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助手にならないか?…美術修復士が謎を解くアート・ミステリ! #3 コンサバター
世界最古で最大の大英博物館。その膨大なコレクションを管理する修復士、ケント・スギモトのもとには、日々謎めいた美術品が持ち込まれる。すり替えられたパルテノン神殿の石板。なぜか動かない和時計。札束が詰めこまれたミイラの木棺……。一色さゆりさん『コンサバター 大英博物館の天才修復士』は、天才的な審美眼と修復技術を持つ主人公が、実在の美術品にまつわる謎を解くアート・ミステリ。物語の始まりを少しだけご紹介しましょう。
* * *
千人単位の職員を抱える大英博物館には、スタッフ証を持つ者だけが利用できる社食と売店がある。外に出るよりも安く早く食べられるので、晴香はいつもそこを利用している。先週末は連休だったため、社食は休暇を終えた人たちで活気に満ちていた。
ランチにやって来た晴香は、一・五ポンドのサラダバーだけを選びながら、深いため息を吐いた。先週、共同で住んでいる格安賃貸の大家から、唐突に一通の告知が届いたからだ。
――建物取り壊しのため、居住者には速やかに立ち退きを命ずる。
ロンドンは東京よりも平均家賃が高い。大英博物館の職員も、独身の場合ほとんどがフラットシェアをしている。
他のフラットメイトたちは早々と新居を決めているが、晴香だけはネットでいくら探しても、予算を超えた物件か、職場からかなり離れた物件しか見つからず、引越しの目途が立っていない。
このままでは、住むところがなくなってしまう。
今まで狭き門を幾度となくがむしゃらにくぐってきた晴香だが、大英博物館の常勤職にまでのぼりつめて見えた景色は、お金がない、住む場所もない、あるのは山積みになった仕事ばかり、という殺伐としたものだった。
「とほほ」
晴香はそう呟き、スマホを握りしめながら項垂れる。
「どうした、暗い顔して」
日本語で声をかけられ、顔を上げるとスギモトがトレイを持って立っていた。
「ここ、空いてる?」
晴香はすぐにトレイを寄せた。
「はい。記者の方とはお話しできました?」
「ああ、おかげさまで」
「それにしても、新聞社の取材を差し置いて、受付の女の子なんかとおしゃべりなさっているとは思いませんでした」
「受付の女の子なんか?」とスギモトは真顔でくり返した。
他愛のない感想を言ったつもりの晴香は「え?」と戸惑う。
「彼女はオリヴィア、六月三十日生まれのかに座だ。美大を卒業していて画家志望。イスラム美術が好きで、うちの受付に応募した。そんな彼女を『受付の女の子なんか』と呼ぶべきかな?」
晴香は無意識のうちに、制服を着ている彼らを、個人として見ていなかったことに気がつく。名前や誕生日を知っている受付スタッフや監視員は、自分にはいない。謝るべきか、どうしようか。自分の失言を恥じ、つぎの言葉を探していると、スギモトは構わずつづける。
「ところで、新しいフラットを探してるようだね」
ずばり言い当てられ、晴香はふき出しそうになった。
「どうしてご存知なんですか。まだ誰にも話してませんよ」
「前回ここで君を見かけたときは、いろんなものを注文していたのに、今日は山盛りのサラダだけ。健康状態が悪いようには見えないから、金銭的な悩みがあるんだろう。最重要な手がかりは、これだ。じつは俺もフラットメイトを探していてね」
スギモトが掲げたスマホの画面には、晴香が覗いていたサイトと同じものがうつっていた。
「スギモトさんもお引越しなんですね」
「いや、一緒に住んでいたやつがしばらく前に転勤して、同居人を募集するかどうか、ずっと迷っているんだ」
「へぇ、どこにお住まいなんです?」
「ベイカー・ストリートだよ」
彼はさらりと答えた。
晴香は持っていたマイ箸を思わず握りしめ、上ずった声で言う。
「とってもいいところじゃないですか!」
「まぁ、交通の便はいいかな。ただ、観光客が多くてごちゃごちゃしているから、俺の趣味ではないが、親族がたまたま土地を持っているんだ。一応、大家は別にいて、形式的に家賃は払っているけど――」
「ゾーン1にたまたま土地を持ってる? ひょっとして、貴族のご出身ですか」
晴香はにわかには信じられない。
ゾーン1というのは、ロンドンの地下鉄やナショナル・レールで運賃を計算するときに用いられる、同心円状のエリア地図である。中心部がゾーン1で、そこから離れるごとに数字が増える。今ではゾーン9まであり、ゾーン1に住めるのはひと握りだ。
しかもロンドンは、どんなに外資系の店舗が立ち並び、国際色豊かになっても、由緒正しい貴族たちがひそかに土地を牛耳っているという。それは数百年前からゆるがぬ伝統なのだとか。
「ああ、母方の親族がね」
さらりと肯定したスギモトの物言いに、晴香は妙なリアリティを感じた。
「でも持ち家なら、どうして一人で住まないんですか」
ふと浮かんだ疑問を口にすると、スギモトはむっとした顔をする。
「誰かと住んじゃ悪いか? 生憎、複数人で暮らすための間取りなんだ。バスルームは各階にあって、プライベートは守られる。ウェブサイトで募集したら、希望者が殺到するに決まってるし、困ってるんだ」
「そうですか……本当にうらやましいです」
晴香が呟くと、スギモトはしばらく腕組みをして黙っていたが、直後に信じられない提案をした。
「今じつは助手を探してるんだが、もし君にやる気があるなら、試用期間だけ仮住まいさせてやってもいいぞ」
晴香は驚きのあまり、その意味が即座には分からない。
「君の採用審査をしたとき、卒業制作や論文、これまでの評判、いろいろとチェックさせてもらった。粗削りながら、素質はある。俺は今ここの仕事とは別に、外部から修復や鑑定の仕事を多く請け負っているんだが、それを手伝える人間を探しているんだ。なんせ西洋のアンティークだけじゃなくて、アジアの古美術も扱うとなると、適任者がいなくてね」
開いた口が塞がらず、晴香はやっと訊ねる。
「すごく光栄な話ですけど……それに、部屋を貸してもらえるんですか」
「いや、まだそう決めたわけじゃない。あくまで仮住まいだ」
スギモトは淡々と答える。
ロンドンでは、恋人同士ではない男女での共同生活も珍しくない。しかし女にだらしなさそうな職場の上司と、うまくやっていけるのか。しかも大英博物館の通常業務だけでも大変なのに、手伝いなんて両立できるのだろうか。
同時に、一流の修復士になりたいという野心を持つ晴香のなかで、打算的な考えも同時に働く。どんなに大変でも、スギモトのそばにいればその技術を間近で見られる。それだけでも、絶対に得難い経験ができるだろう。しかも職場から近いベイカー・ストリートに暮らせるのだ。
「住所はあとでメールしておくから、考えておいてくれ」
いつのまにか食事を終えていたスギモトは、トレイを持って立ち上がる。
「わ、分かりました」
「……ただし、さっきの一言がどうも引っかかるな」
晴香は顔を上げて、「さっきの?」と訊き返す。
「受付の女の子なんかってやつだ。俺はそういう考え方のやつと組むのは御免だってことは伝えておこう。俺と価値観が違いすぎるからな。たしかに美術館には、制服を着て働くスタッフもいれば、洒落たスーツを着て働くスタッフもいる。でもみんな、ひとつの組織を動かすために、そして文化芸術を支えるために、力を合わせているという点では差なんてない。俺はそのあたりをちゃんと理解できていないようなやつを、助手にする気はさらさらないよ」
スギモトはそう言い残すと、晴香に答える間も与えず去って行った。
晴香はラボに戻ってから、取材のときに協力してくれたパピルス専門のコンサバターに声をかけた。ちょうど彼女も休憩するところで、ラボの外にある給湯室に二人で向かう。彼女を信頼している晴香は、社食でのやりとりを説明した。すると彼女はコーヒーカップを片手に、にやにやしながら答える。
「悪い話じゃないんじゃない? そういえば、スギモトの昔のフラットメイトもうちのスタッフだったわよ。フランスから来た優秀な男の子で、個人的な仕事を手伝っていたみたいね。結局、母国の博物館に引き抜かれたけど」
晴香は身を乗り出しながら「でもどうして、わざわざ同じ職場の部下を住まわせるんでしょう」と訊ねた。
「スギモトが信じられない?」
「というか、なんで私なんだろうと思って」
「あなたも知っている通り、この仕事ってやりがいはあるけれど、決して収入は良くないでしょう。とくに海外から来た職員にとっては、家賃を支払うのも大変。スギモト自身は金銭的な心配はいらないようだけど、若手の修復士を育てるには厳しい現状を、なんとかしたいと思ってるんじゃないかな? もちろん、本人はそんなこと口に出さないけどね」
彼女はコーヒーを一口飲み、くすりと笑った。
晴香は最後にスギモトがなぜあんなことを言ったのか、やっと分かった気がした。つくづく反省である。やっと常勤職に就いて、傲慢さが無意識に芽生えていたのかもしれない。晴香は修復士を目指すことにしたあるきっかけと、これまで進んできた険しい道のりをふり返りながら、謙虚でいなくちゃだめだなと思った。
◇ ◇ ◇