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【読書日記】マイア・コベイブ『ジェンダー・クィア』

コベイブ, M.著,小林美香訳(2024):『ジェンダー・クィア――私として生きてきた日々』サウザンブックス社,255p.,3,200円.


この本は写真研究者の小林美香さんが翻訳・出版するという情報がTwitter上にあがっていて,クラウド・ファンディングで確実に出版を目指すということで私も参加したもの。出資金額は実際の販売価格よりも安いということで,3,000円提供したのかな。そこそこ時間はかかったが翻訳作業が終わってから出版までは早かった気がする。また,発行日は9月12日になっているので,それよりだいぶ早く到着したことになる。さすがにまだ書店に並んでいないからか,Twitter上でも話題にはなっていない気がする。
本書は作者の自伝的コミック。冒頭に「1992年10月,家族で北カリフォルニアに引っ越した。…当時私は3歳半で,妹は1歳。」とあるので,1989年の生まれで米国人,出生時の性別は女性だったが,その後の性に関するもろもろをつづった本。原著は2019年に出版されていて,2017年の秋のことまで描かれているので,およそ30歳までの人生が語られている。
幼い頃から都会的な洗練された生活というよりは少しワイルドな生活をしていたこともあり,いわゆる性別を含む社会化がきちんとは行われなかったようだ。「両親はどちらも男らしさや女らしさを押し付けなかった。」(p.23)とある。しかし,小学校という集団生活をするなかではそういう押しつけがあり,徐々に自分の身体が持つ性のあり方および成長と,それを素直に受け入れられない自分との間で葛藤するようになる。胸のふくらみ,月経,ムダ毛の処理,名前,髪の毛の長さ,好きになる相手の性別,などなど。高校に入るとゲイの同級生がやってきたり,彼が開催するミーティングに参加したり,少しずつ自分の悩みを理解してくれる人,性的マイノリティに関する考え方に触れる。そして,デヴィッド・ボウイの音楽との出会い,
「「トランスジェンダー」という言葉を知ったのは高校入学前の夏。」(p.69)とある。ちょっと時間が前後しているが,高校時代には読書家になっている。そのなかには日本のコミックが多く含まれていて,高橋留美子や真東砂波という私の知らない漫画家も登場する(Wikipediaで調べたらボーイズラブ作家だという)。さて,高校生になると身体的なものも含む性愛関係に悩むようになる。ここはよく分かる。分かるといっても私自身が同じような経験があるわけではなく,結局子どもが成長して恋愛的なものをする年頃になると,恋愛というものがどういうものなのか,具体的に相手と何をするのか,お互いに分からないので,漫画やテレビドラマなどに描かれている一般的な行為を真似したり,友人同士で自分たちのやっていることが正しいのか=似通っているのかを確かめ合って,恋愛という通過儀礼を経て大人になった気になる。
なので,そういう真似事を素直に受け入れられない人は悩みが大きいのだと思う。さて,本書はマイアが美大生になったところまで進む。18歳ともなれば,マイアに好意を寄せてくる人が現われたりするが,マイアはデートというその一歩を踏み出すことにも躊躇する。また,子宮がん検診で大きな苦痛を味わうことになる。

まだ発行前の,しかもコミックの内容を詳しく説明しすぎていることに気づいた。まあ,ネタバレ厳禁というような内容でもないし,こんな私の言葉による説明よりもヴィジュアルのある本書自体の方が何倍も興味深いのだが,ともかくこの辺りで作品に沿った説明はやめておきたい。この読書日記を書きながら重要なことを思い出した。
私は卒業論文で情報誌を取り上げ,そのなかでも女性誌の『Hanako』に注目した。それは単純に地理学的な関心ではあったのだが,男性である私が女性雑誌を読むということで,ジェンダーについて考えることは必須だった。その頃はまだジェンダーの視点での雑誌研究はごく限られた人しかやっていなくて,手元にあるものとしては,岩波書店の「日本のフェミニズム」シリーズの7巻,『表現とメディア』のなかに一章雑誌に関するものがある。それから,諸橋泰樹さんという方が1993年に『雑誌文化の中の女性学』という本を明石書店から出していた。また,少し後に確かカルチュラル・タイフーンという学会でお会いした岡田章子という方が何本か論文を書いていた(現在は東海大学にお勤めで,2013年に『『女学雑誌』と欧化』という本を出されているようだ)。まあ,それはともかくジェンダー研究は当時の私にとっては非常に魅力的で,多くの書籍を読んだわけではなかったが,私自身のそれまでの人生の生きづらさなどに回答を与えてくれるものだった。
端的にいえば,ジェンダーとはカテゴリーの問題だ。人間個人とはそれぞれ個性を持った唯一無二の存在のはずだが,いわゆる属性というカテゴリーにからめとられるのだ。カテゴリーには名前がついている。男とか女とか。ジェンダー論やフェミニズムの長い戦いによって今日では性の多様性といわれるようになったが,かつては性別という次元におけるカテゴリーは男と女の2つしかなかった。個性という唯一無二の存在は性別という次元においては二択のどちらかに押し込められるのだ。性別という次元だけの問題かと思いきや,それは私たちの身体的特徴を規定し,しぐさや行動,好みや価値観,語り口などさまざまな場面で私たちの行為を制限する。もちろん,男と女という名前はつけられてから長く,ここではその弊害ばかりを述べたが,新しく発見され命名されたカテゴリーは,それまで自分自身とは異なったカテゴリーに押し込められるしかなかった状況が,その新たなカテゴリーを獲得するといういい側面もある。しかし,時間が経過するにつれてそのカテゴリーが形骸化され,弊害が生じる。つまり,本書の主人公であるマイアは既存のカテゴリーから逃れ,新しく発見した新鮮なカテゴリーにすがり,でも完全に自分にフィットはしない...という人生の物語なのだ。

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