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すべての歯車が狂い出した日…青年実業家の復讐と野心を描くミステリー巨編 #2 天国への階段

家業の牧場をだまし取られ、非業の死をとげた父。将来を誓い合った最愛の女性・亜希子にも裏切られ、孤独と絶望だけを抱え上京した柏木圭一は、26年の歳月を経て、政財界注目の実業家に成り上がった。罪を犯して手に入れた金から財を成した柏木が描く、復讐のシナリオとは……。ハードボイルド小説の巨匠、白川道さんの代表作として知られる『天国への階段』。ミステリ好きなら一度は読みたい本作より、一部を抜粋してご紹介します。

*  *  *

不安が現実になった。

しかし母も子もなんという不幸な結末を迎えるのだろう……。やはりあのときからすべての歯車が狂い出したのだ……。

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父の圭吾が夢を託していた肌馬のカシワドリーム。そのカシワドリームが父の手もとにいたときには、その産駒である子供たちが大きな事故に遭ったという話を聞いたことはない。皆無事に競走生活を終えていた。だが、そのカシワドリームが父の手もとを離れたときから、その子供たちに不幸が訪れている。

生まれた仔馬を手放すに際して、父は必ず馬主の馬に対する愛情を確かめていた。決して金のためだけで馬を譲り渡すようなことはしなかった。

もしカシワドリームが父の手もとにいたのなら、その子であるカシワヘブン、そしてカシワヘブンの子であるホマレミオウも心ある馬主の許に引き取られていったにちがいない。

ホマレミオウが哀れにおもえた。それと同時に柏木は、江成達也に対する憎しみがまたひとつ胸のなかに芽生えたような気がした。

あの男にとって馬という生き物は、単なる金銭の対象物、単なる欲望のための道具でしかないのだ……。

「どうかしましたか?」

本橋の声に、柏木は目を開けた。

「いや、なんでもない。しかし、馬という生き物は哀れだな。人間が勝手に交配し、勝手な生き方を強要させる」

「人間の世界にもそういう生き方をさせるひとがいるのではないですか」

「どういう意味だ?」

「いえ……」本橋がことばを濁した。「出すぎたことをいいました」

車はもうすぐ首都高速に入ろうとしていた。

人間の世界にもいる、か……。

この若者はどんな生い立ちなのだろう。

そのとき柏木は、自分が本橋というこの若者についてなにひとつとして知らないことに初めて気がついた。履歴書にすらまだ目を通していない。

しかし履歴書を見たからといってその人間のすべてがわかるというものでもない。履歴書というのはしょせん上っ面の事実を書き込むだけの代物で、その人間の持つ本質や隠された真実などなにも記してはいない。

現にこの自分がそうだ。義父も妻の奈緒子も、知っているのはうわべの自分の姿だけで、隠された内面などなにひとつとして知りはしない。

「会社に入りたい、と飛び込みで応募してきたそうだな」

新しいマルボロに火をつけながら訊いた。

「ええ……」

小さな声で答え、それが癖であるかのようにふたたび本橋がミラー越しにチラリと視線を柏木に投げてくる。

その目には、好奇心からくるのか、どこか柏木を観察するような光が宿っていた。

本橋の視線を避けるように車外の景色に目をむける。

「なんでまた、そんな気になった?」

「憧れたからです」

「憧れた? なにに憧れたんだ?」

そう口にはしたものの、およその察しはついた。たぶん雑誌の記事でも目にしたにちがいない。

「裸一貫から現在の会社にまでされたとか……。そんな社長の生き方に、です」

「ほう。俺のことについては詳しいというわけか」

知らぬふりをしてつぶやいてみる。

「ある雑誌に出ていた社長の記事を読みました。『カシワギ・コーポレーション』社長、柏木圭一。弱冠四十四歳、バブルの波にも呑み込まれることなく躍進しつづける若手実業家。そんなタイトルでした。貸しビル業、人材派遣会社、そして時代の最先端をゆくコンピューターゲームソフト会社――。異業種の様々な会社を経営する社長って、いったいどんなひとなのだろう、と……。その興味が今度はぜひそんな社長の下で働いてみたい、という気持ちへと変わりました」

「雑誌に書かれたものをすべて信用するのか」

「そういうわけではありません。でも、現実に社長の姿をこの目で見て、記事はその通りだとおもっています」

「そうかね……」

曖昧なことばで受け流す。

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青年実業家特集を――、ということで四年前に初めて中堅経済雑誌の取材を受けた。それを皮切りに、これまでに何度か女性週刊誌や一般誌に顔を出している。そのいくつかは横矢の作戦によるものだった。

本橋が興味を抱いたということは、彼以外にも心魅かれた人間が多いということだろう。つまり横矢の狙い通りに進行しているのだ。

まず名を売ることが先決ですわ。マスコミを上手く利用し、名を売り、一般に顔を知らしめることが第一ステップ。そのあとに実弾で要所要所を押さえる――。任せておきなさい。自信満々にいい放った横矢の顔が目に浮かぶ。

横矢は半蔵門で政治経済を謳い文句にした小さな業界紙の会社を経営しているが、彼の実態は利権やスキャンダルを飯の種に暗躍する、いってみれば政財界の裏に巣くうゴロともいうべき存在だった。とりわけ政界には幅広い人脈を有し、選挙戦ともなると敵となった相手陣営は戦々恐々となるほどの辣腕をふるうことでも知られている。

柏木が横矢と知り合ったのは十五年前、世の中がバブルでうかれ始めようとしていたころだった。人づてに紹介され、それ以後妙に横矢に気に入られた柏木は、彼の人脈や知恵、もたらしてくれる情報によってたしかに大きな利益も受けた。

そしてそのひとり娘である奈緒子を十年前に妻として迎え入れてもいる。しかしその彼も、ご多分に洩れずバブル崩壊の波をもろに被り、今や台所は火の車だ。それにもかかわらず、今でも三頭の馬を所有する馬主でいられるのは、すべて柏木の資金力のおかげだった。

選挙のことはわからない。今はその道のプロを自任する横矢に乗るだけだった。

「記事のなかで――」

「その話はもういい」

本橋の問いかけをさえぎった。きのうきょう入社した若僧を相手にする話題ではない。

高速の外苑出口で、自動車電話が鳴った。

「俺が出る」

取ろうとした本橋を制し、受話器を握った。やはり横矢からだった。

――どうしたんだ? 捜してたんだぞ。

機嫌を損ねたような濁声が耳に響く。

「田町に急な用件ができましてね」

ライターを指先でもてあそびながら答える。

コンピューターゲームソフト会社「フューチャーズ」。その本社所在地である田町の地名から、柏木たちは、そこを「田町」の別称で呼んでいる。

会社は、自由出勤が原則になっており、社長の中条俊介が日曜日も出勤していることは横矢も知っている。

少し間を置き、横矢がいった。

――そうか。仕事ならしかたがないな。

声の調子が不機嫌なものからおもねるようなそれに変わっている。

「で、江成の馬はどうでした?」

知らぬふりをして、さりげなく訊いた。

――やつの行く末を暗示するかのような結果だったよ。

回線に横矢の含み笑いが洩れた。

騎手は二か月の重傷、ホマレミオウは右前肢の種子骨を骨折したらしい。

「肌馬としては……?」

薬殺処分かどうかとは訊きたくなかった。

――わからん。あとはあの馬の運だろう。しかし馬好きでもないのに、やたらあの馬にこだわるな。

「江成の馬だからですよ」

横矢の矛先をかわした。

家は北海道で農業をしていた――。そういって、死んだ父が小さな牧場を経営していたことすら横矢には教えていない。ホマレミオウの祖母馬であるカシワドリームがかつての父の牧場の肌馬だったことを知ったら、いったい彼はどんな顔をするだろう。ましてや騙すも同然に買収した、その買収先の牧場主のひとり娘が現在の江成達也の妻、亜木子であるという事実を知ったなら驚愕するにちがいない。

これからの予定を横矢に訊かれた。

特にはなかった。広尾の本社に寄ったあと七時か八時には家に帰っている、と柏木はいった。

――じゃ、そのころ寄らしてもらおう。奈緒子とも久しく会っていないしな。たまには家で酒でも飲もうじゃないか。

承諾し、柏木は電話を切った。

「本社ではないのですか?」

本橋が訊いた。

どうやら電話のやりとりを聞いていたらしい。つまり「田町」に急用ができたという作り話にも気づいている。

「田町だ」

不快な気持ちを抑えてぶっきらぼうにいう。

そういえば中条とはここ二週間ほど会っていない。ホマレミオウが骨折した……。こんなやり切れない気持ちのときに飲む酒は、横矢ではなく、中条のほうがふさわしい。

どこか浮世離れした風貌の、東北訛が抜け切っていないような口調で訥々と話す中条の童顔をおもい浮かべながら、柏木は目を閉じて深々とシートに腰を沈めた。

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天国への階段(上) 白川道

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