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夜のミステリー「竜になった男」

 同僚が「俺は竜になる、だから会社には行けない」というメールを自宅のパソコンに送りつけてきたその翌日、首を吊って死んだ。もともと口数が少なく、何を考えているのか読めない奴ではあったが、死ぬほどの悩みを抱えているようには見えなかった。仕事で大きなミスをしたことはあったが、上司にこってり絞られた後もどこか超然としていて、落ち込む様子はなかった。ねぎらいの言葉など要らぬという風情が、やけにさっぱりして見えたのを覚えている。だからという訳ではないが、少なくとも俺の目に映る奴はしごくマトモだった。

 ただ一度だけ……奴が窓の向こうに目をやり、こう呟くのを聞いたことがあった。

「いつか―――すべてがひっくり返る」

 俺はメールのことを誰にも言わなかったし、受信箱に入れたまま見返さないようにした。そこに奴の気配を感じ取ることが恐怖であった。遺言であるかもしれぬそれ自体を抱えている状態にまたぞっとして、結局は何も見なかったつもりで画面を閉じた。俺にとっては消去するよりマシであろうと思える行動だった。

 沖縄に雪が降ったというニュースが世間を騒がせたその年、俺は課長に昇進した。六月、会社の受付嬢と挙式を済ませ、七月、子供が生まれ、八月、狭いアパートから新居のマンションに引っ越し、九月、妻の父親が急死した。癌という宣告を受けてから半月後のことだった。

 葬式の日は嵐になった。どす黒い空の下、ごうごうと吹き荒れる雨風に参列者の数は少なく、葬式は俺が想像する以上に素っ気ないものとなった。翌日、子供が熱を出したので妻が病院に連れて行くと、このままでは肺炎になるので入院しなければ駄目だと言われ、結局そのまま付きっきりとなり、葬式はますますおざなりになってしまった。自宅に帰った後、俺はお義父さんに申し訳ありませんと手を合わせた。仏壇の奥に飾られた写真立ての中で笑うお義父さんの目が、心なしか冷たい光を帯びている気がした。

 嵐はなかなか収まらなかった。やがてあちこちで水があふれ、道路は冠水し、山は土砂崩れを起こし、家が濁流に飲み込まれ、多くの人が命を落としていくなかで、俺の子供も死んでしまった。妻は放心状態になり、マンションに帰ってからも心ここにあらずという風情で、泣き腫らした目でじっとベビーベッドを見ていた。それきり話しかけても返事をしなくなった妻は、少し目を離した隙にマンションの外へ出てしまい、行方が分からなくなった。

 嵐はどんどん勢力を増していった。俺は成す術もなくその様子を見ていた。ライフラインは絶たれ、もはや自衛隊の手には負えぬほど外は荒れ狂っていた。電力の通わぬマンションの十二階で、俺は頭から毛布を被り、残り少ない蝋燭の火を前にガタガタ震えていた。田舎の両親とは連絡がとれず、パソコンを使って今の状況を確認することもできない。

 パソコン―――。

 忘れていた記憶が呼び起こされた。刹那、窓の外が真っ白に光り、天井が割れるような轟音が響きわたった。俺は這うように部屋の中を進み、いつも仕事で使っている机にしがみついた。もう一週間ものあいだ水しか口にしていないので目はかすみ、手足にはほどんど力が入らない。なんとか椅子に座ると息が切れていた。幸いノートパソコンのバッテリー残量はまだある。どうせネットも繋がらないと諦めていたことが逆によかった。

 電源を入れて立ち上がるのを待つ間、しばらく窓の外をじっと眺めていたら、どす黒く渦巻く雲の隙間から、細長いものがにゅるにゅる降りてくるのが見えた。その光景はまさに天から竜が生まれる瞬間を見るようだった。俺は震えた。

 奴だ―――。

 急いでパソコンに目を戻し、ふるえる指でキーボードを叩いた。呼び出したメールの受信箱を探し当てると、急いで返信用のページを開いた。

〈竜になったんだな、分かった、会社には俺から伝えておくから安心しろ〉

 それだけ打って送信ボタンを押した―――瞬間、窓ガラスが割れた。俺はぎゅっと目を閉じ、両手で頭をかかえた。どれくらいそうしていたのか……気がつけば音が止み、辺りは静まり返っている。おそるおそる顔を上げ、窓の外を見ると、あれだけ猛り狂っていた風雨がぴたりと止んでいた。竜巻も消えており、灰色の雲の切れ間からは淡い光が差していた。どうしてもっと早くそうしてやらなかったのだろう。

 俺は大声を上げて泣いた。

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