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頭をよぎるのは厳しい訓練の光景――。超監視社会の闇を描いた警察ミステリー #1 キッド

上海の商社マン・王作民と、福岡空港に降り立った城戸護。かつて陸上自衛隊でレンジャーの称号を得た城戸は、王を監視する刑事の存在を察知。不審に思いながら護衛を続けるも、秘書が王を射殺し、自死してしまう……。数々の話題作で知られる相場英雄さんの近作『キッド』は、超監視社会の闇を描き切った警察ミステリーの金字塔。今回は『血の雫』の文庫化を記念し、その冒頭を特別にご紹介します。

*  *  *

プロローグ

左耳のイヤホンに神経を尖らせながら、男は口元の一体型マイクに向け、小声で告げる。

「作戦指揮所、こちらファルコン、送れ」

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ハウリング音が耳の中で響いたあと、くぐもった声が一八〇〇キロ離れた場所から届く。

〈ファルコン、先ほどの報告は本当か?〉

「行動は極めて迅速。十分に訓練された兵士と思われる」

男が兵士と言った途端、指揮官が息をのんだのが衛星電話越しでもわかる。男は周囲の隊員たちに目をやったあと、朝靄に霞む二階建ての建物と、その中心から伸びる太い煙突状の建造物を暗視用望遠鏡で見た。時刻は午前四時一五分。夜明けの遅い島の空が明るくなるのは、あと二時間半後だ。

管制塔の最上部に細い光がいく筋も走っている。小型ヘッドライトの光だ。絶対に漁民などではない。特別な訓練を受けた兵士たち、それも揚陸と制圧作戦に長けた強者だ。

「二分前に二名を偵察に出した。まもなく詳細な報告が入る。目視で敵の総数は一二名」

男が報告した直後だった。前方約三〇〇メートルの地点で五、六本の閃光が走り、乾いた破裂音が響いた。

〈今の音はなんだ?〉

「敵の発砲と考えられる」

男は左前方で軽機関銃を構える部下に目配せをした。部下が周囲にいた他の隊員にハンドサインを送り、低い姿勢を保ったまま、広いアスファルト路を素早く横切った。

「あと三名、偵察に出した。敵対行動を確認次第、攻撃許可を」

冷静さを失いかけている様子の指揮官とは対照的に、男の心は驚くほど落ち着いていた。これはまぎれもない実戦だ。三時間前、突然レーダーに出現した不審船がこの島に接近し、急遽出動を命じられた。そのときから、男は理詰めで様々なシナリオを描いてきた。偵察隊が威嚇攻撃される可能性も想定していた。

男は右脇に控える部下に目を向けた。自分の口元にあるマイクとヘルメットの縁近くにあるイヤホンを素早く指さす。部下は首を振る。

「先発させた二名といまだ連絡とれず」

〈撃たれたのか?〉

指揮官が沈痛な声で尋ねてきた。男はもう一度、前方の建物を注視した。北緯二四度、東経一二五度に位置し、エメラルドグリーンの海に囲まれた細長い島。先ほどの破裂音のあとは、不気味な静寂に支配されていた。

「防衛出動の下命はまだか?」

〈大臣と統合幕僚長が官邸に入った。総理のご決断を待っている〉

指揮官の声が沈んでいた。日頃勇ましい言葉を叫ぶ最高指揮官はなにを迷っているのか。

〈隊長、スパローとターンの被弾を確認!〉

左耳に部下の声が響いた。

〈両名ともに眉間を撃ち抜かれて死亡。スナイパーがいます!〉

全身が粟立った。部下たちと過ごした厳しい訓練の光景が頭をよぎる。男は唇を強く嚙んだあと、口を開く。

「隊員二名、死亡。繰り返す、二名死亡。速やかに防衛出動の下命を。このままだと敵に西日本全域の制空権を奪われます!」

第一章 帰郷

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小さなレンゲでスープをすくい、口に運ぶ。鯉と鶏ガラの出汁が混ざり合い、軟らかく炊かれた粥がじんわりと胃に沁みていく。城戸護は小皿から油条を取り上げ、朝粥の丼に少しだけ浸した。新鮮な油で揚げられたパンが、滋味深いスープをみるみるうちに吸い上げる。軽めの粥と油条は絶妙のバランスで城戸の胃袋を満たす。三日に一度訪れる屋台の味はいつも通りだ。

「早晨(おはよう)! KID」

香港・九龍半島の台所、油麻地市場近くの街角に元気の良い少年の声が響き渡った。城戸が顔を上げると、笑みを浮かべたホイが駆け寄ってくる。

「我都餓了(俺も腹が減ったよ)!」

「問你中意吧(好きなやつを頼みな)」

城戸も広東語で告げた。一〇歳のホイが再び笑みを浮かべ、屋台の主人に豚レバーと肉団子の粥を威勢よくオーダーした。

「それで、俺になんの用だ?」

「アグネスからメモを預かってきたよ」

ホイは短パンのポケットから折り畳まれたメモを取り出し、城戸の丼の脇に置いた。

「仕事かよ。ゆっくり写真を撮れると思ったのに」

城戸はたすき掛けにしていた古いフィルムカメラ、ライカM6のシルバーのボディーに手を添えた。前回の仕事を終えて香港に帰ったのが一週間前だ。ロンドンで不味い飯を一〇日も食べ続け、神経質なクライアントに振り回された。

ようやくホームグラウンドの九龍の下町に戻ったのだ。愛機M6にモノクロのフィルムを詰め、垢抜けない街の風景、ガツガツと逞しく生きる地元民を心ゆくまで撮り続けるつもりだった。

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城戸はリーバイスのデニムのポケットをまさぐり、二〇香港ドル紙幣をテーブルに置いた。すかさずホイが手を出すが、城戸は札を押さえる。

「どこを探しても俺はいなかった。アグネスにそう伝えてくれたら、二〇ドルやるよ」

ホイが強く首を振る。

「この前もその手を使ってアグネスに怒られたばかりじゃないか。俺は悪事には加担しないよ」

腕を組んだホイが頬を膨らませた。

「まったく、いつもチップをやるのは誰だと思っているんだ」

「それとこれは別の話だよ。それより、早くメモをチェックしないとアグネスに怒られるんじゃないの?」

市場近くの小さな電器店の一人息子は、大人びた口調だ。

「わかったよ」

城戸は渋々メモを開いた。

〈ズミクロンの九枚玉をご所望のクライアント来店 至急、店に戻って〉

やはり本業ではなく、足を洗おうと考え続けている稼業への依頼だった。

「なんて書いてあるの?」

二〇ドル紙幣をポケットにしまい、メモを覗き込もうとするホイの目の前で、城戸は紙を素早く折り畳んだ。

「商売上の秘密だ」

「いまどきスマートフォンも使わないKIDのために、俺はいつも御用聞きみたいに走り回っているんだ。教えてくれてもいいじゃないか」

ホイが思い切り口を尖らせた。城戸は首を左右に振る。

「ホイはまだ子供だ。危険な目に遭わすわけにはいかない」

ホイは不満げな顔だが、危険と言ったのは嘘ではない。

「それにスマートフォンは性に合わない。すまんがしばらく連絡係を頼むよ」

城戸は勢いよく粥をすすり始めた。

「スマートフォンだけじゃないよ。化石みたいなフィルムカメラを使うのはなぜ?」

「このカメラは化石じゃない。ウチの店に置いてある品物は全てメンテナンスを施した現役のカメラだ。なんでもデジタルにすればいいってもんじゃない」

粥を平らげると、城戸は丼の横に小銭を置いた。プライベートでスマートフォンを使わない理由を、一〇歳の子供に説明してもわかるだろうか。仕事の上でデジタル機器の必要があれば、手立てはいくらでもある。

「いつも訊いてるけど、カメラ屋がKIDの本業なの?」

「そうだ。儲けは少ないが、大好きな仕事だ」

城戸はもう一度愛機を撫でて、席を立った。

温麵の屋台、精肉店、野菜専門の店先を眺めながらゆっくりと歩を進める。米を炊く匂い、点心を蒸す水蒸気がそこかしこに漂う。露店の店先、大きな声で話し込む九龍の人々の間を縫うように、城戸は自分の店へと足を向けた。

どんな新規顧客かはわからないが、〈ズミクロンの九枚玉〉という合言葉を知っている。アグネスのメガネにかなった相手だ。きっと断れない仕事に違いない。今度香港に帰ってくるのはいつになるのか。周囲の景色を慈しむように眺め、城戸は何枚もシャッターを切った。小径の角で、城戸は不意に歩みを止めた。誰かに見つめられているような気がした。だが、周囲に城戸を注視する人間はいなかった。

九龍地区を南北に貫く地元の大動脈、彌敦道(ネイザンロード)に沿って続く小径をゆっくりと南下した。観光客や地元民を満載した二階建てのバスが激しく往来して、百貨店、ブランドショップが連なるネイザンロードから、一歩裏手に入る。数多くの映画や小説の舞台となった、いかにも香港らしい風景が続いている。

道の両側に、建て増しに次ぐ建て増しで背を伸ばすマンションがびっしりと並び、それぞれの窓やベランダには無数の洗濯物がかかる。建て増しの連続でエレベーターの乗り継ぎは当たり前、中には迷宮のように階段が入り組んでいるビルも少なくない。

市場で買い物をした商売人や主婦らが行き交う道端で、城戸は足を止めた。改めて頭上を見る。無数の洗濯物も香港の名物だが、もう一つここでしか見られないのがビルのベランダや窓から縦横無尽に伸びる看板の群れだ。また誰かの視線を感じた。見回すが、人影はない。

海鮮料理、マッサージ、携帯電話、人材派遣……。ありとあらゆる業種、店の規模にかかわらずそれぞれの看板が強く自己主張する。夜になると、ネオン管が灯り、煌々と一帯を照らす。その瞬間、九龍の裏通りは文字通りの不夜城に姿を変える。

城戸はM6につけていた五〇ミリのズミクロンを二八ミリのエルマリートに交換し、ファインダーを覗いた。五〇ミリレンズの画角は人間の視界と同一だと言われるが、より広い範囲を捉えることができる二八ミリのレンズは、香港の雑多で猥雑な街角を丸ごと写し撮る。

歩道の縁で中腰になる。城戸はアングルを決め、シャッターを切った。ファインダーの中で長い竹竿を持った職人がビルの外装工事の足場組みを始めた。九龍では竹竿を組み合わせた足場を作り、高層階まで命綱なしで職人が登っていく。ゆっくりとフィルムを巻き上げ、竹竿と職人の顔が写るローアングルを探った。頭上から怒りの籠もった声が降ってくる。

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キッド 相場英雄

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