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私が本当に求めているものは?…30歳になった同級生4人の物語 #2 世界のすべてのさよなら

会社員としてまっとうに人生を切り拓こうとする悠。ダメ男に振り回されてばかりの翠。画家としての道を黙々と突き進む竜平。体を壊して人生の休み時間中の瑛一。悠の結婚をきっかけに、それぞれに変化が訪れる……。『世界のすべてのさよなら』は、芥川賞候補に選ばれ、ドラマ化もされた『野ブタ。をプロデュース』で知られる白岩玄さんの新境地ともいえる作品。その中から、第2章「翠」のためし読みをお届けします。

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今週はまた新しい映画の宣伝が始まるため、パブリシティの会議のためのアイデアを出さなくてはならなかった。どうしたら無料でマスコミが取り上げてくれるかを考えるのはいつものことだが、自分の体が元気じゃないと、会議で通るような面白いアイデアを出すのは難しい。

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とりあえず一番頭を使わないメールチェックから取りかかると、一通目の返事を書いているところでスマホにラインの着信があった。大学時代からの友人の瑞穂が『いま仕事中~?』とたれぱんだ付きのスタンプで訊いている。

『うん、仕事中。どした?』

『話したいことがあるんだけど、お昼にちょっと会えない? ランチタイムいつ?』

再び押されたたれぱんだに目を留めたまま思案した。瑞穂は先月仕事を辞めたため、時間があるのはわかるのだけど、平日の昼間に会おうと言ってくるなんて余程のことだ。ひょっとして結婚が決まったのか? 仲のいい女友達で独身なのは、去年五年付き合った彼氏に振られて以来、婚活を続けている瑞穂と、今の仕事が楽しいので、まだ当分結婚はしたくないという由希子、そして仏教に魅せられてアジア諸国を巡っている、「ミス・ゴーウィングマイウェイ」の千夜だけだ。私はひとまず理由を訊かずに『いいよー』とラインに打ち込んだ。

女友達というのは、やはり独特なものだと思う。歩む道は違っても、立っている地面が同じというか、同性であるがゆえの痛みの共有みたいなものがあって、そこは悠たちとの集まりとは全然違う。あっちは男三人だから、変に気を回したり、話を聞くときにやたらと相づちを打ったりしなくてもいいところは楽だけど、少なくとも同じ冬の大地を歩いている同志だとは思わない。

だから私はずるいのかもしれないけれど、大学時代から両方の世界を行き来してきた。どちらかだけに偏ることなく、まるで永世中立国を貫くように、適度に距離を置くことで自分の心の安寧を維持してきた。

でもここ数年は、そういう二つの世界の行き来も別に必要ないのかなと思ったりする。悠たちのことはもちろん、瑞穂や由希子や千夜との関係だって、どうしてもなくてはならないのかと考えるとよくわからない。こういう人とはもう一生出会えないなと思えるのは瑛一くらいで、他の友達に関しては、わざわざ切る必要がないから続いている感じもする。もちろん実際に顔を合わせれば、普通にその時間を楽しんでいる私がいたりもするのだけれど。

仕事がうまく片付かなくて少し遅れてしまったが、会社の近くのインドカレー屋で瑞穂と会った。晴れ晴れとした顔で私を迎える彼女を見て、やっぱり結婚の報告かと不安になる。片言の日本語を喋る店員にチキンカレーを注文してから何かあったのかと尋ねると、瑞穂は満面の笑みを浮かべて「あのね、翠」と切り出した。

「私、陶芸家になる!」

「……は?」

「だからね、陶芸家になるの!」

一体何のことだかわからない。瑞穂は戸惑う私に構わずに話を続けた。

「私、美大のときに陶芸科だったじゃない? それで久しぶりに土を触ったら、なんか憑きものが落ちたっていうか、心が晴れやかになっちゃって。土に呼ばれてる気がするのよ、今」

自分の眉間に深いしわが寄るのがわかる。ときどきおかしなことを言う奴ではあるが、ここまで脈絡のないことを言い出したのは初めてだった。なんだか途端に冷静になって深い溜め息をつく。

「いや、ちょっと待ってよ。結婚はどうなったの? ついこないだまで頑張って婚活してたじゃない」

「だってうまくいかないんだもん」

瑞穂は急にふてくされておしぼりをいじり始めた。週末に婚活パーティーに参加してきたらしく、今回で十回目になるのでさすがにうんざりしてきたそうだ。私はその成果のなさに同情するとともに安堵した。瑞穂には幸せになってほしいが、置いていかれるのが怖くもある。

「だいたい婚活パーティーってさ、真剣に何度も行ってると、どんどん目が厳しくなって人を信用できなくなるようにできてるのよ。あれ、もうちょっと主催者側が智恵をしぼるべきじゃない? 私、どうしてお金払ってまで男に対する不信感を強くしてるんだろうって思うもん」

急に毒を吐き出した瑞穂をなだめるように「いや、言ってることはわかるけどさ」と私は言った。聞いているだけで気分が重くなる話だ。

「でもなんで久しぶりに陶芸なんてやろうと思ったの?」

「あー、それはね、映画に影響されたのよ。こないだ観た、なんとかっていう賞取ったやつ」

瑞穂は単館系の映画館で公開している洋画のタイトルを口にした。私も前に予告を観たが、あの映画のどこに陶芸がからんでいたのかと考える。ゲイの男を主人公にした切ない恋愛モノだったはずなのだ。

「好きな人に振られた主人公がね、おまえは何が欲しいんだって自分に問いかける場面があるんだけど、なんかそこがすごく印象に残ってさ、私も問いかけたのよ、おまえは何が欲しいんだって。で、ちゃんと考えてみたら、私が求めてるのって本当は結婚じゃなくて、もっとのんびりした人間的な暮らしなんじゃないかなぁって。それで学生時代に戻って久しぶりにろくろでも回してみようと思ったわけよ」

そういうことだったのか。傍目にはそれは逃避にしか見えないが、気持ちはわからなくもなかった。女として冬の大地を延々と歩き続けていれば、いろいろと夢想して気を紛らわせたくもなる。友としては相づちと共感を割り増しして優しく見守ってやるしかない。

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その日は早く仕事が終わったので、会社の帰りに瑞穂の言っていた映画を観に行ってみることにした。上映開始の十五分前に映画館に着いたので、席がけっこう埋まっているんじゃないかと気をもんだのだが、意外にも客席はがらがらで、ほぼ貸し切りの状態だった。いい席で観られるのは嬉しいけれど、映画業界の末端で働いている身としては溜め息が出る。せめて少しでも映画館の収益になるようにと、売店でオレンジジュースとポップコーンを買い、窓口で選んだやや後ろめの席に座って上映開始の時間を待った。

私の他には三十代の女性が一人と二十代のカップル、そしてどう見てもこの映画に興味がなさそうに思える、身なりのあまりよくないおじさんが最前列に座っているだけだ。やがて照明が暗くなったので、切り忘れていたスマホの電源を切って眼鏡をかけた。映画が始まる前のこの暗闇が好きだから、今の仕事を続けていられるのかなと思うことがある。

主人公は二十代後半のゲイの男だ。彼は仲のいい男友達と二人でアパートを借りて住んでいる。それにもともと彼が飼っていた若いボーダーコリーが一匹。二人は週末に映画を観たり、チェスの対戦をしたりしてそれなりに楽しく暮らしている。でも彼らは恋人同士というわけではない。彼は彼の友人のことが好きだが、友人は彼がゲイであることを知らない。だから彼の完全な片想いだ。

映画の冒頭ではそうした彼の穏やかな日常が描かれる。二人でスポーツ観戦をしたり、買い物のついでに友人が好きなアイスクリームを買って帰ったりして、想いを隠しているつらさはあっても、彼は彼の友人と暮らせることに幸せを感じているのがわかる。

でもあるとき友人が、最近できたという彼女を家に連れてくる。ルームメイトだと紹介された彼はその彼女と笑顔で握手を交わす。もちろん複雑な気持ちではあるが仕方がない。もやもやした気持ちのまま彼は現実を受け入れる。

しかしその出来事は彼の日常を少しずつ変えていくことになる。彼女が家に泊まりに来ることが増え、彼は夜中に二人がセックスする物音を聞くようになる。朝、彼の友人のパジャマを着た彼女が幸せそうに朝ご飯を食べている姿を目にするようになる。すべては恋人同士の男女がする普通のことだとわかっていても、彼はそういったことにだんだん耐えられなくなってくる。おまけに友人の彼女はちっとも嫌な人間じゃない。優しくてユーモアのセンスがある素敵な女性だ。そのことが彼を余計に孤独にさせる。

様々な抵抗や逃避(好きでもない男と食事に行ったり、仕事に打ち込んだり)をした末に、彼はとうとう想いを伝えることを決意する。このままでは自分をすり減らしていくだけだ。そう思った彼は、彼女とのディナーを楽しんで帰ってきた友人に、「ちょっと話したいことがあるんだ」と持ち掛ける。しかしいざ本人を前にするとうまく言葉が出てこない。

彼はためらい、眠っている犬に励ましをもらうようにしばし目をやり、なんとか自分がゲイであることを告白する。でも自分の気持ちが誰に向かっているかということが伝えられない。君のことを愛しているという言葉がどうしても言えない。だから彼の友人は突然の告白にうろたえながらも、最後には「OK」と言って笑ってみせる。何も問題はない。それでも君は僕の大事な友達だ。

瑞穂が言っていたのは、このあとの場面のことだった。

彼は洗面所の鏡の前に立って自分に問いかける。What do you want? 何が欲しい? おまえが本当に求めているのは何なんだ? 睨みつけるように問いかけてみても、鏡に映る男は無言で見つめ返してくるだけだ。でも彼はわかっている。自分は友達になりたかったわけじゃない。たとえそれが普通とは違う「大事な」友達だったとしても、自分が求めているのはちゃんとした恋愛感情がともなった友人からの愛なのだ。

でもそれはどうやっても手に入らないし、この先も手に入る見込みはない。だから彼は大好きなその友人から離れることを選択する。友人を心配させないために、実は自分には恋人がいて、その人から一緒に住まないかと誘われていると嘘をつき、どこか遠い街へ引っ越そうするところで映画は終わる。

感傷的なピアノのメロディーとともにエンドロールが始まると、思いのほか映画に入り込んでいたことに気がついた。ストーリーだけを切り出せば、切なくてビターな恋愛映画になるんだろうが、瑞穂の言っていたことを踏まえて観ると、「あなたが本当に求めているのはなんなのか」というメッセージが強く胸に押し迫ってくる。

私が本当に求めているもの?

会場が明るくなってからも席を立つことができなかった。思い浮かぶのは巧の顔だが、なぜか今はそれが問いの答えだとは思えない。気がつくと客席にいるのは私だけになっていた。最初から客などいなかったかのように私一人がぽつんと無人の客席に座っていた。

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