ピチカート・ファイヴ以前は写植のアルバイトもやっていた…野宮真貴×燃え殻 #4 大人になる方法
ピチカート・ファイヴのボーカリストとして、「渋谷系」ムーブメントを巻き起こした野宮真貴さん。現在は文筆家としても活躍しており、『赤い口紅があればいい』『おしゃれはほどほどでいい』などの著作があります。『大人になる方法』は、そんな彼女が下積み時代を赤裸々に語った対談集。お相手は、小説家・エッセイストの燃え殻さんと、クレイジーケンバンドの横山剣さんです。その中から、燃え殻さんとの対話を抜粋してお届けします。
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私はこれで終わる人じゃない
野宮 燃え殻さんは、10代の頃から文章を書くことが好きだったんですか?
燃え殻 高校時代の3年間、1人も友達ができなかったんです。どうにかして存在感を示さなければいけないと思って、中高6年間の毎日、誰にも頼まれていないのに、わら半紙で学級新聞を作って教室に貼ってました。
内容は、4コマ漫画、担任の先生のネタ、犬が入ってきたニュース、天声人語、最近思ったこととか。
野宮 好評だったの?
燃え殻 全然(笑)。最初は恥ずかしかったんですけど、だんだん「続けなければ」という使命感が芽生えてしまって。あれはあの頃の自分が生きる拠り所の1つでした。深夜ラジオにハガキを書いて、とんねるずさんに読まれることもそうでしたけど。
野宮 書く仕事をしたいとは思わなかった?
燃え殻 どこかで思っていたのかもしれないです。でも、そんなことを言うのはおこがましいと思っていました。専門学校に入ると、周りの生徒たちが、どんどん人生を諦めていくんですよ。「俺たち何もできないよ」ってずーっと言ってるんです。現役のコピーライターの先生が言った「お前らの9割は、ろくな人生にならない」という言葉も、今もはっきりと覚えてます。
野宮 えー!
燃え殻 そんな先生の著書を教材という名目で買わされるっていう(苦笑)。野宮さんは、人生を諦めそうになったり、心が折れそうになったりしませんでした?
野宮 ピチカートに入る前の10年くらいは下積み時代でまったく売れていなかったので、本当だったら心が折れてもおかしくなかったと思うし、親や友人から「好きなことを10年もやったのだから、もう気が済んだでしょう?」と言われてました。
でも、ここで終わるわけにはいかないと心に誓っていたので、アルバイトをしながら地道に音楽活動を続けていました。音楽関係のバイト以外に、美容部員や印刷所で時刻表の写植のバイトをしたこともありますよ(笑)。
自分の人生は自分でつくる
燃え殻 僕だったら、その仕事で心が折れそうです(笑)。
野宮 何事も経験。様々なバイトを通して、いろんな人に出会って人生勉強になりましたね。それに、単純作業は嫌いじゃないの(笑)。
でも、なるべく好きな音楽の近くに身を置いてチャンスを手に入れたかったので、他のアーティストのバッキングボーカルや、CMの歌唱の仕事も積極的にしていました。
CM歌唱は、相場がわからなかったので、たぶんすごく安いギャラでやってたのかもしれない。だから使い勝手がいいからなのか、当時はけっこうお仕事頂いていましたね。
燃え殻 どんなCMをどれくらい?
野宮 100曲くらいは歌ったと思います。シャンプーの「ティモテ」とか、紙おむつは全社。
燃え殻 紙おむつコンプリート(笑)。声がCMに向いてますよね。言葉が聞き取りやすくて心地よい。
野宮 譜面が読めないので、作曲した方に「一度だけピアノでメロディーを弾いてください」と現場でお願いして、その場で覚えて歌っていました。一回聞いたらメロディーを覚えられる特技はあの頃に身につきました。何事も、経験はのちに役にたつものなんですよね。
燃え殻 その10年間、どんな心境だったんですか?
野宮 デビュー前に親の手前1年間OLをしていたときも、「私はここにいる人じゃない」と思っていましたし、デビュー後の下積み時代も「私はこれで終わる人じゃない」、「歌手として成功する」という、根拠のない自信を持ち続けていたんですよね。周りから何と言われても、自分の人生なので。
燃え殻 強い! すごい!
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