まさかの悲劇が襲いかかる…慟哭の真実が明らかになる感動ミステリ #3 罪の境界
「約束は守った……伝えてほしい……」。それが、無差別通り魔事件の被害者となった、飯山晃弘の最期の言葉だった。みずからも重症を負った明香里だったが、身代わりとなって死んでしまった飯山の言葉を伝えるために、彼の人生をたどり始める。この言葉は誰に向けたものだったのか? 約束とは何なのか?
薬丸岳さんの最新刊『罪の境界』は、決して交わるはずのなかった人生が交錯したとき、慟哭の真実が明らかになる感動ミステリ。謎が謎を呼ぶ、本作の冒頭をご覧ください。
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「そっか、じゃあ、このネタは使えないな。お疲れさん」
その言葉を残して電話が切れると、東原航平は背もたれに掛けた上着を羽織って椅子から立ち上がった。
「先ほどは、ありがとうございました」
編集長の工藤に声をかけると、「芹沢さんのほうは片づいたのか?」と訊かれた。
「ええ、何とか。ただ、このネタは使えないなとおっしゃっていましたけど」
航平は答えながらスマホの画面を見た。もうすぐ夜の十時二十分になる。
「災難だったなあ。調べものがあるならもう少し早く報せてくれるとありがたいんだが。今日は彼女の誕生日で、どっかで会う約束をしてたんだろ」苦笑を浮かべながら工藤が言う。
「まあ、仕事のうちですから。それじゃ、お先に失礼します」
工藤に挨拶すると、航平は編集部を出てエレベーターホールに向かった。ボタンを押して思わず溜め息が漏れる。
装幀家の西島との打ち合わせを終えて渋谷に向かっているときに、芹沢から電話がかかってきた。
芹沢には自分が担当している月刊文芸誌に連載小説を書いてもらっている。だが、今日かかってきた用件は他社で書いている小説のことだった。
巷でよく見かける押しボタン式信号機は、押された時間を記録しているものなのかどうかが知りたいと芹沢は言ってきた。
今書いているミステリー小説の仕掛けとして重要な要素になるらしく、いい加減なことを書くわけにはいかないのでネットで調べてみたが、どうにも確信が持てないということだった。
その小説を担当している編集者は他の作家と地方に取材に出かけていてすぐには調べられないとのことで、今日中に調べてほしいと航平のもとにその役割が回ってきたのだ。
他社の小説のことだから、何か適当な理由をつけて断ることもできたかもしれない。でも、そういった要望に応えていくことで、自分への信頼を深めてもらい、ひいては他社よりも優先して書いてくれることになるだろうという思惑もあり、たいがいの頼みごとは引き受けるようにしている。人となりはともかく、少しでも多く一緒に仕事をしたいと自分に熱望させる小説を書く作家なのだ。
芹沢との電話を終えると航平はそのまま新宿にある大型書店に行き、関連しそうな本を当たってみた。それでもわからず職場に戻りあれこれ調べたが、どうにも見当がつかず困っていた。たまたま編集部に戻ってきた編集長の工藤に警視庁に電話で訊いてみればと言われて、ようやく信憑性のある答えを得た。編集者としての未熟さを痛感しながら芹沢に連絡して、何とか今日の仕事を終えた。
握ったままのスマホに自然と目が向き、明香里とのやり取りを思い返す。早く調べなければならないと焦っていたので、会話の最後のほうは荒い口調になってしまった。
あれだけベッラドンナで食事するのを楽しみにしていたのに――
さすがに誕生日の約束をキャンセルするのが他社の小説のためだと言えなかったことも、自分の罪悪感を煽る。
今頃、明香里はひとりきりの部屋で自分の誕生日を過ごしているだろう。
明香里が住んでいるマンションは清瀬にある。これから急いで駆けつければ日付が変わる前に会えるだろう。
エレベーターに乗り込むと、航平はLINEにつないでメッセージを送った。
『今日は本当に悪かった。今、仕事が終わったから、これから明香里の部屋に行こうと思うんだけど』
会社を出ると早足で市ヶ谷駅に行って電車に乗った。清瀬に向かっている間、何度となくLINEをチェックしているが、明香里からのメッセージが届かない。そればかりか航平が送ったメッセージに既読がつかない。
寝てしまっているのだろうか。いや、そうとう怒っていて、自分のメッセージを無視しているのかもしれない。
清瀬駅に降り立つと、航平はマンションに向かう前に明香里に電話をかけた。留守電のメッセージが流れ、何も言わないまま電話を切った。
これからどうしようかと迷う。このまま練馬の自宅に戻って少し冷却期間を設けたほうがいいだろうか。いや、できるだけ早く謝ったほうがいいだろう。
明香里はけっこう引きずる女性だった。ちょっとしたことで言い争いになってもすぐに仲直りできない。そういうところがたまに面倒くさいと思ってしまう。
憂鬱な気持ちを引きずりながらこれからの数日間を過ごしたくないと、航平は清瀬駅から歩き出した。途中にあるコンビニに立ち寄り、明香里が好きなハーゲンダッツのストロベリー味のアイスクリームを四つ買って彼女のマンションに向かう。
航平は開口一番に何を言おうかと考えながらマンションのエントランスに入り、一応オートロックのボタンを押して呼び出した。だが、何度か押してみたが応答がない。鞄からキーケースを取り出し、明香里の部屋の鍵を機械にかざしてオートロックのドアを開けた。エレベーターで三階に向かう。
三〇二号室のベルを鳴らしてみたが、やはり応答がない。鍵を差し込んでドアを開け、航平は中に入った。
明香里の部屋は1Kだが、玄関を入ってすぐのところにあるキッチンは真っ暗だった。
「……明香里、おれだけど」
奥の部屋に向かって呼びかけてみたが、応答がない。電気をつけて靴を脱ぐと奥の洋室に向かった。だが、そこにも明香里の姿はなかった。
どうしたのだろう。あれからどこかに飲みに行ったりして、まだ帰っていないのだろうか。しかし、明香里がひとりで飲みに行くことは今までなかった。彼女は小心者なところがあり、ファミリーレストランでさえひとりで入らない。
友人を誘って一緒に飲んでいるのだろうか。そうだとしてもこんな遅い時間まで帰っていないというのは彼女らしくない。
もしかしたら航平の部屋にいるのではないだろうか。そういえば夕方の電話で、航平の部屋で待っててもいいからと明香里が言っていたのを思い出す。
LINEのメッセージさえ返してくれていればこんな手間にならずに済んだのにと、溜め息が漏れる。
時間を確認すると、もうすぐ十一時四十分だ。池袋行きの最終電車は十一時五十二分だから急がなければならない。
航平はアイスクリームを冷凍庫に入れるとすぐに部屋を出て駅に向かった。
ぎりぎりで最終電車に間に合い、ほっとしながら座席に腰を下ろす。この車両には自分しか乗っていない。ここから練馬駅までは二十分ほどだ。何の気なしに車内の液晶パネルを観ていると、ニュースに切り替わった。画面に映し出された文字を見て、どきっとして思わず座席から立ち上がった。
もっとよく見たいと画面に近づいたが、次のニュースに切り替わってしまう。もどかしい思いでしばらく待っていると、ふたたび先ほどのニュースが流れた。
『渋谷のスクランブル交差点で通り魔事件が発生。三名の男女が死傷』
先ほど目にした大文字の下に書かれている文面に目を通していく。
『16日午後6時30分頃、渋谷駅前のスクランブル交差点で刃物を持った男が通行人の男女3人を斬りつけ、駆けつけた警察官によって現行犯逮捕された。男性ひとりが死亡、20代の女性ふたりが重傷』
今日の午後六時半頃――渋谷のスクランブル交差点で――
まさか、そんなことあるはずがない。
すぐに心の中で自分に言い聞かせたが、嫌な胸騒ぎが収まらない。
航平は上着のポケットからスマホを取り出して明香里に電話をかけた。
耳に流れてくる留守電のメッセージを苛立たしい思いで聞く。ようやくピーという機械音が鳴り、すぐに口を開いた。
「もしもし、おれだけど……明香里、今どこにいるんだ? おれの部屋にいるのか? これから練馬の部屋に戻るけど心配だから、これを聞いたらすぐに折り返してくれないか。頼む……」
電話を切ると明香里のLINEにも同様のメッセージを残した。
足に力が入らず、よろよろしながら座席に腰を下ろす。スマホをネットにつないで『渋谷』『通り魔』の文字で検索をかけた。
検索結果として並んだ事件に関する複数の記事を読んでみたが、どこにも被害者の名前は出ていない。だが、ふたりの女性はいずれも二十代だと書かれている。男性については名前も年代も出ていなかった。
ネットには事件発生直後の様子を撮影したという動画も投稿されている。
航平は恐る恐る動画を再生した。
動画を再生した次の瞬間、誰もいない車内に悲鳴が響き渡った。
航平はスマホの画面を見つめながら息を呑んだ。
夜のスクランブル交差点で必死の形相で逃げ回る人々、刃物を振り回しながら暴れる男を制服警官が取り押さえる様子を目の当たりにして戦慄を覚える。
食い入るように画面を見ていたが、被害者と思しき人の姿は確認できなかった。
タクシーを降りて渋谷警察署に近づいていくと、もうすぐ深夜の二時を回ろうというのにあたりは喧騒に包まれていた。大きなカメラを抱えた人たちやマイクを握ったレポーターらしい人たちがたくさん集まっている。
練馬のマンションにも明香里がいないのを確認すると、焦燥感に駆られながらタクシーに乗ってここまでやってきた。
マスコミの群れをすり抜けながら航平は警察署に入った。ためらいながら受付に向かうと、その場にいた制服姿の女性がこちらに目を向けた。
「あの……スクランブル交差点で起きた通り魔事件のことについてお訊きしたいんですが」
航平が切り出すと、女性が怪訝そうな顔になった。
「あ、マスコミのかたでしたら……」
「いえ、違うんです」航平はすぐに女性の言葉を遮った。「自分の知り合いがその時間帯に渋谷にいたんですけど……ずっと連絡が取れなくて……もしかしたら……と……」
「そのかたのお名前は?」
「浜村明香里です」
航平が名前を告げると、女性が表情を変えた。
「お知り合いとおっしゃっていましたが、ご友人のかたですか?」先ほど見せていた怪訝さとは打って変わって、親身な口調で女性が訊いてくる。
「友人といいますか……恋人です」女性の対応の変化に戸惑いながら航平は言った。
まさか、明香里は被害者だというのか?
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