【GENT'S STYLE】 クラフツマンシップ列伝 香港の伝統が生む現代のシャツ アスコット・チャン
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創業1953年、香港を代表するオーダーメイドのシャツメーカー、アスコット・チャン。
現在も創業者のチャン一族により、2代目のトニー・チャン氏、3代目のジャスティン・チャン氏によって経営されている。
香港のみならず、中国、アメリカ、フィリピンと世界的に全11店舗を展開し、オリジナルのオーダーメイドスーツも販売。さらにアーモリーやブライスランズとのコラボレーションを行ったポロシャツやサファリジャケットは評判を呼んでいる。
香港ではペニンシュラ・ホテルとマンダリンオリエンタルのランドマークにもストアがあり、日本ではCOVID-19の前は年二回のトランクショーを行っていたので、その名をお馴染みの読者も多いことだろう。
以前にアスコット・チャンの本社と工場を訪ねた時、トニー・チャン氏にアスコット・チャンをはじめ、香港のテーラリングの歴史を伺ったことがある。
その源流は「レッド・ギャング(紅団)」と呼ばれた上海式の仕立てだ。そこから香港の歴史の変遷に従ってアジア特有のクラフツマンシップと共に独自の進化を遂げたのが現在の香港のスタイルとなった。
「レッド・ギャング(紅団)」は20世紀初頭からアジアの大都市として経済的な繁栄をみた上海で発展し、1941年には中国初のテーラリングスクール「上海裁断裁縫学院」を設立。この学校は14歳で入学、3年かけてスーツ作りの基礎を学ぶシステムとなっていた。当時国交のあった英国、ロシア、日本、アメリカ、そしてもちろん上海の優れた技術を取り入れことから、上海は高度な技術を持つアジアにおけるテーラリングの中心地のひとつとなった。
日本の香港占領支配が第二次大戦によって終了すると、中華民国は英国に香港主権委譲を要求した。1949年に中国共産党による中華人民共和国が成立すると、多くのヨーロッパ企業が共産党支配下となった上海から英国領香港へ移転。企業に勤める顧客の移住に伴い、スーツを供給するテーラーも多くが上海から香港へ移住した。
当時、香港には広東系のテーラーも存在していたが、海外の顧客の要望に応えるため、プレスの技を駆使した立体的な上海仕立てに比べ、広東仕立てはアジアの多くの民族衣装がそうであるように、アジア人の平面的な体格に合わせ、布をまきつけて着用することを念頭に作られ、特に胸回りはフラットに作られていた。西洋式の生活様式が浸透するにつれ、上海式仕立てが次第に主流となっていく。
創業者アスコット・チャンは1937年、14歳で故郷の寧波を離れ、上海のシャツ職人の下で修行を始めた。寧波は上海の南に位置し、上海のテーラーの多くが寧波からの出稼ぎ労働者だった。今も寧波には多くのアパレル関係の工場がある。この事実はアットリーニなどの工場のあるナポリのカサルヌオボの歴史を連想させる。
サヴィル・ロウが多くの植民地からの移民によって支えられていたように、上海のテーラーは彼らによって支えられていた。
前述の政情不安により、他のテーラー同様、アスコット・チャンも1949年に香港に移る。当初は顧客のオフィスをひとりひとりオーダーを取るために回っていたが、彼の高い技術は顧客の高い評判を呼び、1953年、キンバリー・ロード34番地に一号店をオープン。1963年にはペニンシュラ・ホテルに2号店をオープンした。この店は現在も営業を続けている。
1960年代からアスコット・チャンはサンフランシスコ、ボストン、ニューヨークなどアメリカの20都市を回る全米へのトランクショーを開始。1970年代にアスコット・チャンが亡くなると、彼の息子であるトニー・チャンと彼の弟であるジョニー・チャンによって引き継がれた。この時代からアスコット・チャンは世界的展開を始め、1986年、ニューヨークに初の海外店舗をオープン。その後、現在はアメリカに4店舗、中国にも上海を始め4店舗を展開。中国市場の拡大につれ、再び上海に帰ってきた歴史は非常に興味深い。
アスコット・チャンのスーツは英国ほど構築的ではなく、イタリアほどソフトではない。クリーンでシンプリシティを追求したバランスが美しい。
今回はトニー・チャン氏の息子である3代目ジャスティン・チャン氏に、アスコット・チャンのシャツ作りの哲学とこれからのシャツメーカー、ベストセラーと新作についてインタビューさせていただいた。
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