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北の大地に蒔かれた悲劇…青年実業家の復讐と野心を描くミステリー巨編 #1 天国への階段

家業の牧場をだまし取られ、非業の死をとげた父。将来を誓い合った最愛の女性・亜希子にも裏切られ、孤独と絶望だけを抱え上京した柏木圭一は、26年の歳月を経て、政財界注目の実業家に成り上がった。罪を犯して手に入れた金から財を成した柏木が描く、復讐のシナリオとは……。ハードボイルド小説の巨匠、白川道さんの代表作として知られる『天国への階段』。ミステリ好きなら一度は読みたい本作より、一部を抜粋してご紹介します。

*  *  *

第一章 傷ついた葦

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昨夜半から降りはじめた豪雨は昼の一時を過ぎたころになってようやく小雨に変わった。

その降りしきる小雨のなかのパドックを十八頭の馬たちが周回を重ねている。

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力強く後肢を踏み込み絶好の仕上がり具合を示す馬、場内の熱気と興奮とで明らかにイレ込み状態にある馬、首を上下させながら秘めた闘志をむき出しにしている馬――。

しかしどの馬からも、この晴れ舞台に登場するのが持って生まれた自分の血の当然の帰結とでもいう品格と自信とが感じられる。

パドックは黒山の人だかりだった。人と傘の波にもまれながら、柏木圭一はそんな馬のなかの一頭、ゼッケン番号17番をつけた馬に先刻から熱い視線を注いでいた。

ホマレミオウ――。公表馬体重四百二十六キロ。牝馬としてもやや小ぶりではあるが、この雨を受けて、栗毛色をした馬体からはかすかに白い湯気が立ちのぼっている。

係員の合図で色とりどりの勝負服をまとった騎手が馬の背にまたがると、パドックを取り囲んだ観衆の傘が揺れ、ひときわ高い歓声がわき上がった。

ゼッケン番号1番から順に馬場に通じる地下道へと姿を消してゆく。

最後から二番目のホマレミオウが柏木の眼前に来たとき、一度嫌々をするように彼女は立ち止まった。調教助手に追われ、ふたたび首を上下させながら歩きはじめた彼女の横顔を、柏木はもう一度確かめるように見つめた。

澄んだ大きな目は、やはりカシワヘブンに瓜二つだった。しかし、ホマレミオウの物言わぬその目とたった今示した嫌々をするしぐさが柏木の目には、まるで自分になにかを訴えているかのように映った。

走ることはサラブレッドの宿命である。しかもこのレースはグレードに格づけされている牝馬の最高峰、オークス。馬主や調教師が生涯に一度は出走させることを夢見るレースである。

サラブレッドの馬体はきわめて繊細にできており、したがってその使い方には細心の注意と配慮とがなされる。それを考えればホマレミオウのこの日までのローテーションは明らかに酷に過ぎた。

三月と四月のダートの未勝利戦に三回立てつづけに使われ、着外に敗れると一転して四月下旬の芝の未勝利戦に挑戦し、そしてこれが功を奏して初の勝鞍をあげると、芝が適していると読んだのか、陣営は今度は一週間後の特別戦に連闘という強攻策を打ち出した。陣営の狙いは明白だった。そのレースで二着までに入ると、オークスへの出走権利が得られるからである。

むろん周囲の反応は冷ややかだった。どう考えても無謀な使い方といわれてもしかたのないローテーションだからだ。

だがホマレミオウは、そんな周囲の雑音を封じるかのように千八百メートルを走り抜き、見事、直線で二着に突っ込んできたのである。

そして三週間後のきょう、晴れてオークスという檜舞台を迎えている。

なか二、三週間という出走間隔は別に酷使というほどでもない。しかし、ホマレミオウのこれまでのローテーションがローテーションだった。ましてや牝馬である。連闘によって目に見えぬ疲労が蓄積し、馬体にも相当な負担がかかっていることは明らかだった。それに母馬の血統からみて重馬場は不得手のはずだった。

さすがにファンもそのあたりは熟知している。単勝オッズでは十八頭中のしんがりから二番目という人気のなさで、もし優勝するようなことでもあれば、四千円台もの高配当となる。

こうまで強引なやり方で馬を走らせるのは、なにがなんでも自分の持ち馬をオークスに出走させたかったからだろう。

江成達也――。やつのやりそうなことだ。欲しいもの、名誉と名のつくものはすべて手に入れる。それがやつの本性だ……。

柏木はホマレミオウが消えた通用口を見つめながら胸でそうつぶやくと、観衆の少なくなったパドックをあとにして馬主席のある中央観覧席の建物に足をむけた。

馬主席で待つ義父の横矢孝義の顔が目に浮かぶ。きっと顔を出すのが遅いことで苛立っているにちがいない。

しかし歩く柏木の気持ちはふさいでいた。立ち止まったときに見せたホマレミオウのあの目。澄んだ大きなあの目は、まちがいなく自分を見つめていたようにおもう。走りたくない――。まるでその気持ちを自分に訴えているようだった。ホマレミオウの惨敗する姿を見るのは忍びない。

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混雑する人波で誰かの肩にぶつかった瞬間、柏木は中央観覧席にむかう足を出口へと変えた。

顔を出さなかった理由は適当に繕おう……。どうせ横矢は自分には強い態度をとれはしない。

競馬場を出て、一度振り返った。

西の空がいくらか赤みを帯びはじめている。降りつづいたこの雨もどうやらやみそうな雲行きだ。

あと数分もしたらゲートが開かれるだろう。だが結果は見なくてもわかっている。

泥どろのきょうのこの重馬場の二千四百メートルで、ホマレミオウが上位に入着することはまちがってもないだろう。

カシワヘブンもその母であるカシワドリームも雨が大の苦手だった。ことにカシワヘブンは、走るばかりではなく、雨に打たれることすら嫌がったものだ。雨が降りはじめると、牧場の柵にすり寄って、まるで早く厩舎に連れ戻してくれといわんばかりにいななきをあげていたのをきのうのことのように憶えている。

無事に走り終えてほしい。柏木はいくらか明るくなった西の空にむけてもう一度自分の願いを胸のうちでつぶやいた。

待たせてある車への道を急ぐ柏木の背後でファンファーレがかすかに鳴っている。

競馬開催のときにだけ営業している民家の臨時駐車場に着いたのは十分後だった。柏木の姿を目にした運転手の本橋が慌てて、ベンツのエンジンをかける。どうやらラジオで競馬の実況でも聞いていたようだ。

「お帰りなさい。これから……?」

「社に帰る」

うなずき、急ぐよう、本橋にいった。

競馬が終われば、この界隈は混雑で身動きがとれなくなるだろう。

それでも道路は混雑していた。来るときとはちがい、府中のインターに乗り入れるまでに四十分近くもかかった。

本橋がウインカーを点滅させながら鮮やかなハンドル捌きで中央自動車道の車の流れのなかにベンツを滑り込ませる。

雨はすでにやみ、路面の濡れた高速道路が西陽を照り返してキラキラと輝いている。

「競馬はよくなさるんですか?」

バックミラーのなかから、本橋が訊いてくる。

「運転中はよけいなことはしゃべるな、と児玉からは教わらなかったのか」

「すみません」

本橋が短く謝り、視線をまっすぐ前方にむけた。

本橋一馬。今年で二十四歳。二か月前、募集広告もしていないのに入社を懇願して突然会社に顔を出した。

受付が追い返そうとしたのを偶然常務の児玉亮が通りかかり、彼の熱意に打たれた児玉の温情が入社させるきっかけとなった。

以来、見習として児玉が預かっていたが、専属の運転手である杉浦が風邪をこじらせて寝込んでしまい一週間前から臨時の運転手をさせている。

社長の車の運転手をさせてください――。そういって、本橋が直接願い出てきたと児玉からは聞かされている。

変わった若者。それが初めて目にしたときに抱いた柏木の第一印象だった。

しかしこの一週間の行動でみるかぎり、その態度やことば遣いが、今どきの若者ということばが似つかわしくないほどに見どころがあるというのも事実だった。

案外掘り出し物なのかもしれない。長身の背筋をピンと伸ばし、前方に目を凝らして黙々と運転をしつづける本橋の背を見つめながら、柏木はそうおもった。

「競馬の実況を聞いていたのか?」

マルボロを口にし、柏木は訊いた。

「はい。いけませんでしたか」

「かまわんよ。で、オークスはなにが来たのかね?」

一瞬、本橋が怪訝な目をバックミラーに映した。

「オークスをご覧になりに行ったのではなかったのですか?」

「いや、別の用事だ」

たばこを吸いながら、本橋の視線を受け流した。

本橋の口から出てきたのは、本命馬と目されていた馬の名前だった。

「でも、一頭かわいそうなことをしましたね」

「かわいそう? どういう意味だ?」

不吉な予感におもわず柏木はたばこの手を止めた。

「ホマレミオウという馬が三コーナーで足を取られて騎手が落馬したそうです」

「なにっ、ホマレミオウが? それで、どうなった?」

身を乗り出して訊く口調は詰問調になっていた。

「担架で運ばれたそうですが、そのあとのことまでは……」

本橋が申し訳なさそうに首をすくめた。

「騎手じゃない。馬のほうだ」

「えっ、馬のほうですか。前肢を骨折した、とか……」

詳細について知らなかったことがまるで自分の失点であるかのように、本橋が語尾を弱くした。

落馬、しかも骨折だと? カシワヘブンと同じではないか……。

柏木は震える手でたばこをもみ消した。

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天国への階段(上) 白川道

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