オタクは作品を見てるから宇崎ちゃんコラボは第1弾も第2弾も同じって言う

そろそろ、「宇崎ちゃんコラボ第1弾を非難してた人達が第2弾を絶賛してるけど、第1弾も第2弾も変わってないんだが」という意見に対して「こことこことここが変わってるのにホントに分からないのか」とポジショントークを始める人達が出てくる頃なので、ちょっと思っていることを書く。

第1弾と第2弾のコラボが同じモノなわけないでしょってそりゃオタクもみんなわかってるよ。だって一枚画と2ページ漫画なんだし、そんなもん同じなわけないでしょ。だから「変わってないんだが」と言っているオタクは別に2回のコラボの表現の違いがわかっていないわけではない。

宇崎ちゃんは遊びたい!という作品を少しでも知っている人にとっては、コラボ第1弾(漫画3巻表紙)の一枚画も、コラボ第2弾の2ページ漫画も、刊行済みの漫画の内容も、全部一貫して宇崎ちゃんは遊びたい!という作品なわけであり、そこに同一性を見いだしているからこそ「変わってない」と言っているわけである。おっぱいがSUGOI DEKAIのも変わってないし、先輩を馬鹿にするからかいを入れるのも変わってない。それらをひっくるめて宇崎ちゃんという作品だと最初から認識している人間にとっては、両者は同じ宇崎ちゃんコラボなわけである。

で、最初から一貫してオタクが主張していることは何か。
「個人の好き嫌いにすぎない話を、一般的正義であるかのように語り、キャンペーンをやめさせようとかするな」
なわけだ。

念のため一度振り返ると、宇崎ちゃんの炎上に関しては事の発端は「変な日本を紹介する外国人アカウント」と「大田なにがし弁護士」がツイッター上で宇崎ちゃんのポスターを挙げてけしからん、環境型セクハラだ、と騒ぎ出したことである。で、色んな人が声を上げ始めて、顔が媚びている、胸が妙に強調されていて男に媚びている、献血を煽っている、だのが「後付けで」言われ始めたのである。

後付けの理由の方はこの際どうでもいい。世の中、後付けで良いなら大抵のことに善し悪しの理由付けは出来るので、ここは一度原点に立ち返ることにしよう。

漫画になって原作未読の人にも文脈がわかるようになりました。一枚画じゃない分特徴を強調する描き方じゃなくなりました。会話があるので台詞のキャッチーさも抑えられました。
でも本質的に描かれているものは全て宇崎ちゃんは遊びたい!という作品から極めて連続的に出てくるものなんですよね。そういう意味で「変わってない」んですよ。
そんなちょっとした変化だけで、かたや日本赤十字に問い合わせるほど怒りを露わにし、かたや「いいですね」と賞賛する。その感情の振れ幅が私には怖い。
結局、今後いつなんとき彼らの「気に障った」からといって攻撃をされるともしれない。
恐らく私にとっては「どっちかというと嫌い」「どっちかというと好き」くらいの感情の振れ幅が彼らにとっては敵として徹底的に叩くから褒めてあげるくらいまでの幅に拡張されているのだ。はっきり言って、そこまで感情の振れ幅が違うと付き合ってられないとなる。

だから、自分の嫌いをもっともらしく理由付けて他人に押しつけようとする人を、相手にしてはいけないと思う。いずれ自分も彼らと同じような感情増倍管になりかねない。

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