さだまさし「主人公」vs「生生流転」
さだまさしファンの間では「主人公」は常にトップの人気を誇ります。
↑2013年の情報なので古いですが…。
特にこの人気を不動のものとしている理由が、以下のサビの部分だと思います。
あなたは教えてくれた
小さな物語でも
自分の人生の中では
誰もがみな主人公
時折思い出の中で
あなたは支えてください
私の人生の中では
私が主人公だと
自分の人生の中では、自分が主人公だというところ。
これを読むと、自らの人生を主体的・能動的に捉え、周囲に流されず、前向きに生きていこうという気持ちが見えてきます。人生の指針としているファンも多いのではないでしょうか。
しかし、私個人、正直「主人公」はいまだにピンとくることがないのです。さだまさしファンの端くれなのではありますが…。
これは、「主人公」という歌が、正しいとか正しくないとか、そういう話ではなく、単に、私個人の価値観と好みの問題です。私個人の性格も関連してるかな…。
むしろ、人気の点では「主人公」に遠く及ばない「生生流転」という歌の方が、ピンときます。
ああ あたりまえに生きたい
ささやかでいいから
ああ 前のめりに生きたい
ひたすら生きてゆきたい
ああ あたりまえに生きたい
ささやかでいいから
ああ とても優しくなりたい
素直に生きてゆきたい
重く叫ぶようなこのサビは冒頭から最後のリフレインまで何度も繰り返されます。
前のめりに生きたい、前向きに生きたい、という想いは、「主人公」と相通ずる点があるかもしれません。
しかし、「生生流転」で願う人生行路は、「主人公」の背中よりも、かなり後方に位置している感じです。
「主人公」では、文字通り自分が主役でポジティブに輝いている人生を想像します。
「生生流転」では、世の中の奔流に流されそうになりながらも「ささやか」に、わずかでもいいから前を向いて生きようとする、必死の人生が垣間見えます。
どちらに共感するかと言えば、圧倒的に後者です。
喜びと悲しみと憎しみと愛と死を
つまづき乍らでいいから
いつくしむ人になりたい
逃げたあと悔やむより悔やまずに血を吐いて
ひたむきに歩ける程
勇気とちからが欲しい
この「つまづき乍ら」「血を吐いて」というところですね、大いに共感するのは(特に近年メンタル病んで、身も心も血を吐いてますから…)。
だからと言って「主人公」が嫌いなのではありません。ただ、自分自身がスポット浴びた主人公になるというイメージがどうしてもわかないのです。
むしろそういった「主人公」タイプの人の活動に貢献したり、陰で活動をサポートしたり、という方が向いているかもしれません。実際そういう仕事の方が長続きしてる感があります。
ところで「生生流転」という歌、初めて音声で題名だけ聞いたとき、「せいせるてん」としか聞こえなくて、「聖セル天」とかいう何やら教会の歌っぽいのを連想しておりました。今から30年以上前のことでした。