原水爆禁止2024年世界大会・広島に参加して
実は昨年も原水爆禁止世界大会への参加の打診がありました。昨年は2人の子どもを連れての参加を考えていましたが,費用の観点から参加は見送らせていただきましたが,何となくほっとしたことを覚えています。最終的に今年,革新懇の代表として参加させていただくことになりましたが,参加経験のある方からこの大会について詳細な説明を受けず,どういうイベントなのか分からないまま出発当日を迎えました。
私は高校生の頃,JRC(青年赤十字)愛好会というサークルに所属していました。日本赤十字社との関係は分かりませんが青年赤十字(Junior Red Cross)という組織があって,各高校にある赤十字関係の部活・サークルを束ねていました。私は高校在籍中に,その組織が開催していた夏休みを利用した4泊5日くらいの合宿に参加したことがあります。今回,原水爆禁止世界大会に参加するということになって,なぜかこの時の記憶がよみがえりました。その合宿は要するにボランティア精神を叩きこむような,ちょっと行き過ぎた体育会系の側面もありましたが(まだ1980年代ですので),他校生徒との交流も目的に(当然携帯電話は誰も持っていません),志を同じくする者同士が同じ目標に向かって数日同じ時間を過ごすという印象深い日々でした。
原水爆禁止世界大会という存在を知った時に私がこのことを思い出したのは,一つのイシューに関して全国から市民が集まり,学び,議論をする場であると考えたからで,昨年その参加に一抹の不安を抱いていたのは,「世界」とあることによって,日本各地からだけでなく世界から原水爆に関心を持った市民が参加するということでした。恥ずかしながら私は短くない人生で,日本語以外の言語でコミュニケーションをとるという機会に恵まれていなかったので,そういう場を避ける傾向にあったのです。結局は,この大会はその場で初めて出会った人と少人数で議論をする機会というのはほとんどなく,この妄想は私の杞憂にすぎなかったわけですが,ただ日野から一緒に参加した熊谷さんとはこれまでお会いしたことがなかったのに,かなりの時間を一緒に行動し,また出会ったのはかなり以前ですがきちんとお話しする機会のなかった中野さんともしっかりとお話しできる貴重な機会になりました。
いずれにせよ,日野市を代表して,原水爆というテーマをめぐって全世界の参加者と議論を交わすということを想像していた私は,事前に映画『オッペンハイマー』を観,夢の島にある第五福竜丸展示館に行き,また日本共産党南多摩地区委員会の早川さんが企画してくれた学習会にも参加して日本原水爆被害者団体協議会の濱住治郎さんのお話もお聞きしました。また,この時いただいた岩波ブックレット『被爆者からあなたに――今伝えたいこと』を広島行きの新幹線で読んで,大会に臨みました。
さて,原水爆について私には知らないことが多く,その実相を知るたびに大きな学びを得るわけではありますが,私自身はあらゆる軍事兵器を廃絶すべきという考えであり,ある意味でこれ以上の知識を必要とはしていません。核兵器は何ももたらさないと思います。原子力発電は核の平和利用などと称して,被爆国であるこの日本でも十分すぎるほど使用してきてしまっています。各地で事故があってもまだその使用をやめようとしません。今すぐ使用をやめても残された核物質の存在によって,この国に住む人々はその存在におびえ続けなければなりません。核兵器を頂点として人類は様々な殺傷兵器を作り出し,使用し,いまだ保有し続けています。それによってお互いに脅し合う社会なんて本当に狂気の沙汰としか思えません。ただでさえ,地球上の一部の人たちが自分たちの快適な生活のため,目先の利益のために地球環境を破壊し,それによって自らの生存が脅かされているというのに,人類が全ての英知を結集してこの事態を食い止めなければならないというこの時に,地球環境の破壊と人間が築き上げてきた社会,そして人命を壊してしまうような戦争を繰り返し,戦争がない地域でも危機をあおって軍備拡大を続けています。人類の自傷行為としかいいようがありません。
とはいえ,あらゆる軍事兵器どころか,核兵器すら廃絶の方向に向かわないこの国際社会で,私は一市民として何ができるのか,そのヒントを得るために広島に向かいました。8月4日の開会総会,6日のヒロシマデー集会は広島県立総合体育館のグリーンアリーナを会場として,それぞれ3,000人規模の参加者が集まりました。日野市の代表団は3人だけでしたが,皆さんのぼりなどをもって集団で参加されていました。参加者の間で核について語り合うという私が想像した集会とは全く違ったものでしたが,皆さんの熱気の伝わる経験でした。複数の国,活動団体の代表者のスピーチが各集会の前半はありました。後半は草の根運動の団体の方たちが集団でステージに上がり,思い思いのパフォーマンスを見せてくれました。形式ばらない集会のあり方は好ましく感じました。
スピーチの中で私の心に残ったのは,まずカザフスタンの駐日大使でした。第五福竜丸を含む日本人も被爆した米国の核実験については意識していましたが,現在の核兵器保有国の数だけ世界各地で核実験が行われていて,米国と肩を並べる核兵器保有国であった旧ソ連の実験場であったセミパラチンスクは四国の面積に匹敵する規模で,現在のカザフスタン領域に位置し,現在でも苦しんでいる被爆者がいるといいます。カザフスタンはそんな経緯により,核兵器禁止条約の来年開催される第3回締約国会議では議長国を務めるそうです。
もう一つ印象に残ったのは韓国原爆被害者協会からいらしていた高齢女性の発言でした。彼女は広島で被爆し,家族で韓国に戻ったとのことです。すると,間もなく朝鮮戦争が始まり2度目の戦争を経験したといいます。そもそも日本生まれの彼女の両親が日本に来たのは植民地支配と関係がありますし,朝鮮戦争も日本による植民地支配がなければなかったかもしれません。この2つのスピーチを含む世界各国からの声は,この問題がまさしく全世界で取り組まなければならないものであることを強く認識させられました。日本は「唯一の戦争被爆国」といわれますが,原水爆の被害者は世界中に存在し,そもそもそれが戦争で使われたか,実験だったのか,あるいは兵器ではなく原子力発電所であるのか,そういう区分はあまり意味がなく,軍事兵器全般,核そのものをなくしていく,そのことに対して日本に「唯一の戦争被爆国」なんて特権はいらないと思います。とはいえ,利用できるものは利用すべきで,「唯一の戦争被爆国であるにもかかわらず日本政府が核兵器禁止条約にオブザーバー参加すらしない」といういいかたで日本政府を追いつめられるのなら積極的にやっておくべきです。実際に参加して,この大会が市民による草の根運動であることを強く実感し,またこのイシューに関しては各国政府をあてにしてもしょうがなく,市民がどれだけ強い力で連帯し,多くの人々を巻き込んでいけるかにかかっていると感じました。
2日目の8月5日,私は「動く分科会12 岩国基地調査行動」に参加しました。参加者約200名が貸し切りバス8台で広島駅から岩国へと向かいました。私が乗ったバスは25名の参加者があり,車内で岩国平和委員会が編集した16ページに及ぶ資料を配布され,約1時間の移動中に詳しい説明を受けました。1938年に日本海軍が岩国に航空基地を建設し,1940年に岩国海軍航空隊を発足させたのが,岩国基地の始まりとのことです。戦後,占領軍が接収し,イギリス連邦軍と米空軍が進駐しました。1952年に日本は主権を回復したのにともなって多くの占領軍が撤退し,岩国からイギリス連邦軍は撤退しましたが,米軍は居座り岩国は駐留軍の基地となりました。
その後,どこの基地でもさまざまな問題はありますが,この日の説明の中心は沖合展開についてでした。岩国基地は海岸沿いにありますが,周辺住民からの騒音等被害の訴えを受け,日本政府は滑走路の移設を計画します。しかし,この「移設」という表現は全く不適切で,純粋に埋め立て部分だけ基地が拡張したのであって,滑走路はたった1km沖合に移動しただけです。加えて,その先の水域も18.7km2にわたって米軍の管理区域となり,そこには水上滑走路があり,そこに含まれる姫子島は弾薬処理場になっています。さらには埋立地先端部に港湾も作っています。自然の海岸では海底が浅く大型艦船が停泊することができませんが,沖合に展開したことで,米軍艦船を停泊できる港湾機能が可能になったということです。日本では港湾と滑走路を併せ持つ唯一の米軍基地ということで,日本に配備するオスプレイはここ岩国基地で陸揚げされています。さらに,この埋め立てのために近隣にある愛宕山を削った土砂をベルトコンベアで運んだとのことですが,削られた愛宕山も米軍に提供されることとなり,造成されて将校用の家族住宅が建設されたといいます。
これらの説明を車内で聴きながらバスは岩国基地へと近づいていきます。道中では,日本製紙をはじめとする工場がモクモクと煙を上げる煙突が目立ちました。なお,この煙突すらも米軍機の飛行の妨げにならないように短く切断することが求められたといいます。また,基地を離れて西方に向かう道中では周囲にレンコン畑が拡がっていました。レンコンは岩国の名産品のようです。バスは基地北部の今津川河口の堤防で停車し,私たちは下車してここでも説明を受けました。この日は基地に目立った動きはなく静まり返っていましたが,ほどなくして駐機場に停まっていた軍用機2機が連なって動き出し,滑走路へと向かいました。それらが離陸する直前にF-35Bと思われる機体が2機続けて離陸し,それに続いて先ほど移動するのを確認したF/A-18ホーネットという機体がこちらも2機続けて離陸する姿を目撃することができました。単に視覚的に目撃したという言葉では言い足りず,爆音を聞いたという表現にも収まらない体中に響く触感として体感したというべきでしょうか。いずれにせよ,毎日のように,昼夜問わずこの爆音に悩まされる住民のことを想いました。説明してくれた方の話ですと,ホーネット機でもスーパーホーネットはまた格段に騒音がひどく,またオスプレイの騒音も酷いそうです。
3日目の8月6日は広島の原爆投下の日で,この日のヒロシマデーは10時30分からだったので,私たち3人は平和式典が行われる平和公園に式典前に行くことにしました。宿泊したホテルもこの日前後は朝食の開始時間を早めていました。ここ数年,日本各地のこうした公式なイベントの警備が厳しくなっていますが,平和公園の周辺には機動隊が,公園内には警官がうようよし,式典会場への出入りには手荷物検査もあり,検査が終わると手首に黄色い紙の腕輪をつけられました。平和公園で行われるイベントは公式な平和式典だけではありません。また当日だけでなく,前日の夕方には原爆ドームの対岸で演劇を含むさまざまな催しが行われていました。連日原爆ドーム前で行われているイスラエル抗議活動も行われていましたし,当日は平和式典にイスラエルを招待したことに対する抗議運動もあり,機動隊に平和公園の外側に追いやられていました。また,公園内には独自の慰霊碑を建て,内輪で追悼をされている団体もありました。一つ確認できたのは広島ガスの方々で,爆心地に近いところに社屋があり,そこに勤めていた方は全員亡くなられたということを平和記念資料館で知りました。原爆の日を広島の方が,またそこに集まる日本の方,世界の方がどのように過ごしているのか,やはり当日現地に来ないと分からないことをしっかりと胸に刻んだ旅になりました。
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