どんな患者でも救ってみせる…現役医師が世に問う感動長編 #1 いのちの停車場
東京の救命救急センターで働いていた、62歳の医師・咲和子は、故郷の金沢に戻り訪問診療医になる。老老介護、四肢麻痺のIT社長、6歳の小児癌の少女。現場でのさまざまな涙や喜びを通して、咲和子は在宅医療を学んでいく。一方、家庭では、自宅で死を待つだけとなった父親から「積極的安楽死」を強く望まれる……。
現役医師でもある南杏子さんが世に問う感動長編、『いのちの停車場』。吉永小百合さん主演で映画化もされた本作の、冒頭をご紹介します。
* * *
プロローグ
救命救急センターの片隅には、特別な白いデスクがあった。
卓上には、ホットラインと呼ばれる電話だけが置かれている。そこに入るのは救急隊からの搬送受け入れ要請だ。そして、受話器を取って患者の病状を聞き、引き受けるかどうかを決定するのが、ホットライン担当になる。
「今夜のホットライン、副センター長が担当されるんですか?」
白い机の前にいる咲和子を見て、若手医師がすっとぼけた声を出した。
「ボードを見れば分かるでしょ」
当日の担務表は、医局員計二十五人の名前が入ったマグネットプレートとともに入り口の壁に掲げられていた。「4月16日・夜勤」という黒文字が躍るホワイトボードの最上部には、白石咲和子の名が貼りつけられている。
「はあ、すんません」
「謝ることないわよ。いつもとは違うんだし」
六十二歳の咲和子が夜勤をするのは月に二回ほどしかない。そのときのホットライン担当は中堅どころの医師が担うのが常だった。医師としての知識や経験以上に、瞬発力が求められる役回りだからだ。
だがきょうは、名古屋で開かれている日本救急学会の総会でセンター長の満島が基調講演に立つハレの日に当たり、大半の医局員がボスに連なって出払っていた。ここにいるのは、まだ学会にすら参加させてもらえない若手医師か研修医だけだ。
「静かな夜を祈りましょ」
咲和子は一人つぶやいて立ち上がった。
ホットライン担当は、さまざまな状況を考慮しつつ、患者の受け入れの可否について瞬時に判断を下さなければならない。状況というのは、すでに埋まっているベッドの数、スタッフの人数や能力、要請された患者の病状、他の病院の空き具合など多岐にわたる。若手には到底、任せられない仕事だった。ただ、十二時間のミッションが心と体にかける負荷は極めて大きい。
城北医科大学病院の救命救急センターで、生え抜きの女性医師として初めて副センター長に抜擢されて八年。なおも若手に負けない仕事ぶりを見せつけてはいるが、咲和子の役職定年は三年後に迫っている。静かな夜を祈りたい気持ちに偽りはなかった。
コーヒーを入れてホットラインの前に座り直す。
入り口からワイシャツ姿のスラリとした事務員が入ってきた。
「各病棟の当直医リストでーす」
救急外来で事務のアルバイトをしている野呂聖二だ。均整の取れたきれいな顔立ちをしている。
痛っ――。手渡されたA4の紙の端で、左手の甲を少し切った。
空調の利いているはずの院内だが、吹き出し口の向きによって空気が極端に乾燥するスポットが生まれる。このデスクに着くと咲和子は、冬の間中、薪ストーブを焚き続けて部屋の中がカラカラに乾いていた日本海側の実家を思い出す。
「大丈夫ですか?」
「うん、ありがとう。今夜は野呂君なのね」
事務とはいっても、救急救命センターに出入りすることで現場の勉強になり、医学部の学生には人気のバイトだ。ただし野呂は現在、医師国家試験に落ちて浪人中の身だった。
「国試があるのに、バイトに来て大丈夫なの?」
「いや、まあテキトーにやってますよ」
朝から晩まで試験勉強に没入すべき時期だというのに、どこか他人事だ。学部五年の臨床実習のころは、ぜひとも救命救急医になりたいと言い、センターでも熱心に救急医療の専門書まで読んでいたのに。
「またそんなこと言って。暇な時間はしっかり勉強しなさいよ」
「ほーい。それにしても今夜は平和だといいっすね」
野呂は逃げるように持ち場へ戻った。
「平和――。そうよね」
咲和子がサンドイッチの包みを開けたときだった。安易な願いを見透かしたようにホットラインが鳴った。
「はい、城北医大」
「こちら、東京消防庁・災害救急情報センターです――」
発信者は思いがけない本庁の部署名を名乗った。ホットラインの一報は各消防署の救急隊からもたらされるのが普通だ。本庁が絡むということは、規模が大きい状況を意味する。咲和子の緊張は一気にピークに達した。
「大規模交通事故で重篤患者の受け入れ要請です。東池袋四丁目、国道254号、都電荒川線の向原停車場付近で大型観光バスが都電に衝突して横転、さらに玉突き事故を引き起こし、多数の負傷者が発生しました。重傷者を中心に、できるだけ多く受け入れていただきたいのですが」
救命救急センターのベッドは十あるが、人工呼吸器まで備え付けたフル装備のベッドは二台しかない。一般的な心電図モニター付きのベッド八台は満床だ。
「何人ですか」
二人可能です――という言葉をのみこみ、咲和子が逆に尋ねた。池袋駅の南側に位置する城北医大病院は、現場に最も近い位置にある三次救急指定病院だ。事故が起きた停車場は五キロと離れていない。
「ほかにも依頼しますが、重傷者の搬送先は確保が難航しそうです。比較的軽傷の患者はすべて周囲の病院に受け入れさせます。なんとか重傷者をお願いしたいのですが……」
相手も必死になって説得の構えを築こうとしている。
「だから重傷に限ると、何人?」
「現状では少なくとも二十人。城北さんには、うち七人をお願いしたい」
思った以上の人数に、咲和子は一瞬息を止める。だが、躊躇している時間はない。負傷者の命が刻々と失われようとしているのだ。いま断れば、救える患者も救えなくなる。
消防庁の出動指令としては、事故現場から救急車の群れを南下させ、新宿区の国立国際医療研究センター病院、東京女子医科大学病院、慶應義塾大学病院までですべての患者の収容を終えたいところだろう。年に一度の学会で救急医が足りない事情は、どこの病院も同じだ。現場至近の城北医大がリクエストされた「七人」は、過大とは言えなかった。
「分かりました。七人受けます。すぐに来てください」
今度は先方が息をのむのが感じられた。
「ありがとうございます! 詳細は各救急隊から」
電話を切った直後、咲和子は立ち上がって大声を出した。
「交通外傷で重傷を七人、受け入れました!」
救命救急センター内がざわつく。
「正気ですか、白石先生。どうやって診る気ですか? 今夜のスタッフは五人ですよ」
若手医師が目を見開く。患者一人に一人の医師でも間に合わない。ましてや症状の重いケースでは、一人の患者に二、三人が付くことも少なくない。
「ベッドが足りません。無理です!」
看護師長が血相を変えた。確かに、重傷者用のベッドは二つあるだけだった。
「今いる患者は、できるだけ一般病棟に上げましょう。足りないならリカバリーを使ってもいいから」
回復を待つためのベッドが二台ある。
「あんな場所で重傷患者を受け入れるんですか? 責任持てませんよ」
リカバリーのベッドは簡単な酸素マスクや吸引ができる程度の装備しかなく、本来は最初に患者を受け入れる場所ではない。そんなことはもちろん分かっている。けれど、限られたリソースで命を救う方法を考えるのが最優先だ。
「緊急事態です。都電と大型バスの衝突事故で二十名以上の重傷者。現場は東池袋。私たちが見捨てるわけにはいきません。責任は私が取ります。今夜は城北医科大学救命救急センターの底力を発揮しましょう」
いつにない咲和子の言葉に、センターのスタッフは全員、反応した。
「私、ベッドコントローラーに連絡して、今いる患者を一般病棟に移します」
若手スタッフの一人が動いた。「お願いします」と咲和子はうなずく。それに続くように、次々と声が上がり始めた。
「グループラインで、オフの医師に声をかけます」
「では、院内の看護師に招集をかけます」
「院内放送で手の空いている医師を呼び出します」
咲和子は頭を下げた。
「みんな、ありがとう」
古株の看護師がリカバリー室に、旧型の心電図モニターを運び入れてきた。
「よく見つけてきてくれたわね。これなら立派に救急対応できる」
「一昔前の救命救急センターみたいですけど」
看護師が肩をすくめる。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。いつものような一台の音ではない。複数の警報音が重奏しながら迫ってくる。
咲和子は武者震いした。どんな患者でも救ってみせる――そんな気持ちからだ。
「三十二歳男性。頭部外傷、左前頭部挫創。意識混濁、直前の主訴は激しい頭痛、血圧一九〇の一〇〇、呼吸数一二――」
ストレッチャーに乗せられた患者が、救急隊に伴われて運び込まれる。そのすぐ後ろにも四台のストレッチャーが並び、立て続けに五人が運び入れられようとしている。普段はせいぜい一人か二人で、極めて珍しい状況だ。事務スタッフも来て、患者の家族を待合室へ案内する。
院内放送を聞きつけた医師や看護師が救命救急センターに集まりつつあった。広いはずのセンター内が、人であふれ返る。
「五十五歳女性。腹部臓器損による腹腔内出血疑い。意識混濁、主訴不明、血圧八二の下は測定不能、呼吸数一八――」
患者一人に対して数名の医師や看護師が取り囲むようにして救命に当たる。点滴や呼吸補助、心臓マッサージ、尿道カテーテル、止血処置、点滴手配など、複数の処置が同時に必要となるからだ。
「二十八歳男性。胸部打撲。意識ほぼ清明、主訴胸痛、呼吸困難。顔面蒼白、血圧九〇の四五、呼吸数二〇――」
次々と医師や看護師が取り囲む。
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