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いじめ問題は語ることができるか。
初めまして。ドイツの大学院で勉強しているマリアです。
先日、講義でG.Cスピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』を取り扱いました。
英語で読んだので100%理解することが出来たのかわかりませんが、噛み砕きながら考えていきたいと思います。
一言で言うと難しかったですね。
でも私はスピヴァクの考えは心の中にスーッと入ってきました。
そもそもサバルタンというのはヘゲモニーを握る権力構造から社会的、政治的、地理的に疎外された人々をさす術語です。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
要は地位が低い人ですね。それも先進国の中で地位が低い人ではなく、発展途上国または後進国の中で低い人たちのことです。
スピヴァクはその人たちは語ることが出来ないと言っています。
理由は簡単です。その人たちは語ることが許される環境、機会、そして「言葉」を持ち合わせていないからです。
これはいじめにも言えることだと思います。
学校という閉ざされた中で、気づいたら階級社会が完成します。Aちゃんは大きな声で喋っていいけど、Bちゃんは小さい声で喋らないといけない。C君が本を読んでいたら、クールで落ち着いてるけど、D君が同じことをやったらガリ勉陰キャになる。など。。。
誰かが決めたわけではないのに、学校の中にサバルタンが存在するのです。残酷ですね。
しかし、「いじめられている」→「いじめられていた」に変わると、その人はもうサバルタンではなくなってしまうのです。
また、いじめられているが発言権がある人たちは本当の意味でサバルタンではないのです。
*いじめられていないという意味ではありません。
そのいじめ構造に存在しない(本当に劣悪ないじめ)、またはその構造から脱出した人たちにいじめを語ることが出来ない。
じゃあどうするべきなのか。
教育システムの脱構築。語ること。沈黙を読むことです。
見えていること聞こえていることが全てではないと意識していても、難しいです。
しかし、そういったことに想像力を働かせられる人になりたいですね。