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ブンケイ?リケイ?バカ?

「あ〜、なんか理系っぽ〜い。」

「絶対文系だと思った〜。」

お馬鹿な会話である。

高校に進学したころからまことしやかに囁かれる人間の分類、理系と文系。数学や物理学などを学ぶ人を理系と呼び、国語や歴史などを学ぶ人を文系と呼ぶ。

一度その人がどちらに属しているのかが分かると、その人の何かが分かったような気になる。また、不用意に「理系です。」などと言ってしまうと、自分でも何か従わなければいけない規範がそこにあるように感じてしまう。

しかしよく考えてほしい。そもそも人間を二種類に分けることなどできるのだろうか。血液型でも4つ以上ある。性別でさえも、男や女といったカテゴリーに当てはまらない人はたくさんいる。

大体、専門分野といっても、ここでいう文系や理系にあてはめられないようなものもあるだろう。その2つが融合しているような領域もあるだろう。文系、理系と分けて考えてしまうと、こういった領域は思考の外に追いやられてしまう。

なんともナンセンスな二分法である。

しかし、この概念は長きに渡って日本社会で使われ続けている。最初に書いたようなお馬鹿な会話は今日もどこかで繰り広げられているのである。それはなぜだろうか。

私が思うにそれは、自分ができないことに対する言い訳をするためである。

例えば、ここに、英語ができないことをコンプレックスに感じている人がいるとする。英語のできる同僚が出世していくのを見て、やらなければいけないと思いながらもずっとやってこなかった自分を後ろめたく思っている。

そんなとき、彼を救うのは彼が理系であったという事実である。同僚を見て、劣等感や焦燥感に駆られたとしても、「あいつは、文系だったから英語ができるんだ。俺は理系だったから英語ができなくてもしょうがない。むしろ、当たり前のことさ。」と、自分を慰めることができるのである。

こうした言い訳をするのに非常に便利であるため、文系、理系という概念は廃れずに使い続けられているのだと思う。

しかし、これはあくまでもその場しのぎの言い訳にすぎない。理系という名の盾をいくら振りかざしたところで、彼が英語ができないという事実は変わらず、そんな彼を英語ができる同僚と同じように扱ってくれる上司は現れない。その状況は一向に好転しない。

英語はできないよりもできたほうが良いに決まっている。数字には弱いより強い方が良いに決まっている。文系だろうが、理系だろうが、関係ナイ。

自分が高校や大学で何を学び、何を専門にしたかなど、これからの未来を生きていく私達には何も関係ない。学んだことを覚えておくことは重要だが、それに縛られ、それを言い訳にし、身につけるべき能力や、立ち向かうべき壁から逃げてはいけない。

第一、私が思うに、全ての人間の専門分野は「生きること」である。これは、理系や文系というカテゴリー収まるような小さなものではない。

外からの呼ばれ方に自分の人生の幅を決めさせないようにしたい。


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Takumiのessay
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