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一日一句、ことはじめ。あるいは、「自分の想い」を表現するリハビリ


腹の音の嬉しき五十 大寒の朝

年末から、やろうやろうと思ってかれこれひと月以上、いやいや、本当言えばもっと前から取り掛かりたいと思っているのに、なかなか“ソノコト”の一歩が踏み出せない今日この頃。

日々、目が覚めて、布団のなかで、
「さあ、まだ午前中。アレをしてコレをすれば……おお、今日こそはじめられそうだ」
と、“新しい自分☆”の誕生にワクワクしているのが、起き上がって、ソレやらドレやらを片付け、工やら老やらを弾いているうちに(三線の音階のことです)、結局日が暮れて、子どもらと食卓を囲みながらアルコールの入った飲み物(ワンコインワイン、ときどきビールまたは日本酒)を飲んでTVの画面に流れ映るニュースやらバラエティやら子どもが録画したアニメやらを見て、風呂に入りながら本を読む頃になって、
「(はっ!)今日も結局はじめなかったことだよ。よよよ」
となり、
まぁ、でも、これはきっとまだ機が熟していないのだろう、
ということにして、やり過ごしてきたのです。今日まで。

でも、今日の私は昨日までの私じゃない。
前夜の風呂で、「人々は毎朝、生まれ変わっている」(『ペルソナ~脳に潜む闇』中野信子・著より)というフレーズを読んだからかしらん。

そうだ、俳句を詠もう。

毎日、早かろうが遅かろうが、
朝だろうが、昼だろうが、夕方になろうが、
必ずその日のうちに寝床から起きるように、
一日一句つくってみよう。

「五七五の音と季語が必要らしい」だけの知識からでいい。
下手で上等。
言い訳なし。

そう決めて、布団のなかで作った最初の句が冒頭のもの。
句の背景を記しておくと、
最近、目覚めたとき、なんとなく胃が重いことが多かった。胃のむかつき、とまでいかないけれど、すっきりしない。もちろん、空腹も感じない。
樋口惠子さんが、「70代までは、朝、お腹が空いて目が覚めたけど、80過ぎて空腹感がなくなった」といったこと(うろ覚えです)を著書で書いておられたのを読んで、
「そういえば、10代の頃は朝からトンカツとか食べたいと思えたっけ」
などと思い出し、個体差はあれ(樋口先生は80代で感じたものを50代で感じるって…)、身体の老化というものについて思いを馳せることが以前より増えたわけです(これ以外にもナイターでボールが見えにくいとか、かかとがひび割れてきたとか、いろいろ気づくことの多い今日この頃)。

それが、今朝は、起きたらお腹が空いてたんですよっ(コーフン)。

「新しい朝が来た。希望の朝だ」とラジオ体操の歌を脳内に響かせながら、いつもどおり布団のなかで「アレしてコレして……」をやりながら、いつもとは違う回路で、
「最近仕事がなくて(おっふ)時間があるにもかかわらず、念願のアノコトがはじめられていないのは、よくいえば安寧でマンネリな日々のせいではなかろうか。
ならば、何か新しいことをはじめてみてはどうだろう。
できれば、あんまり心身の労力を必要としないことがいい。でもって、すぐにできて、自分の糧になって、楽しんでできて、進歩のほどをひと様に気軽に見てもらえるものがいい。
初めてのもの、拙いもので、その習熟の経過をさらすのがよいかもしれない。日記的なもの。さて。

ボランティア、サークルなど、集団でするものは時期的に(緊急事態宣言下)むずかしい。
ジョギング……は、去年の自粛期間中にトライしたら2日で股関節が痛くなったからやめておこう。
英語の勉強……は、留学の予定も昇進試験の必要もないし、目標が明確じゃないとモチベーションが続かない。

そうだ、俳句をつくろう。
*前の週に見た『プレバト!!』の影響。森口瑤子氏の句がとてもよかったのです。我ながら安直……いえ素直な発想でほほえましい。

(京都に行くより)すぐできて、お金もかからず(入門書は注文しましたが)、言葉にかかわる稼業の勉強にもなる。
何より、取り組みたい“アノコト”の助走というかトレーニングにもいい(はず)。

そんな経緯ではじめた一日一句。

これは、そんな「書くこと」を稼業としているものの、「自分の想い」を公表することにあまり慣れていない者による、
「自意識過剰な自分を受け入れて表現できるようになるためのリハビリ」の一環です。

50歳からはじめる一日一句、さていかに。

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