9月13日深夜1時30分と鬱

いつの間にか蝉の声が聞こえなくなっていることに驚きと絶望。
予備校へ向かう以外に外へ出る機会が殆ど無いので、花びらが散り、虫が鳴くような自然な出来事でしか、季節の移り目を感じることがない。
するとあっという間に入試まであと半年。自分はこの6ヶ月どれだけ成長できたのだろうか。
、、、
正直、今の成績では、半年後京大に受かっている姿はまったく見えてこない。
見えるのは、二度目の失敗に悲観し、落胆している自分の姿だけだ。
二度目の挑戦に失敗したとき、京都大学という憧れに夢を見ていた過去の自分と決別することはできているのだろうか。

"この世で最も下劣で、劣小で卑陋なものは、薄くて浅い人間関係だ。"
それはいつの日か、気づけば私という人間を形成する思想の一つとなっていた。そしてまたいつの日か、そのことに疑問を抱かなくなるほどに心に深く根付いていた。
人間関係の在り方についてはまた後日語るとして、結局私の思想の根本的なところには、人間関係に留まらず、趣味,学問,仕事,などのあらゆる物事に対して中途半端な態度で向き合うということに激しい抵抗感、嫌悪感を感じてしまうというものがある。勘違いして欲しくないのは、この主張は、"何事にも真剣に向き合え"という旨の主張ではなく、やめたいならきっぱりと諦めて、続けるのだったら真剣に向き合えという旨の主張である。
すなわち、"あやふやなままにし続けるな"ということが言いたいわけだ。

「嫌々やるくらいなら、やめてしまえばいい、諦めてしまえばいい。」
こういった意見は、しばしば否定的に解釈されがちなのであるが、私は至極当然の主張だと思う。
「諦めずに最後までやりきれ」「そこさえ乗り切れば楽園での暮らしが待っているぞ」といった言葉はどれも、詭弁に過ぎないのではなかろうか。
どれも、やってしまった後悔の味を知らない、無責任な第三者の台詞だ。
"逃げる"ということもまた、数ある正しい選択のうちの一つなのである。
しかし、諦める決心をつけず、ケジメをつけず、あやふやなままにしておくだけでは逃げたことにはならない。
自分の気持ちと向き合わない、そういった卑怯で狡猾な態度が、心の底から嫌いだ。
もちろん、進み続ける覚悟がついたなら、その時には全力で取り組めばいい。
とにかく、"諦める"ということも、尊くて、高尚で立派な選択であるということを忘れないでほしい。

禍福は糾える縄の如し。汗水垂らして手に入れた幸せも、それが本物なのか、そしていつまで続くのかはわからない。不明瞭で不確かな概念。
幸せを過大評価し過ぎなのだ。幸せなんてそこら辺にいくらでも転がっている。大きな幸せばかりに目を向けているせいで、落ちている小さな幸せを見逃しているだけである。
時にはきっぱりと諦めることも大切だ。諦めがつき、未練が無くなった時、改めて周りを見渡してみると、ほんのすぐ側に小さな幸せが落ちていることに気づく。たとえそれが自分の求めていた形と違ったとしても、"塵も積もれば山となる"、なんて言うと胡散臭くもなるのだが、しかし、いつの日か、自分の目指していたものが何であったか忘れるほど、満足のいく幸せを手にしていることだろう。そうでなくとも、そう思った方が諦める決心もつきやすいだろう。

などと、"逃げの選択"に対して前向きに論じてはみたのだけれど、上記の文を書いている最中、自分の現状に、だんだんと他人事だとは思えなくなってきた。精神的自傷行為。というのも、私の受験に対する姿勢が、自身が最も嫌うところである"中途半端な態度"であることに気づいてしまったからだ。
いつまでも京都大学という呪いに縛られ続け、感情を揺さぶられる。下らない自尊心を保ち続けた結果、いつの間にか後戻り出来なくなっている。
理想と現実の間を彷徨い続け、自己を見失う。
いつ乗ったかも忘れた船に、独り、大海原の真ん中に取り残されている。諦める決心がついた者、幸せを手にした者はとうの昔に降りて行った。自分独りだけがまだ、行先を決められないまま、波の流れに身を任せている。

いつか、自分を好きになれる日は来るのだろうか。
少なくとも、霞が立ち、桜の花が咲き染める季節までは自分を嫌いでいるのだろう。
その先、具体的には半年後、自然に笑みを浮かべられる自分がいたらいいなと、心の底から望んでいる。











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