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じぇにのこと、あきやすみのこと。#1
本当のわたしでいられる名前
「じぇに」とか「あきやすみ」と名のっている。本名はむろんある。しかし本当の名前は何十年も生きてきて、いまだ自分のものとなっている気がしない。わたしと本当の名前は統合できていないのである。
「いい子」「いい奥さん」「いいお母さん」、求められてきた立場に必要以上に沿う生き方を強いられながら呼ばれた本当の名前。
「いい○○」でないわたしは、「いい○○」を演じながら、名前を呼ばれると必ず違和感を覚えた。「いいえ、それはほんとうのわたしではありません」
では、ほんとうのわたしは?
じぇにのこと。
きっかけは社会人になってから学んだ心理学講義のグループワークでのことと。白紙の名札とマジックが配られ、「自分が呼ばれたい名前」を書いてよし、第3の名前を自分でつけて良いといわれたのである。
ここでやっとわたしは名前の違和感から解放される入口に立つ。
書いた名前が「じぇに」。
そもそも、この名前は、むかし通っていた英会話教室でつけてもらったもので、同じ名前のクラスメートが入塾したことで、どう区別するかで授業が始められなかったから「ジェニファーでもキャサリンでもどっちゃでも名のるから、とっとと始めようぜ、授業!!」と威勢よく発したことが起因する。
ただ、この「じぇに」、何から何までわたしなのだ。
何をしてもわたしの責任であり、わたしのよろこびであり、つらさである。その家の子としてでも、妻でも母親でもなく、「じぇに」を名乗るわたしはそのままのわたしとして、世に晒され、評価され、審判を受けるのだ。あたらしいわたしを積み上げていく感覚が嬉しくて仕方なかった。
あのグループワークからずっと、わたしは「じぇに」である。
あきやすみのこと。
それより少し前、わたしは大きな決断をしていた。こどもたち3人をひとりで育てていくこと。決断したというより、その道しか残されていなかったというべきかもしれない。弱っちいわたしは、自分の選んだ道におびえながら、ぶるぶる震えながら、半泣きになりながら、己を奮い立たせる方法をいくつか考えた。
そのひとつが決意の命名である。
こどもたちとわたしの名前を少しずつ集めてできた名前、「あきやすみ」。これから4人で生きていく!と決めて、その命たちの重みをしっかりと自分に課すつもりの覚悟の命名であった。
こちらはハンドルネームとしてデビューしていった。弱音も泣き言も、虚勢も意地も、「あきやすみ」が画面の向こうのインターネットの世界にぶちまけながら生きている。わたしのかわりにこれからいろいろな発信をしていくだろう。
本名のこと
本当は嫌いではないのだ。愛らしい響きである。心の底から好きになりたかった名前である。しかし、わたしとそれはどうしても融合しない。融合させようとすると、育ちからなにからすべてを紐解いて、いまさら見なくてもよい自分の立場をさらす作業をしなければならないだろう。残された時間をそんな苦行に費やすことより、未来を考えることに時間を充てたい。
別の名前を持てるようになってから、少し気が楽になっている。これからも楽な生き方をチョイスしながら生きていくんだろうな。