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昼食をとる時間もなく…現役医師が描く感動のヒューマンミステリ #3 ディア・ペイシェント 絆のカルテ

内科医の千晶は、日々、押し寄せる患者の診察に追われていた。そんな千晶の前に、嫌がらせをくり返す患者・座間が現れる。彼らのクレームに疲幣していく千晶の心のよりどころは、先輩医師の陽子。しかし彼女は、大きな医療訴訟を抱えていて……。現役医師、南杏子さんの『ディア・ペイシェント 絆のカルテ』は、現代日本の医療界の現実をえぐりながら、医師たちの成長と挫折をつづったヒューマンミステリ。その一部を抜粋してお届けします。

*  *  *

保坂剛士、五十二歳、糖尿病で通院を続けている患者だ。保坂は、診察室に入ってくるなり、持ってきた薬を千晶の机の上に広げた。

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「このビタミン剤と血圧の薬は、余っているから不要です。糖尿病の薬を三十日分、それと、ヤルキンを頼みます」

「保坂さん、ビタミン剤は構いませんが、どうして血圧の薬が余っているんですか? 今日で切れるはずなんですけれど、飲み忘れですか?」

この患者は「Mの下」のようだ。でも、ていねいに説明すれば分かってもらえるはずだと自分に言い聞かせる。

「きっちり飲んでます。薬局でオマケしてくれたんじゃないのかな」

「そんなことは、まずありえませんが」

七三に分けたサラリーマン風の髪型で、目つきが異様に鋭い。

「ああ、そういえば血圧が正常のときは、飲んでなかったな」

開き直った態度で理由を口にした。

「そういう飲み方は危険ですよ」

「なんで? 血圧が正常なのに?」

「突然中止すると、反動で高くなってしまうことがあるんです。説明したはずですけれど」

続けて千晶は、最も気になったことを質した。

「それからヤルキンを出してほしいって、どうしてでしょう? ふらつきなどの副作用もあって、注意が必要な薬ですが?」

ヤルキンは、ベンゾジアゼピン系抗不安薬の一種で、いわゆる精神安定剤だ。パニック障害や強迫性障害といった不安障害の治療に使われるが、依存性もあり、簡単に処方していい薬ではない。

「ふらつきなんて出なかったよ。友だちのをもらって飲んだけど、大丈夫だったから」

「もらったんですか。何ミリ錠を?」

処方薬は、医師の診察を受けた患者が飲む薬だ。Aさんに合う薬がBさんに合うかどうかは分からない。

「何ミリ……そんなの覚えてないよ」

保坂は、親指と人差し指で小さな丸を作った。

「これくらいの大きさの白い粒で、外のパッケージは明るい銀色で、青い字で薬の名前が真ん中に……」

小さな白い粒の薬など、いくらでもある。普段から医師は、薬を形状や色で区別していない。いくら包装や薬の外観を詳しく説明されても、ほとんど意味のない情報だ。

「薬の包装シートが残っていたら、この次に見せてくださいね。ところでどんな症状があるんですか?」

「どんな症状って? やる気が不足してるから……。友だちがヤルキンを飲むと、仕事でも何でも元気が出るってさ」

保坂は目を細めてニヤリと笑った。

「食欲はありますか? 不安とか、生きていたくないとか、眠れないという症状はいかがでしょう?」

「そういうのは、ない」

千晶は首をひねった。抗不安薬が必要とは思われないからだ。

「ヤルキンを飲む必要性はなさそうですね。もし気になるようでしたら、精神科を紹介しましょうか?」

「え? どして? 売ってくれないの? 先生、勉強不足なんじゃない? あのさ、インターネットにも出ていたけど、ヤルキンはやる気の出ない人向けの薬で……」

保坂はどうあっても引き下がらない。かたわらで看護師が小声で「先生……」と言い、腕時計を示すのが見えた。保坂を診察室に招き入れてから、すでに十分が経過している。

保坂は両足を投げ出すような姿勢を取った。

「分かったよ、まあいいや。じゃあさ、湿布を出してよ」

まるでドラッグストアで商品を注文しているような調子だ。病院では医師が診察し、必要と認めた薬しか処方できないのが原則なのだが。

「どこかに痛みがあるんですか?」

「おふくろがちっとも歩こうとしないから。膝が痛いらしくて」

これも新たな問題発言だった。常識がないのか、それとも確信犯なのか。

「あの……。病院では、使用する本人にしか医薬品を処方できません」

「センセイは頭が固いなあ。だからさ、おふくろは足が痛くて病院に来られないんだよ。しょうがないだろ。僕が痛いってことにしてくれればいいじゃん。もういいや、もっと親身になってくれるドクターに出してもらうから」

保坂は不満そうな表情で出て行った。

親身か――。湿布薬くらい融通を利かせた方が良かったのだろうか。

要求通りに薬を出せば診察時間の節約になり、しかも患者ウケがいい。それは知っている。だが、安易に不要な薬を出さない方が、最終的には患者のためになるはずだ。そう信じて千晶は仕事をしている。

看護師も保坂のように口をへの字に曲げていた。千晶は手を合わせる。

「時間がかかってごめんね」

それにしても、あっという間に時が過ぎる。S・M・Lの順と、診察時間の長さは比例するようだ。

診察室の壁に貼られたポスターが目に入る。病院スタッフに向けて、「患者様プライオリティー」を啓発するための掲示だ。

〈患者様は、体だけでなく心も弱っています。患者様の言葉には、まず共感し、傾聴に努めましょう〉

佐々井記念病院に着任した四月、このポスターを見て感激していた頃が懐かしい。あれからまだ半年も経っていないのに、いまはメッセージを読むだけで、なぜかひどく疲れを感じる。

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三人目の藤井典子は五十二歳、肝臓腫瘍が疑われる患者だった。典子は、夫とともに診察室に入ってきた。

「で、どうなんですか、先生。女房は癌なのか、癌じゃないのか、ハッキリ教えてくださいよ」

陽電子放射断層撮影検査で、肝臓に異常な影が見つかった。PET検査とは、体のどこに癌があるかを見つけ出すための新しい検査だ。ブドウ糖に放射性物質のラベルを付けて体に注射し、放出される放射線を可視化する。ブドウ糖は、癌のような細胞の増殖が盛んな場所に集まる性質がある。通常はありえない場所でブドウ糖の取り込みが激しい部位があれば、そこに癌があるかもしれないと分かる仕組みだ。ただし肺炎のような炎症部位などにも糖が集積するため、光った部分が必ずしも癌とは言い切れない。

典子はPET検査で肝臓の一部に異常な糖の取り込みが認められ、陽性と判定された。その結果、内科を受診するようにと指示を受けてここにいる。

「PET検査では、良性か悪性かの区別もつけられませんし、癌だけでなく、単なる炎症でも信号が出てしまいますので、詳しい検査をしないと何とも言えません」

藤井夫妻は、二人とも押し黙っていた。

「……でも、ある程度は分かるはずではないのですか?」

おそるおそるといった感じで、典子が尋ねた。華奢な体つきと同様、小さくて聞き取りにくい声で。

「残念ながら、いまの段階では『疑い』としか言えません。肝生検を受けていただけませんか?」

千晶は肝臓の生体組織診断の検査日を確認するため、コンピューターのマウスを操作して院内の共有サイトを開いた。

「肝生検って、お腹に針を刺す検査ですか?」

典子がおびえたような目をする。夫が言葉をはさんだ。

「そっそれ、いったいいくらするんですか」

怒声になりそこねた、不安げなつぶやきだった。日に焼けた顔が青白くなっている。

保険適用を受けたとしても、入院のうえで数万円はかかるだろう。だが、千晶が不正確な金額を示したら、話が余計にややこしくなる。

「すみません、ここでは分からないので……」

看護師が、「患者様相談室でご説明します。後でキャンセルもできますから、ひとまず検査予約をされては?」とすすめる。

タイミングのいい助け舟に感謝した。

「けっ、検査、検査って、すぐ診断つかないんですか? じゃあいいですよ。すぐに検査してくださいよ」

「肝生検予約」のページに進む。ディスプレイの中央に、真っ赤なカレンダーが大きく表示された。月内はすべての日が予約で埋まっている。肝生検の予約が取れるのは、最短で三週間先だった。

「……すみません三週間後になります」

「ええっ! 癌かもしれないってのに、そんなに待つんですかっ」

典子の夫は大声を上げた。

「おい、帰るぞ。もっと早く診てくれる所へ行こう」

夫は妻の腕を取り、立ち上がった。典子は、おろおろした表情で夫と千晶を交互に見ていたが、結局は夫に従う。

「ちょっ、ちょっと待っ……」

千晶はあわてて引き止めるが、夫は振り返ろうともしない。

「藤井さん、もし他病院へ行かれるなら、これまでの検査結果を伝える紹介状をお作りしますか?」

看護師は慣れたものだ。飛び出していく患者にも「ウイ・スキー」の笑顔で声をかける。

「当然でしょ」が夫の捨てゼリフになった。

千晶は気持ちが萎えるのを抑えつつ、引き出しから紹介状の用紙を取り出す。ドアを隔てた内科の受付から、夫の大きな声が飛び込んできた。

「なんで紹介状に金がかかるんですか。そっちの検査が遅いせいなんだから、患者に負担させるのは変でしょ」

本当は妻思いのいい人なのだろう。藤井夫は妻のことが心配なあまり、Lのような言動になってしまったに違いない。気持ちは分かる。けれど、だからといってここで千晶にこれ以上のことはできない。

壁の時計が九時三十二分をさしていた。考え込んでいる場合ではない。まだ三人しか診ていなかった。ひとり三分半の予定が倍以上になっている。待たされる患者が気の毒だ。

とにかく次の患者を呼ばなくては――。

その後は「いかがされましたか?」で始める代わりに、「お待たせしてすみません」という言葉から入った。ひたすら待たせたことを詫び、患者を診続ける。最後の患者を診察し終えたときには、午後二時半を過ぎていた。

千晶は首筋を手でもみほぐしながら、診察室を出る。

「お疲れ。千晶先生、大丈夫?」

隣のブースから、浜口陽子が出てきた。がっちりした体型で姐御肌、六歳上の先輩だ。専門の心臓病については特に詳しい。いつも親切で、千晶は最も頼りにしていた。

「陽子先生も、いま終わったところですか?」

普段、陽子は患者を正午には診終えていたから意外だった。

「そうなのよ。今日は新患が五人もいたから」

「五人もですか」

新患――つまり、いつもの通院患者ではなく、初めて受診する患者のことだ。新患に対しては、それまでにどんな病気をしたのか、手術歴の有無や、いま現在、他の病院で受けている診断名や内服薬について、最初から尋ねる必要がある。このため診療時間は、病状が安定している通院患者の数倍かかるのが常だ。それが五人となると、たっぷり一時間以上はかかる計算になる。

午後は、三時半からの拡大医局会議に出なければならないし、その前に入院患者の回診が待っている。もはや千晶たちには、まともに昼食を摂る時間も残されていなかった。

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