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根源

少し。

noteで、他のかたの面白い文章を読んでいて、
よく、自分ならばどうか、どうだったか、

と、ノンフィクションや考え方の文章であると特に、読みながら自分に当てはめてみたりするのだけれど、

そう、そうそう、
そうしてみたら、
(※ある一部分の)今の人格の形成を決定付ける過去の自分の経験を思い出した。

確か、わたくしは運動が嫌いだった。
興味もなかった。
しかし、
あー、と、
人の取りように因っては、自慢のようになってしまうが脚の瞬発力は長けていた。中学一年生まで。
小学生の頃は、クラス、じゃない、学年で一番だった。
ただし、本当に、自分が一番になる運動競技は脚の瞬発力を使うもののみ。

短距離走、
走り幅跳び、
ハードル、

くらい。

他の競技は、そうでもなかった。むしろ後ろから数えたほうが早いくらいの順位だった、一番などと比べたら。

例えば長距離走。

苦手であった。
(頭がおかしいのか)ペース配分が出来なく、いつも後半ヘロヘロだった。

その他団体で行う球技。

嫌いであった。
他の人間に気を遣って殆ど力を出せない、出さない性分で楽しさを見出だせなかったからである。

しかし。
先程の、瞬発力がメインの、個人競技。
では何故にこれらの種目が学年一位だったか。
簡単な話、
団体球技のように他人を気にする必要がない。
長距離走のようにペース配分を考えることなく、無心で力を出し切ればよい。

だけ。
わたくしの中では。
基本的なルールも、流石に理解しての話し。
しかし、肝心なこと、
短距離走も、走り幅跳びも、ハードルも、別に好きではなかった。
もっと言えばやりたくないことで褒め称えられても、ちょっと複雑であった。その時、小学生の自分が思うリスクが生じるからである。
タイムや飛距離の、数値としての「良い結果」が出てしまうと、
地区の大会などという学校の休みの日にわざわざ市の競技場にまで行かされ、そしてそのために放課後などは他に選ばれた人間と共に大会の日程まで競技の練習をする。させられる。
わたくしはとっとと家に帰って再放送の「古畑任三郎」をリビングでだらーんと眺めていたかったのに。

そうそう、こんなやる気のない人間なのであった。
こんなやる気のない人間なのに良い記録が出ることは少しは面白かった。好きにはならないけど。
他の人間、教師も含め、驚く顔を見ることも正直面白かった。好きにはならないけど。

そういうところである。

教えていた教師も驚くくらい、意外性が強烈だった、自分でも最初の頃は驚いた。

そういうところである。

本来、クラスに大体一人は居る、スポーツが得意で、絵に描いたような努力家で、そしてお調子者であり、クラスの人気者でもあった人間がいつもだったら当然のように、他の競技同様、瞬発力系の競技でも一番の記録を出し、皆々から脚光を浴びる、それがお決まりのパターンだった。

わたくしは普段、ただのお調子者でしかなかった。別に人気者ではなかった。

だのに、短距離走のタイムを測ると。

そんな「ただのお調子者」がスポーツの得意な、人気者でお調子者の記録を抜いてしまったのである。

・この時働いた気持ち、感覚が今の人格に繋がっている。と思う。

おおよそ悪い意味で。

わたくしの記録が学年で一番になった時、その人気者はとても悔しそうだった。本気で。
それはそうだろう、長距離走も速くない、サッカーも野球もバスケも上手くない、努力もしてない、ただのお調子者。

わたくしは「あちゃあ」と思った。

「学校」という、狭いけれど、子供にとってとても大切なコミュニティスペース(当時、少なくとも20年くらい前は)。色々を学ぶ。摂る。知る。無くす。

そら子供ながらにね、他の人とはなるべく円滑な人間関係を築きそれを継続し、平穏な学校生活を送りたいものですよ。他の人間もそういうことってとても敏感にそれぞれが、色んな方法で構築していたのだろうと思う。勝手ながら。

何も、記録を抜いてしまったからと言って、いじめられたりされるわけではない。
これはそれこそ勝手な思い込みだが、

申し訳なく思った。

罪悪感を感じた。

何と言うか、
「その人気者の記録を抜かなければ良かった」
とも思った。

一方で、悪い言い方、かわいそうだな、とも思った。
頑張ったのに。

加えて実際問題、
「適度に手を抜けば大会などに行かんで済むよなあ」
とか、思いは巡るが、瞬発力で臨む競技に於いてそんな微調節、元来あまり器用でもない自分がそんな、さじ加減の能力は持ち合わせていなかった。

何と言っても努力、練習していない自分が頑張っている人間より、
「出来ては駄目だ」と思った。

それ以来、
自分より頑張っている人間の先に行くことが苦手になった。
あくまでもそれ(どの程度努力しているか)は自分だけの物指しだけど。

勉強でも、なんとなく向上心の高さが段々低くなっていった。

美術の作業の時も、なんとなくそうだった。
美術は好きで得意でもあったが。

版画を彫る際、皆揃って、動物や風景などの写真や絵を選んでいた。
家庭に因っては親にも言われるのかもしれない。子供らしい作品を、と。
わたくしはなんでもいい、と、図書室で適当に選んだ、酒と鮪の写真を模写して彫った。
とても頑張ったであろう猫の版画と同等の賞を貰ってしまった。
気不味かった。自分の中の自分だけが。

いや、自分が気付かないうちにのめり込んで、努力もしているのかもしれない。
もしそうなら自分を素直に認めれば良かったものを。



社会に出て、仕事が出来る人は、努力などなど関係無く出来る、出来ない人は出来ない、場合もあることはよくわかっている。
勿論努力次第でも、そら変わる。

今でも10~13歳あたりで染み付いたことが癖になっている。他人と競うように作業をすることが。
特にスピードを競うようにデスクワークをしていると隣の人より早く作業を終わらせる気になれなかった。

自分が早く作業を終わらせ、周りを焦らせてはいけなく、
自分が早く作業を終わらせ、優位に立つことも、自分以外の人間の仕事に対するモチベーションの問題に関わってくると思うと、
自分は仕事が出来ない人、
でいたほうが周りにとって良いのではないのかと思ってしまっていたが、
当然、まるでそれは違うことで、そもそもそんな人間は仕事の邪魔なので、そうではなく早く自分の仕事を終わらせ、許されるなら、他の人の仕事のサポート或いは、先の予定の仕事も許されるなら、



まあ要は本来そういった下らない遠慮はしてはいけなかったのだと思う。
社会に要らない。…うーん、いやどうだろう。

しかし、そんなわけで、瞬発力はまた戻し、鍛えたいものだなあ。


あれ!そう言えばまだ中途半端な書きかけの駄文があったなあ!溶かさないように気をつけないと!

あー長文った

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