8 今を生きる

先日曽祖母と祖父の法事があり、墓を置いているお寺のお坊さんにお経とお話をいただいてきた。事柄が事柄なので、どうしても人の生死や存命の時の思い出が話題にあがる。印象深いのは、私の曽祖母とお坊さんのやりとりについてだ。曽祖母は長生きだったらしく、100歳を超えていたとか。その一方で曽祖父とは早くに死別しており、ずいぶんと1人の期間が長かったようだ。お坊さんとこんな話をしていたという。

「私はもう長くはない。こんなシワだらけになった姿で向こうに行って、お父さん(曽祖父)は分かってくれるかねえ」「大丈夫ですよ。人は死ぬと、身体はこの世に置いていき、心だけが向こうに行くのです。だから、お父さんはあなたをちゃんと見つけられますよ」
私は霊的な話を普段しないもので、そういった視点は持ち合わせていなかった。この世を離れた人とまた出会うことを望み、またそこに不安も抱き救いを求める。これら情緒の営みの蓄積が宗教につながるのかと、浅学ながら考えていた。

そのまた後日。所用で近所を歩いているときに、人が死ぬ時はどのような感覚なのだろうと疑問を抱いた。法事を経ての休日なのだから無理もない。
私たちは眠る時に意識を失う。朝になれば睡眠状態が終わり目を覚ますわけだが、死ぬ時はこの目覚めが永遠に来ないのだ。その感覚がどうにも分からない。命が巡る輪廻転生の考えでは、様々な生き物は死ぬとまた別の生き物として生まれ変わるらしい。生き物Aとして死を迎え意識を永遠に失った後、生き物Bとして目覚めを体験する…のだろうか。分からない。まだ死んでいないから分からない。分かった時には「私」は死んでいるのだから、「私」はその感覚を永遠に理解できないのだろう。なんとも悔しい。

などと生き死にについて考えていたが、このようなことを考える時、私は大抵暇なのである。人間暇な時は碌なことを考えない。本気で自らの死と向き合い考えている人には大変失礼であることは承知である。許してほしい。その一方で、これだけ碌なことを考えられるだけの暇な時間を持てていることこそ、幸せなのだろうとも思う。何かに追い立てられるわけでもなく、義務的に思索を巡らせる必要も無く、人生に絶望しているわけでもない。これほど恵まれた環境にいて幸せなことがあるだろうか。当然、家事や日々の出勤など、生きるためにやるべきことはたくさんある。自分の今や将来を良くするために勉強もしている。自身に渦巻く考えを澱のように溜めないために、また考えを整理するためにこれらの投稿もしている。何かとやっていることがあるなか、暇な時間が取れるのは幸せなことだし、暇な時間を意図的に作っていきたいと思う。余白があってこその人生だと考えている。

私は今を生きていたいのだ。より良い今を生きるために、僅かでも碌なことを考えない暇な時間を大切にしたい。余白をもって生きていこうじゃないか。



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