見出し画像

石岡瑛子展@都現代美&GGG

 今年最初の展覧会は、石岡瑛子をめぐる二つの展覧会へ。

石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか
 @東京都現代美術館

画像1

 石岡瑛子はデザイナーとして、1970年代には資生堂の広告やパルコのCM・ポスターなどで一世を風靡した。1980年代以降は舞台美術や衣装デザインなどにも取り組み、国内外の数多くのアーティストとの共同制作を行う。1987年にはマイルス・デイヴィス『TUTU』のジャケットデザインで日本人初のグラミー賞、1993年にはフランシス・コッポラ監督作品『ドラキュラ』でアカデミー賞衣装デザイン賞を獲得するなど名声を確立した。2000年代にも多数の映画での衣装デザイン、北京五輪開会式の衣装なども手掛けるなど、2012年に亡くなるまで、その制作意欲は留まることを知らなかった。

 東京都現代美術館での今回の展覧会は、世界初となる大規模な回顧展。会期後半には評判が高まって、最後3日間は朝10時半ごろ時点で当日券購入には2時間以上かかったらしい。自分が行ったのは水曜日午前。10時前には到着でき、およそ30分で当日券を購入し入ることが出来たのはラッキーだったか。

 展示は3章構成。国内での広告を中心とした第1章、1980年以降に彼女自身が世界へと向かい、数々のアーティストとぶつかった舞台芸術などでの活躍の第2章、ドラキュラでのアカデミー賞衣装デザイン賞受賞以降の、彼女に魅了されたクリエイターらとの共作も増える2000年代の第3章からなる。

…しかしながら、とにかく体力が抉られる展覧会だ。
 基本的にデザイン系の展覧会を見に行くと、どうにも普通の展覧会の数倍は疲れてしまう。恐らく、普通なら喧噪の街中であっても目を引くように、とエネルギーを注ぎ込んだ作品をホワイトキューブの中で次々と見るので消耗が激しいのだろう。ただ今回は、更にインパクトの強さに圧倒された感覚だ。パルコのCMや映画『MISHIMA』の美術などに感じた石岡のデザインそのもののパワーも勿論だが、共同制作での共演陣がマイルス・デイヴィス、フランシス・コッポラ、リーフェンシュタール、ビョーク、ターセム・シンなど、メディアを問わずエネルギー溢れる人間たちだったこともやはり大きな一因だろう。各セクションで見られる作品映像を追っているだけでかなりの充足感と疲労感だ。

 ある意味、石岡の表現に圧倒された、と言う感覚が少ないのこそ、むしろ石岡の表現の賜物なのかもしれない。アドキャンペーンでもグラフィックアートでも、石岡の目は最小限に見える。普遍性をもつ純粋な主張は、誰しもに刺さる表現で提示される。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 石岡は1990年代以降、「ビジュアル・アーティスト」と自称していた。グラフィック・デザイナーという枠に収まらず、CM、ポスター、ジャケットデザイン、MVのコンテ、衣装デザイン、舞台美術など、本当に多岐にわたる制作を行っている。
 その多彩さの一方で、石岡の制作には一貫した姿勢があるように思える。石岡は、何にも縛られずただ石岡自身の価値観に基づいて評価された対象を、石岡自身が鋭敏にその感覚を捉えることで表現していることだ。言い方を簡単にすれば、「素直に感じ、捉え、そのままに表現する」。簡単そうに見えて、この事のなんと難しい事か。

 昨今の芸術文化でも議題となる差別撤廃の動きの中で、社会的弱者のための一定の基準を満たすことが必要と考えられるケースも増えているが、それは決して、形式的な基準に依存することで明瞭に成果を得ようとしているのではなく、無意識のレベルまで平等な価値観で判断することの難しさゆえの形式化なのだと思う。石岡はその難しさなしに、何にも縛られずに相手を評価して、広告に起用する、または共に制作する。
 インド・モロッコなどで取材を行う、黒人女性を起用するなどしたパルコの広告は、社会的なメッセージとしての発信も見てとることが出来るだろうが、安易に目を引く奇抜さが中心ではない。何より、広告に立ち込める「カッコよさ」が全てだ。石岡がここで被写体に見いだしていたのは人体と存在のもつ鋭さだと感じる。
 そして、多くのアーティストとの間でなされた数々の共同制作では、決して相手のアーティストの制作に吸収されることなく石岡らしさを存分に出しながらも、相手への敬意は十分に感じられるものばかりだ。リーフェンシュタールの日本での再評価を導いた彼女に関する仕事はその最たるものだろう。それは、相手の創造性を評価する姿勢もあるだろうが、石岡自身が相手を十分に理解した上で制作に取り組んだことも関係する。作品展や装丁などを手掛ける際はその対象に対して十分に調べ、理解した上でとりかかったという。石岡は常に、表面的だったり慣習的なイメージに縛られることなく、彼女自身のうちで磨かれた審美眼・価値観に従って対象を見て理解していたのだろう。
 それだけでない。そうして得た評価・感覚に石岡自身が鋭敏であった。裸体デッサンなどのアカデミックな教育が中心だった藝大生時代、他のデザイン科学生が新しい技術などへと目を移らせていたのに対して、石岡は、こうしたアカデミックな教育を通して創造者としての基礎を磨くことが重要と考え、熱心に取り組んだという。また石岡は、数々のアーティストと共演を重ねる中で、表現することには鍛錬 "Discipline" が必要である、ということも繰り返し聞いてきたという。考えることをかたちにする難しさは小手先で解決するものではない。自身の価値観・主張をどこまで実直に伝えることが出来るのか。展示ではデザインへの指示などの残るトレースペーパーも置かれていたが、そこにはわずかな明るさや色味をも追及する指示が数多く書かれていた。カメラマンや印刷業者に至るまで取り込んで、自身の表現を追求した石岡の姿勢がはっきりと見てとれる。
 「レボリューショナリー」、「タイムレス」、「オリジナリティー」。石岡は、3つの言葉をデザインをする上で繰り返し唱えていたという。「革新性」を持ちながら、「時代性を超越するもの」を、「彼女自身の感覚」でとらえて表現する。彼女のデザインを見て、一切の古めかしさや時代性を感じないのは、まさにその「表現力」の高さの現れなのだろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 昼食は都現代美のカフェで。ようやく一休みして疲れがとれてくると、今回の展覧会の充実ぶり、そして石岡の表現力の凄みを改めてひしひしと感じる。
 石岡のグラフィックデザインについては、銀座にも展示がある。関連展、というよりはもうひと展示、と言う感じの雰囲気。せっかくなのでそのまま足を運ぼう。


石岡瑛子 グラフィックデザインはサバイブできるか
 @GGG(ギンザ・グラフィック・
ギャラリー)

画像2

 銀座のGGGは、大日本印刷(DNP)が設立したグラフィックデザイン専門のギャラリー。こちらでも石岡瑛子作品の展示がされている。

 1階には著書などから引用された石岡の言葉が所狭しと並ぶ。会場BGMは、石岡が美術を手掛けた映画『MISHIMA』で音楽を担当するなど、石岡とのつながりも深い(恐らく)フィリップ・グラスの音楽だ(ちゃんと確認すりゃよかった…)。

画像3

 掲げられた石岡の言葉には、多くの業績を積み重ねてきた成功者としての「自信」などは感じない。むしろ、どれにもクリエイターとしての「覚悟」を感じる。クリエイティビティの本質は「いつも崖っぷちにつま先で立ってる(*1)」ような実感の中にある、という言葉に象徴されるかもしれない。今これから挑戦していくこと、新たな表現・創造に向かっていくことへの勇気をもらえるような言葉ばかりだ。

 地下1階に作品展示。現在は後期、グラフィックアート篇として、初期のグラフィック作品、本の装丁・挿絵、映画・展示ポスターなどが展示中だ。地下階には都現代美と同様に石岡のインタビュー音声が流れているが、都現代美がキャプションは僅かに作品が所せましと並んでいたのに対し、こちらでは1983年にそれまでの制作の集大成として彼女自身が出版した本、『石岡瑛子風姿花伝 Eiko by Eiko』においての作品への言及箇所が記されている。リーフェンシュタールの展示でのコンセプトや、作品ごとへの彼女の思いが言葉でも表されるのは有り難いものもある反面、本の装丁などで彼女の創作意欲を十分には導かなかったものもあることが分かって苦笑いするものもある。

 地下階で展示を見て、ふと1階の彼女の言葉を見返しに行って、などと繰り返していれば時間はあっという間に立って行く。各階1室のそれほど大きくないギャラリーであるが、時が経つのを忘れて眺めてしまう。

 商品広告にも例外はあるが、グラフィックアートでは特に、明確な定義や情報を明瞭に伝えることが目的とはならず、見るものの時間を必要とするものが多い。理解に時間がかかるのではなく、考えを誘うようなもの。社会的なメッセージを時に孕むが、それ以上にまさに「広告」として、対象のコンセプトや価値を我々へと投げてくる。デザインとはそういうもの、なのかもしれないが、目的のための手段として、手の内に表現が入っていることを改めて思う。表現そのものには鍛錬が必要であること、そして、自分を社会に投げて、リアクションを見る、つまり自分を視ること。彼女の言葉が様々に頭をよぎる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 都現代美の『石岡瑛子展』は先週末で終わってしまったが、GGGは3月19日まで。スペースは限られるが、下書き段階や校正のトレースペーパーもあるなど内容は充実していて、GGGの展示だけでも石岡の「表現」への姿勢を理解するには十分だ。
 今まさに新しい事に取り組もうとしている人たちや、挑戦する中で壁にぶつかっている人たち、またそれに限らず今の社会で生きる人たちに勇気や元気を与える内容だ。GGGは銀座のライオンから徒歩1分ほどのところ。午後7時まで開館、観覧も無料。写真撮影も自由(ただしヒロシマアピールのポスターのみ著作権の問題で撮影不可(理由は検索推奨))。かなりオススメの展覧会だ。

 今年最初の展覧会だったが、それにふさわしいような、印象深い展覧会だった。ようやく社会人の一歩目を踏み出す今年。クリエイティビティの中で生きた石岡瑛子の名を忘れることはなさそうだ。


2021. 2. 15

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

《石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか》 東京都現代美術館
 ※会期終了

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

《石岡瑛子 グラフィックデザインはサバイブできるか》
 ギンザ・グラフィック・ギャラリー(地下鉄 銀座駅から徒歩5分)

 会期:~3月19日(金)
 休館:日・祝日
 時間:11:00~19:00
 入場無料

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(*1)『石岡瑛子 グラフィックデザインはサバイブできるか』チラシ内、河尻亨一氏の文章内に著述された、2008年のインタビュー内容より抜粋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?