぼくだけではなかった。シンの横顔を見て、同じことを考えているのが分かった。

「つけてみるか、タク」

 シンが言った。

「うん」

 ぼくはうなずいた。

 学校を出て、みんなは駅に向かった。ぼくはジュクがあるので定期を持っていたけど、シンは持っていない。聞くと、お金もないということだったので、シンのぶんの切符を買ってやった。

 改札を通っていくみんなの後で、ぼくらも続いた。電車は車両を変えて乗り、三駅ばかり過ぎたところで、みんながゾロゾロ降りていくのが見えた。ぼくらは急いで後を追った。

 みんながたどり着いたのは、水族館だった。正面玄関を回って、裏口からまたゾロゾロ入っていく。先頭はレイチェルだった。

「ここって、もしかして、レイチェルの家?」

 シンが聞いてくる。

「わかんないけど……たぶん」

 ぼくらは裏口をくぐった。すると、すぐ目の前がプールだった。それも、楕円形だ。学校にあるプールよりも、だんぜん大きい。誰も泳いでいないので、よけいに広く見える。天井はずいぶんと高くて、ぼくはいっしゅん、ずっと前に通っていたスイミングスクールを思い出した。

「あいつらはどこ行ったんだ?」

 キョロキョロと辺りを見回すシン。ぼくも右にならった。すると、三十メートルくらい奥の扉から、エザキたちがゾロゾロ出てきた。それを見て、ぼくらはギョッとなった。だって、エザキを含めた男子も女子も、みんな水着を着ていたのだ。

「なんでお前らがここにいるんだよ」

 エザキがぼくらを見つけて言った。その後ろにいる男子と女子も、部外者は出ていけよ、という目で、ぼくらを睨んでくる。

「レイチェルはどこだよ」

 シンが言った。

「ここだよ」

 エザキがプールに向かって指をさした。その時、どこから現れたのか、一頭のイルカが、スーッと中央を泳いでいるのが見えた。ぼくとシンは同時に「レイチェル?!」と口にしていた。

「そうだよ。おれら、ここで遊ばせてもらってんだ」

 得意げなエザキ。後ろから「行こうぜ!」と誰かが言い、その合図で、みんながプールに飛び込みはじめた。しぶきが上がり、タイル張りのプールサイドに、大量の水があふれた。

 きゃーきゃー言って騒ぐ女子の周りを、レイチェルがぐるぐる回っている。それを外側から、男子がつかまえようとしていた。

「おれも行くぞう!」

 エザキが飛び込んだ。そのまま水中にもぐり、他の男子たちに混じって、レイチェルを追いかけはじめる。レイチェルはものすごいスピードで回転し、必死に逃げようとしていた。

「なあ、なんか、おかしくないか? レイチェルはイルカだろ?」

 シンが困惑した声で言った。

「うん、あの輪の中から外に出ようと思えば、出られるよな」

「じゃあ……わざと?」

 ぼくらは黙ってその光景を見ていた。大人が見れば、イルカが子どもと遊んでいるように見えるのかもしれない。でも、ぼくらには分かる。レイチェルは〈悪役〉をやらされているのだ。女子たちを追い込む、サメみたいに。そのサメを〈ヒーロー役〉の男子たちが、捕まえようとしている。たぶん、これは、そういうゲームなんだろう。

「やめさせようぜ」

 シンが、怒りのこもった声で言った。

「でも、どうやって?」

「ここは水族館だろ、どっかに大人がいるはずだ」

 こういう時、シンはおどろくほど頭の回転が速い。ぼくなんか、ふだん、勉強ばっかりして、成績だけはいいのに、いざという時、シンみたいには考えられない。それをちょっと悔しく思いながら、ぼくらは奥に向かいかけた。

 その時だった。

「こら! おまえら、何やってんだ!」

 大人の男の声がした。女子たちは騒ぐのをやめたけど、もぐっている男子たちはそれに気付かない。ぼくとシンは、奥の扉から出てきたその大人を凝視した。

「プールから出ろ! ここは遊び場じゃないんだぞ!」

 ものすごく怒っている。あまりにも大きな声だったので、さすがに男子たちも気がついたらしい、バカみたいに目を丸くして、その人の方を見ていた。

「早く出ろ! 警察に通報するぞ!」

 その一声で、エザキたちが慌ててプールの外に上がった。ぼくらのいるところと対岸だ。そうして、水着のままだというのに、プールサイドを走って、こっちに向かってくる。裏口から逃げるつもりらしい。

「バカ、走るな!」

 大人が叫んだ。

「あっ」

 ぼくは声を上げた。対岸で、女子が一人、転んだのだ。しかも、顔面をタイルに、モロに打ち付けていた。ゴツ、と鈍い音がした。

 女子たちが立ち止まった。でも、男子は水着のまま逃げる。後ろをふり返りもしない。

「おい、おまえら!」

 脇を走りぬけていくエザキたちに向かって、シンがどなった。その直後に、すさまじい泣き声がした。

「いたーい! ママー!」

 おでこから赤い血が流れていた。そのせいで、顔の右半分が真っ赤にそまっている。ホラー映画みたいで、ぼくは足がすくんだ。シンも、さすがに動けないようだ。仲間の女子たちも、どうしたらいいか分からず、オロオロするばかりで、中にはケガしてないのに泣き出すやつまでいた。

「大丈夫か!」

 青い作業服を着た男の人が、血を流した女子の方に駆け寄っていく。その様子を、レイチェルが水面から首だけ出して、悲しそうに濡れた目で、じっと見つめていた。

「で、君たちは、レイチェルを追って、ここまで来たというわけか」

 その男の人は、ゴウダさんとう名前だった。

「はい。エザキのやつらが気になったので……」

「レイチェルは、学校でいじめられているのかな」

 ぼくは、とんでもない、とばかりに首を横にふった。

「いいえ、学校では、すごい人気者なんです。うちのクラス以外の生徒からも好かれてます」

「でも、そのエザキっていう子たちは、レイチェルにひどいことをしていたよね?」

「知らなかったんだよ! あんただって、そうだろ」

 シンがツバを吐きそうな勢いで言った。ぼくは慌てて「ちがうんです」とフォローした。

「こいつ、すごく怒ってるんです。ぼくも、エザキたちのことは許せません」

「……君たちは、レイチェルの友だち?」

 その質問には、正直、困った。だってぼくらは、レイチェルと遊んだこともなければ、まともに話し合ったこともないのだ。それで、仲がいいなんて、とても言えない。

「クラスメイトだよ、ただの」

 シンが不満そうに言った。たしかに、クラスメイトだ。でも、ただのってことはないだろう。少なくとも〈仲間〉であることにかわりはないじゃないか。

「レイチェルさんは、大丈夫ですか?」

「いま、別のプールの方で休んでるよ。君たちも、もう帰りなさい」

 うながされて、ぼくらはそこを出て行ていくことになった。シンは何か言いたそうだったが、けっきょく何も言わなかった。ぼくはエザキたちのかわりに「すみませんでした」と頭を下げて、シンのあとを追った。

 裏口をくぐって、外に出てみると、そこに学級委員のフジモリが立っていた。

「なんだよおまえ」

 キゲンの悪いシンの言葉に、フジモリが傷ついた様子はなく、ただ、どこか後ろめたそうではあった。仕方なく、やんわり聞く。

「どうしたのフジモリさん、なんでここに?」

「わたし……」

 言いかけたと思うと、フジモリはいきなり、声を詰まらせて泣き出した。ぼくらはギョッと顔を見合わせた。

 近くのコンビニで肉まんを買って、誰もいない公園に向かった。フジモリはブランコに座り、ゆっくりと肉まんを頬張っている。ぼくはその横のブランコに、シンはすぐ目の前にある低いランカンに腰かけ、横顔をムスッとさせていた。

「わたしが、レイチェルの家のこと、みんなに教えちゃったの」

 シャックリをしながら、フジモリは言った。シンは無言で肉まんを口に運んでいる。話す気もないらしい。こういう時、シンはとてもガンコになる。ということは、ぼくがフジモリの相手を引き受けなきゃならないわけだ。

 内心、ため息を吐きつつ、両手に持った肉まんの温もりを感じながら、ぼくは聞いた。

「みんなに教えたって、どういうこと?」

「……レイチェルと仲良くなれて、わたし、すごくうれしかったんだ。あの水族館に住んでることを、一番さいしょに知ったのも、わたしだった。教えてくれたのがうれしくて、つい、休けい時間に、女子にしゃべっちゃったの。そしたら、エザキと仲のいい子が、そのこと、エザキのグループに教えちゃって……」

 また泣きはじめた。どうも、女子に泣かれると、ぼくは落ち着かない気分になる。シンはシンで、今よりもっとキゲンが悪くなる。

 今度こそ、本当のため息を吐いて、ぼくは肉まんを一口食べた。生ぬるい肉汁が口の中に広がる。味はいいけど、おいしい、とは思えない。食べられる消しゴムを食べている感覚にちかい。って、そんなもの、どこにもないだろうけど。

 シンが、肉まんの紙をクシャッと丸めて、五メートルほど先にあるゴミ箱にほうり投げた。でも、紙が軽すぎて、そこまで届かないうちに、ポテッと地面に落ちてしまう。シンは舌打ちをし、ランカンを降りると、紙のところまで歩いていって、それを拾った。きちんとゴミ箱に入れて、戻ってくる。

「タク、おまえ、ジュク行かなくていいのかよ」

「あ……」

 忘れてた。

「もう帰ろうぜ。おい、フジモリ」

 呼ばれたフジモリは、肩をビクッとさせて、泣き顔を上げた。目が合うと、シンはうっとうしそうな表情になり、フジモリを見下ろしながら、言った。

「おまえも帰れよ、早くしねえと暗くなんぞ」

 言うなりくるりと背を向けて歩きだす。ぼくが立ち上がると、フジモリも立ち上がった。いつの間にか泣き止んでいる。その横顔を見て、ぼくは少しホッとする。

「おい、早く来いよ!」

 前方に立ち止まったシンがぼくらをふり返って言う。あいつ、切符代ないくせに。でも、しょうがないから言わないでやるよ。カッコつけなシンは、女子の前だと、急にぶっきらぼうになるんだ。

「今いくって!」

 ぼくが走り出すと、フジモリも走り出した。

 帰りの電車の中で、ジュクトモにメールを打った。もう遅いけど、とりあえず行けなかった理由を、先生に代弁してもらわなきゃならない。理由はベタに、カゼをひいたから、ということにしておく。

 地元に着くなり、ぼくらは別れたが、シンとフジモリは同じ方向だった。そうと分かったとたん、シンがろこつに嫌な顔をし、フジモリは気まずそうにうつむいていた。

 太陽はとっくに沈み、空は薄暗くなっている。その色が、青っぽいグレーだったので、なんだかレイチェルの色みたいだと思うと、ふいに切なくなった。

 次の日、学校に行くと、レイチェルと、ケガをした女子が一人と、フジモリが休んでいた。エザキもいなかったが、あいつは無断欠席だった。

「あいつら、レイチェルをいじめてたんだって?」

「サイテーだな」

「許せない」

 噂はあっという間に広がっていて、クラス以外の生徒の耳にも入っているみたいだった。そうして、エザキの取り巻きの男子と女子たちが、みんなから冷たい視線を浴びることになった。

 レイチェルは、それから一週間も学校を休んだ。フジモリは二日目に登校してきたが、なんか元気がなくて、人がかわったみたいに落ち込んでいた。ケガをした女子は、あれだけ大量の血を流していたわりには、おでこを二センチ縫っただけですんだ。こいつは元気に学校に通っているが、いつも女子グループの中にいて、どこへ行くにもつるんでいる。

 こうして、うちのクラスは、ますますムードが悪くなっていた。エザキはといえば、昼から授業に出なくなることが多くなった。先生はあきらめているらしく、エザキに関しては、何も言わない。それってどうなの? とぼくは思うけど、みんな暗黙の了解ってやつで、一言もエザキのことを口にしたりしなかった。

 そんなある日の、昼休み。

「おれ、知ってるんだ、レイチェルが最初に転校してきたとき〈キモい〉って言ったやつが誰か―――あいつだよ」

 ササオカという男子が指さした方向には、ケガをした女子のいるグループがかたまっていた。その中で、サクラという、リーダー格の女子が立ち上がり、ササオカをキッと睨みつけて言った。

「あいつって、あたしのこと?」

「そうだよ」ササオカは即答した。

「なんで言い切れんの? こんきょは?」

「だって、聞いたんだよ。あのとき、おまえのすぐ横に、おれは立ってたんだ。おまえ〈キモい〉だけじゃなくて、あのキンパツが変だとか、魚くさくて嫌だとか、いろいろ言ってただろ」

 みんなの視線が、いっせいにサクラの方に向けられた。その瞬間、サクラは顔を真っ赤にして怒鳴った。

「言ってないわよ!」

 息を荒くして、否定すればするほど、サクラだという気がしてくる。みんなも同じで、誰も、サクラを助けようとする者はいなかった。

 味方がいないと分かると、サクラは驚き半分、悔しさ半分みたいな表情をして、ほとんど泣きそうになりながら、教室を出ていった。それでも、誰も、何も言わない。自業自得だ、という空気すら、流れている。その空気を感じたまま、五時間目の授業が始まった。

 サクラが早退した、という情報が入ってきた。みんな「あ、そう」という感じで、ずいぶん素っ気ない。ゆいいつ、サクラのいた女子グループだけが気まずそうだった。

 そうして、その日の授業をすべて終えると、ホームルームで、先生がぼくらに言った。

「レイチェルさんが、学校を辞めることになりました」

 教室中がザワッとなった。先生が「静かに」と言った。その時、ササオカが立ち上がった。

「エザキくんたちのせいですか」

 ササオカの質問を、先生は黙って受け止め、首を横にふった。すると今度は、え? 違うの? という空気が流れた。

 先生は言った。

「レイチェルさんは、水族館で行われるイルカのショーに出演するため、学校に来られなくなったんだよ。だから、みんなと離れるのはさびしいけれど、一生懸命がんばるから、今度、みんなにショーを見に来てほしいと言っていました」

「え、ショーを?」

「先生、いつ?」

 みんなが期待に満ちた声で先生に問いかける。先生は苦笑いしながら言った。

「明日、みんなで一緒に、レイチェルに会いに行きましょう」

 やったー! と、みんなが喜んだ。でも、ぼくとシンと、エザキのグループのやつだけは、それぞれ、フクザツな顔をしていた。

 当日、朝からフジモリが元気だった。あれから、ちょくちょく話すようになっていたぼくが、その理由をうかがうと、フジモリは少し照れたように言った。

「昨日、会いにいったんだ。そこで、ごめんってあやまった。レイチェル、わたしのこと許してくれたよ」

「そっか、よかったじゃん」

「うん。今日、楽しみだね」

 ぼくは、あいまいに笑っておいた。楽しみ、と言い切れないのは、やっぱり今日もいないエザキや、休んでしまっているサクラや、それ以外のやつらのことが、どうしても頭をかすめるからだ。横にいたシンが、はあ、と深い息を吐いた。

 なんだか遠足みたいなノリで、ぼくらはクラス全員で電車に乗り、迷惑そうな大人たちの顔を見て面白がりながら、やがて駅についた。水族館に向かうとちゅうは、みんなルンルンで、楽しそうで、そこら中で笑い声がはじけていた。その最後尾を歩いていたぼくとシン、それに、エザキの仲間だけが、無言だった。

 水族館につくと、今度はちゃんと正面玄関から入った。ぼくらは一日パスポートを首からさげて、館内に入り、ショーの時間がくるまで、貝やクラゲや魚のコーナーをぐるぐると回った。

「なんか、フクザツだよな」

 シンがはじめて口を開いた。

「そうだね」

 ぼくもはじめて口を開いた。

「あいつら、反省してるよな」

 チラ……と後ろをふり返る。バツの悪そうな顔をした男子と女子が七人ほど、色とりどりのサンゴ礁があるガラスケースの真横を、無言で歩いていた。

「あいつらはいいとして、問題はエザキだよ」

 とぼくは言ってみた。シンは、クスン、と鼻をすすった。

「あれでますます悪いことやんなきゃいいけどな」

「エザキならありうるかも」

「やばいな」

「でも、どうにもならない」

 たしかに、エザキはむかつく。後ろのやつらも、許せない。休んでるサクラにしたって、実を言えば、せいせいしている。だけど、それじゃあ、いけないような気がするんだ。こんな気持ちでレイチェルに会うなんて、なにか、間違っていやしないか?

「いや、なにあれ、キモーイ」

 そんな声がどこかで聞こえた。ぼくは立ち止まり、その声を探した。すると、エザキのいない男子グループと、サクラのいない女子グループに向かって、別の女子グループのやつらが、コソコソ内緒話をしながら、キモイ、という言葉だけ、わざと聞こえるように言っていた。

 エザキのいない男子グループも、サクラのいない女子グループも、まるで牙のないネコみたいに、シュンとうなだれて、言われるがままだ。中には、泣きそうになってるやつもいる。それを見て、ここぞとばかりに、キモイを連発する女子たち。ついには男子も加担して、キモイんだよ! と、吐き捨てるやつまで出てきた。

 キモイ! キモイ! キモイ! キモイ!

 集団リンチだ、とぼくは思った。その瞬間、むちゃくちゃ気分が悪くなった。それと同時に「あいつら、反省してるよな」とさっきシンが言ったことを思い出し、今にも、やめろよ! と叫び出しそうになった。

 目の前の光景は、エザキたちがレイチェルをいじめていた時と、まったく同じだった。牙のないネコを中心に追い込んで、周りをみんなで囲って、キモイ、という言葉のナイフで、弱ったネコをぶすぶす刺していく……。

「……やめろよ」

 となりで、シンが呟いた。怒りにふるえているのが分かる。ぼくも、同じだ。

 こいつらの味方なんてしたくない、けど、弱いやつをイジメるなんて、サイテーだ。これじゃあ、レイチェルをイジメてるのと、いっしょじゃないか!

「おまえら、うるさいんだよ!」

 その声で、みんなの合唱がふつりと途絶えた。シンが言ったのでも、もちろん、ぼくが言ったのでもない。じゃあ、いったい誰が……

「静かにしろよ、魚がびっくりすんだろ」

 そう言って通路の奥から現れたのは、あのエザキだった。両手に銀のバケツをぶら下げている。着ているものは、ズボンとエプロンがそのままつながっているような服で、たぶん、ツナギ、というやつだった。よく漁師の人とかが着ているやつと似ている。さらに、足には黒い長ぐつをはいていた。

「エザキ、おまえ、そのカッコ……」

 シンが面食らいながら言った。エザキは、ちょっと照れくさそうに笑って、

「実はおれ、ここの手伝いしてんだ。……これ、レイチェルのエサ」

 言いながら、バケツに目を落とす。そこには、きっちり処理された魚がたくさん入っていた。

「サボってたんじゃなかったのかよ」

 シンが言うと、エザキは唇をかんでから、苦い顔で答えた。

「レイチェル、おれのせいで、泳げなくなったんだ」

「なんだって?」

 思わずぼくは詰め寄っていた。エザキは顔をそむけながら言う。

「そこまで傷つけるなんて、思わなかったんだよ、おれ、びっくりして……」

「でも、今日はショーなんだろ?」

「そうだよ」

 低い声が言った。エザキじゃない。見上げると、いつからそこにいたのか、エザキの後ろにゴウダさんが立っていた。女子がケガをしたあの時、真っ先に駆けつけて救急車を呼んだ人だ。あの後、ぼくとシンは追い返され、それから一度も、会っていなかった。

 いきなりの登場に、ぼくとシンだけじゃなく、そこにいたみんなも驚いているみたいだった。ゴウダさんは落ち着いた笑みを浮かべながら、みんなに向かって言った。

「レイチェルは、あれからずいぶん、がんばった。また泳げるように、何度も水にもぐって、リハビリを続けた。一日だって休んだことはない。だからみんな、今日は、レイチェルを応援してやってほしい。みんなの励ましがあれば、きっとレイチェルは、ショーを成功させることができるはずだ」

 ゴウダさんの目は少し赤かった。本気でみんなに語りかけているんだということが、心臓の奥にまで伝わってくるような感じだった。そんなことは生まれて初めてだった。なにしろ、大人の男の人が、ぼくらにお願いをするなんて、そんなの、聞いたことがない。

 分かりました、と返事をするつもりで前を向いたら、エザキが泣いていた。それも、声を殺して、歯を食いしばって、必死になにかを我慢するみたいに。そんなエザキの頭に、ゴウダさんの大きな手が、ぽん、と乗った。エザキの頭が、少し沈んだ。

 その時、サクラのいない女子グループに、フジモリが近づいていった。たぶん、フジモリは、キモイ、なんて言っていないはずだ。それなのに、フジモリは「ごめんね」とあやまった。すると、後ろにいた女子たちも集まってきて「キモイなんて言って、ごめん」とあやまり出した。男子たちも「悪かったよ」とあやまっている。

「さあ、みんな、もうすぐショーが始まるぞ。レイチェルを応援しに行こう!」

 ゴウダさんのかけ声に、みんなが一斉にうなずいた。エザキを先頭に、通路を歩きだす。その様子を見ていたら、なんだか、熱いものが胸にこみあげてきた。これじゃあ、ぼくまで、泣いてしまいそうだ。

「おれたちも行こうぜ、タク」

 シンが、久しぶりに見る笑顔で、そう言った。

「ご来場のみなさま、これより、イルカのショーを開催します! どうか、イルカたちの登場に、大きな拍手をお願いしまーす!」

 調教師のお姉さんが、マイクを持って元気に言うと、客席から割れるような拍手が鳴った。中でも、ひときわ響いているのは、ぼくたちのいる客席で、ぼくらはみんな、手のひらが痛くなるくらい、両手を叩き合わせた。それに合わせて、イルカたちが四頭、どこからともなく浮上してくるなり、順番にジャンプをした。

 レイチェルがいない。

 ぼくらは不安になる。胸が痛いくらいだ。様子を見守っていると、四頭のイルカたちは次々に技を繰り広げ、やがていなくなり、今度はアシカが現れて、逆立ちなんかして見せている。

 なんで? レイチェルはどこだ? まさか、出てこられないのか?

 イルカのショーで、こんなに楽しくないのは、初めてだった。楽しんでなんかいられない、レイチェルが出てこなければ、ぼくらがここにいる意味はないのだ。

「なあシン、レイチェルはまだなのかな?」

 あまりにも不安なので、隣のシンに聞くと、思いがけず緊張した顔をしていた。

「わ、わかんねえよ、とにかく、待つしかないだろ」

 いつになくソワソワしている。そんなシンを見るのもはじめてだった。おかげで、いくらか少し、落ち着いてきたみたいだ。シンには悪いけど。

「さあーてお待ちかね、次はいよいよ、バンドウイルカの子ども、レイチェルの登場でーす!」

 お姉さんの声がはっきり耳に届いた。ぼくはハッとして、プールを凝視した。周りでは拍手が鳴っている。ぼくも、みんなも、もう叩きすぎて手のひらの感覚がなくなるくらい、両手を叩いた。

 プールの水面に、スーっと黒い影が浮かんできた。でも、様子が変だ、ぐるぐる回っているだけで、ちっともジャンプしようとしない、その気配すらない。やっぱり駄目なのか、と思ったとき、シンが叫んだ。

「レイチェル、がんばれー!」

 その声をきっかけに、みんなが立ち上がった。

「レイチェル、みんなここにいるよ!」

「負けるなレイチェル!」

「レイチェルなら、絶対にできる!」

 ぼくらはレイチェルを呼び続けた。みんなの願いは一つだ、レイチェルの力になりたい、ただ、それだけの気持ちをこめて、レイチェルの名前を呼ぶ。声がかすれて、ノドがヒリヒリ痛くなって、涙が出そうだ。

 ぼくたちの声援に、周りにいた家族連れやカップルなんかが、ギョッとしているみたいだった。でも、ぼくらは気にもしなかった。すると、ぼくら以外の人たちも、レイチェルを応援しはじめたので、屋外プールの会場の声援は、天まで届こうかというほど大きくなった。

 その時、水面をぐるぐる回っていた影が、すさまじいスピードではしから泳いできて、中心に達した瞬間、スパン、と飛び上がった。

 ジャンプだ!

 レイチェルが、ジャンプした!

 みんな目をいっぱいに開いてそれを見つめた。時が止まっているみたいだった。レイチェルは、空中でくるんと一回転すると、上から吊り下げられた黄色いボールに、パン、と尾びれを当ててみせた。青い空をバックに、太陽の光を浴びた水しぶきがキラキラと散り、レイチェルを包み込むようにして、水面に戻っていく。

 バシャン!

 黒い影が水の中を走り、消えた。

「みなさん、レイチェルに、大きな拍手をお願いしまーす!」

 お姉さんの声に、会場から、今までよりもっともっと大きな拍手が沸いた。

「やったな、シン!」

「タク!」

 いつもはクールなタクが、ぼくと抱き合って背中を叩いた。その時、座席の列の上の方に、サクラの姿を見た。先生が隣に立っている、ということは、あらかじめ先生に連れてこられていたのかもしれない。泣きながら、仲間と抱き合って、レイチェルを祝福しているということは、きっと、ぼくらと一緒になって、必死にレイチェルを応援していたに違いない。ぼくは、心から、サクラが元気になってよかったと思った。

 その日レイチェルは、ぼくらの英雄になった。だけど、レイチェルが学校に戻ってくることは、もうない。エザキも、ぼくも、シンも、みんなも、泣きながらレイチェルにさよならを言った。

 あれから何日も過ぎた。もうすぐ、クリスマスだ。街はイルミネーションに飾られ、サンタのカッコをした大人なんかが、ティッシュをくばっている。

 学校帰り、ぼくはジュクで、シンはゲーセン。

「明日はおれんちに来るだろ?」

「それもいいけど、ゴウダさんとこ行かないか?」

「水族館?」

「うん」

「そういや、エザキのやつ、がんばってるってな」

「差し入れでも持っていってやろうぜ」

「あいつ、泣いて喜ぶぞ」

 ぼくらは笑った。それから「じゃあな」と言って別れ際、互いにこぶしをつき出す。コツン、と当てて、同時に背中を向ける。これがぼくらのあいさつ。そうして歩き始める。

 ふと見上げた空は、ぶ厚い雲でおおわれていた。でも、その雲の形と色が、レイチェルに似ている。

 見上げれば、いつもそこにレイチェルがいる。

 レイチェルは、ぼくらに、大切なことを教えてくれたんだ。

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