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母は突然家を出て行った。 #2 鎌倉駅徒歩8分、空室あり

第一章 おうちカフェ 香良

 昨夜、降り続いていた雨があがった。キッチンの窓から見える西洋アジサイが朝の光を浴びて錆色に光っている。ここにきてアジサイも終わりの色に近づいている。

 電気ポットがシュッシュッと音を立てはじめる。底部の温度計がみるみるうちにあがっていく。
 尾内香良(おうちから)はステンレスの容器に入ったグァテマラをコーヒーメジャーで掬い、ミルに入れた。父から譲り受けたライオンマークの細長い箱は、ニーミルといって両ひざに挟んで使う。ペパーミントグリーンのペンキがはげかけたスツールに腰かけ、ゆっくりとハンドルをまわす。ゴリゴリと小気味よい音と共に硬い豆が砕かれる。

あと少し、もうひとまわし。ふっと手の中が軽くなった。ミルをシンクに置き、底の引き出しを開ける。窓から心地よい風が入ってきた。金木犀(きんもくせい)の香りがさらにブレンドされたところで粉をドリッパーに移す。
 細長い注ぎ口のポットで湯を注ぐ。一滴また一滴、ガラスのサーバーに雫が落ちていく。

「コーヒーを飲まないと一日がはじまらない」
 父は口癖のようにそう言った。子供の頃、コーヒーは苦手だった。大人はどうしてこんな黒くて苦いものを美味しそうに飲むのか不思議でたまらなかった。だけど、いつからだろう。朝の一杯が欠かせなくなった。
 琥珀(こはく)色の雫がきれいに落ちきった。サーバーを揺らして、心の中で唱える。

 美味しくなりますように。
 青磁色(せいじいろ)のカップがふたつ。黒い縁取りと乳白色の縁取り、それぞれにコーヒーを注ぎ、リビングに移動した。出窓に置いた写真立ての中の父と目があう。
「おはよう。きょうはグァテマラベースのブレンドにしたよ」
 黒い縁取りのカップを父の前に置く。
 フォトジェニックとは言い難かった父は、新調したばかりの眼鏡をかけ、枠の中で居心地悪そうな笑みを浮かべている。これが最後の写真になるなんて思いもしなかった。七十歳の誕生日を目前に父は逝ってしまった。

 あれから一年。
 庭でヤマガラが鳴いている。ビィビィビィと利かん坊みたいな声。
「鳥の鳴き声にもいろんな種類がある。あれは『腹が減った』という合図なんだ」
 教えてくれたのも父だった。
 白い格子の掃き出し窓の前に立った。大正時代に建てられたこの古い洋館にひとりで暮らすようになって気がついた。一日として同じ風景はないのだと。暇さえあれば、庭を眺めていた父の気持ちも今なら理解できる。

(写真:iStock.com/Robert Clay Reed)

 百日紅(さるすべり)が花をつけている。薄紅色の花の間からまるっとした柿色の腹が見え隠れしている。サルも滑るから「さるすべり」というが、ヤマガラはつるつるした枝でも器用にとまっている。掃き出し窓を開け、テラスの椅子に腰をおろした。カップを傾ける。グァテマラの苦みが口の中でほどけ、果実のような酸味とコクが広がっていく。

 澄んだ空にはいわし雲が並んでいる。そういえば……。東の空に目を移す。きょうは十五夜だった。このぶんだと、きれいな満月が拝めそうだ。
 去年の今頃は空を見上げる余裕なんてなかった。〈どういうつもり? あたしをひとり残して、どこに消えたのよ〉。青、藍色、水色、灰褐色(はいかっしょく)……。空の色なんて関係なかった。天を仰いで、クモ膜下出血で倒れ、逝ってしまった父を恨んだ。とうとうあたしはひとりきりになってしまった。

 母が家を出ていったのも突然だった。五歳の、たしか六月だった。朝起きたら、いなくなっていた。悲しいとか辛いとか、そんな感情の前に、意味がわからなかった。人と人とは前触れもなく別れるものだと、そのとき知った。どうやって明日を迎えればいいのか。

子供ながらに途方にくれた。

◇  ◇  ◇

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