脱皮:思考の脱皮はいつだって人の愛が存在するからだ

10代の頃の一時期は、自分に降りかかった災難や何かしらの今の世での生きづらさ、外界と上手く接続されない悔しさなどネガティブなパワーをぶつける対象として作品を作っていた。紙とペンで毎朝電車の中で描きなぐるそこに自傷的なカタルシスがあった。
だけどその表現行為は共に似たような境遇やネガティブな実体験の経験者らの心には共感してもらえる事が多かったけれど、親や、私の内側のネガティブな側面にあまり理解を示さない知人らには受け入れてもらえなかった。自分としても、この自傷の産物らは自分の心を癒すためにのみ生まれてきたものであって、これを共通言語として外界と繋がりたいとか、作品を公に問題提起として発信して認知されたいといった願望はなかったし、これは個人の苦しみなんだから、他人に投げかけるメッセージではなくて、苦しくても私自身が乗り越えなければならない現世で試されている業なのだと考えていた。
その後何回かの挫折と、何回かの転機を繰り返して、沢山の人々と多様な思想に触れる機会に恵まれ、ようやく自分の作品も誰かの役に立つのかもしれないと淡い希望を感じられるようになった時に、私の思考と脳内の色感はだんだんネガティブな側面の自分に縛られなくなって、より自由に毒っ気の無い色彩が広がっていった。人との縁や人に感謝する心や人を信じる(愛する)心を取り戻せた時だった。
自傷ではなく、本当に、今、絵が描ける感謝と自分が立ち向かった表現で作品が魅せてくれる、たくさんの絵画との御喋りの中で、毒っ気から脱皮した新たな自分の視点に辿り着く事が出来た。以前よりも前向きな表現になってからの方がたくさんの人達と繋がっていけるようになったし、呪いのような孤独感はほとんどなくなった。

作品作りに限らず自分の心や居場所が誰かに認めれた時にネガティブな呪詛から初めて解き放たれるみたいだ。

私は作家の実体験に基づかない文脈先行の現代アートや社会風刺的なアートはもともとあまり好みではないけれど(作家の経験した人生観と実物の作品力で圧倒してくれるアートが好き)
何かへの不満や生きづらさをアートで表現する人達の気持ちを全く共感できないわけではない。
だけど、芸術家ならば、そういった何か辛い出来事があったり理解してもらえない個人の苦しみからは早く脱皮して、辛い、暗いひとりぼっちの思想の哀しみに縛られないで、活動家の都合のいいマスコットになってしまわないように。
その作家やその周りの人達が自身が本当に美しいアートが表現できて誕生できて幸せだと感じられるような、そんな未来(作品)まで諦めないでたどり着いて欲しいなと思ってる。

自分と異なる思考の存在と対峙した時に、思わず自己の考えの保身に走りやすいのが人間の性でもあるから。
アートやアートの表現者が全能みたいな思想にも傾倒しすぎてしまうとアートというジャンルへの理解がまだ浅い方々には誤解を与えるだけになってしまうし、
また孤独感を背負わせた作品しか生まれなくなってしまう。

特定の哀しみにだけ縛り付けられたアートはなかなか万人には共感してもらえない。

観てもらう相手(鑑賞者)の心にも寄り添う意識が作品に反映されてないと、アートはただの厄介者の産物としか認知されない。

社会との接続や共生を求める芸術家ならば他者の考えにも良く耳を傾けて、想いのキャッチボールをしたい相手の心にちゃんと届くような表現を携えて、対話に挑んでみる価値があると思う。
それが結果的に自分を拒んだり嫌な相手であっても、一人一人が哀しみの思想から脱して本当のポジティブな自信を持つことが出来れば、あらゆる災悪な現象にもちゃんと冷静な視点で対峙したり、世界の見え方が変わると思っている。

他者の心の前でナイフを振りまわすほど鋭利な主張や思想に陥った時に、ある一定の思想にだけ染まり、その範囲から外側の多様な考えや想いに出会えず何かを恨んだり苦しみ続け終わりを迎えるよりも、人間の本当の姿(魅力)を取り戻すよう、いきてるうちにできる限りたくさんの人や思いに出会って、自らを縛るその哀しみの呪詛から解放して欲しいと願っている。

アートに限らず、厳しい現世の中
人類には何かを乗り越えるチカラ、生きて何か美しい活力がある行動(表現)をするそういう本当のチカラがあるはずなんだから。
眠っているその何かを目覚めさせて、
人生を脱皮し尽くして欲しい。


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