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「僕に麻雀を教えてくれませんか」…ハードボイルドの名手が描く、自伝的ギャンブル小説 #5 病葉流れて

学生運動、華やかなりし時代。上京したばかりの梨田は、麻雀と運命的な出会いを果たす。ギャンブルにだけ生の実感を覚え、のめり込んでいく梨田。そして、果てしなき放蕩の日々が始まる……。ハードボイルドの名手として知られた、故・白川道さんの自伝的ギャンブル小説シリーズ『病葉流れて』。その記念すべき第一作目より、冒頭部分のためし読みをお届けします。

*  *  *

「二コロですね」

永田が対面の捨て牌を見て、静かに牌を倒した。負けた二人が三千円ずつ卓上に金を出す。

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初めこそわからなかったが、何局か重ねるうちに、私はこの麻雀のルールを完全に把握していた。

この麻雀は、要するに、上がりの点棒の多寡を競う勝負ではないのだ。

各自の配給持ち点が六千点。誰かがその持ち点を倍にするか、逆にすべてを失ったときが勝負の終わりだった。そのときに、持ち原点からたとえ百点でもマイナスしていれば負けになる。負けがひとりなら、チンコロ。二人なら、二コロ。そして三人すべてをマイナスさせたトップのことを、マルエーと呼ぶ。勝者に支払う勝ち金の金額もそのトップの種類によってちがってくる。ひとり負けの支払は三千円。二コロも同額で各自が三千円。マルエーの場合だけが、ひとりあたり五千円の支払となる。したがって、当然誰もがマルエーを狙う。

それで開局早々に永田が親の満貫を見逃した理由がつかめた。もし、彼があれで上がっていれば、チンコロのひとり負けで勝負は終わっている。しかし、あの手を自摸上がりすれば、三人全員がマイナスになり、マルエーになっていたからだ。

「じゃ、ここで」

永田が椅子を引き、手にした金をポケットにしまうと、従業員に終わりを告げた。

「長い間、ありがとうございました」

いうより早く、空いた席に従業員が座り麻雀を続行する。

永田が私の顔を見て、例のにやりとした笑みを口元に浮かべた。徹夜の麻雀を打ったにしては、顔に疲労の色はない。

私の見たところ、永田はかなり負けているはずだった。しかし、彼の表情には特にそれを悔しがっているふうは見られなかった。

「どこかで、コーヒーでも飲んでいくか」

階段を下りる足を一度止め、たばこに火をつけると永田がいった。

「負けましたか?」

あえて私は訊いてみた。

「見たとおりさ」

再度、永田が例の笑みを浮かべ、私の目を見た。

私たちは、裏通りを抜けて駅前の喫茶店に入った。

「どうだ、うしろで見ていて、何か参考になったか」

コーヒーをすすりながら、永田が私に訊いた。

私は自分なりに解釈していたあの麻雀のルールを永田に確かめた。彼はたばこをくわえて、じっと私の話に耳を傾けていたが、聞き終わると、いった。

「ルールはその通りさ。ルールなんてのはその場その場の取り決めだからどうだっていい。逆にいえば、どんな場面に入ったってその場のルールでこなせなきゃ、麻雀なんてのは覚えないほうがいい。俺が訊いてるのは、博打に対する考え方さ」

「博打に対する考え方?」

「ああ、そうだ。博打に対する考え方だ。きょうやっていたメンバーのなかで、グルになっていたのがいるのに気がついたかい?」

永田が事もなげにいった。

「グル、って、イカサマ、っていうこと?」

私は永田の目をのぞき込んだ。

「そうだ。途中で席を立った客がいただろう?」

永田が最初に卓を囲んだとき、下家に座っていた見るからにやくざふうの、三十二、三の男だ。途中で入れ替わったのは彼ひとりだけだった。

私は永田にうなずき、彼の次のことばを待った。

「覚えているかい? 俺が最初に卓に座って、ものの五分で勝負がついた局の場面を?」

「親の満貫を聴牌していて、見逃したあの局のことですね」

私はコーヒーを口にし、おもい出しながら答えた。

「そう、あの局だ。対面がリーチをかけてきた。そして俺の上家が親の黙聴に打ち込んだ」

私はじっと永田の話に耳を傾けた。

その前に永田が下家に千点振り込んでマイナスしていた。対面もリーチをかけたことで、リーチ棒だけの百点マイナス。その結果、全員が原点割れのマルエーになった。

「じゃ、どっちがイカサマの片棒を担いでいたとおもう?」

「上家の親満を振り込んだほう?」

私の答に永田が微笑んだ。

「ゴロはそんな見え見えの手は使わない」

「じゃ、リーチをかけたほうですか?」「そうさ」永田はたばこを消すと説明した。「ゴロは責任を振り込んだほうに向けるんだ。俺はすでにマイナスしている。相方はリーチ棒でマイナスした。後の狙いは、上家一点さ。通しのサインで、対面は親の『待ち』が自分の現物ということを知っている。対面はリーチをかけてわざと注意を自分のほうへ向けたのさ。ふつう、親が浮いたあの場面ではリーチはかけない。一番警戒しなければいけないのは親だしな。なにしろマルエーにするのに親は満貫でなくてもいい。その下の手で十分なんだ」

永田によれば、あの場面で彼がリーチに対してぶんぶんと勝負していたのは、自分がすでにマイナスしているからというだけではなく、永田が捨て石になって上家の安全牌を作る先導役をしていたとのことだった。

「そんなこと、最初に座っただけでわかったんですか?」

永田の話に感心しながら、私は訊いた。

「いや、あの二人と卓を囲んだことは何度かある。なんとなく目をつけてはいた」

「店のひとは気がついてはいないんですか?」

「たぶん、知らないだろう。彼らがグルになるのは、どちらか一方が従業員の死角になったときを狙っているからな」

「それで、時々、場替えを口にしていたんですね」

永田がうなずき、残りのコーヒーを飲み干した。

「でも――」私は訊いた。「それを知っていながら、なぜ、あえて同じ卓を囲んだんですか? それじゃ負けるのがわかっていたようなものじゃないですか」

永田がしばらく考えたあと、いった。

「そこが博打に対する考え方なんだ」

私は永田の口元をじっと見つめた。

「確かにきょうは俺が負けた。でもあの二人がグルになっていたから負けたんじゃないぜ」

永田がいった。その口調には微塵も負け惜しみの感じはなかった。

「通俗的な表現であえていえば、俺に運が味方しなかったからだけさ。麻雀は二人でつるんだら勝てるかというとそうでもない。むしろその逆のほうが多いんだ。特にあの麻雀ではな――」

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永田が徹夜で打った麻雀はブー麻雀、別名、落とし麻雀という。

元々は関西ではじまったものだが、ここ数年で急に関東でも流行りだしたものだった。持ち点や点符計算、それにドラを含めた細部でのルールなどは関西で行われているブーとはかなり形態がちがうが、基本的な要領は一緒だ。

「麻雀というのは自分に引きの運がないと勝てないものだが、特にあの麻雀はそうなんだ。いくら二人がつるんだところで、つるめるのは打ち込みの場面だけだ。もし相手のガードが固ければ、引きにかけるしかない。だが、引き運まではつるめない」

わかっているのかい。確かめるような目で永田が私を見つめた。私はうなずいた。

「それにだ」永田がつづけた。「あの麻雀はひとりのほうがどちらかというと有利なんだ。だって、そうだろう? こっちは勝てば三人分の収入があるが、向こうは勝っても二人分だ。逆に、こっちは負けてもその傷は自分ひとりだけですむが、向こうは二人分の傷を負うことになる」

いわれれば確かにそうだった。永田は結局、自分に引きの運がなかったから負けたのだといった。

「フリーの麻雀屋には、いつもあんなふうにイカサマをやるひとがいるんですか?」

「いるところもあれば、いないところもある。でも、俺はあれをイカサマとはおもっていない」

「だって、グルですよ?」

「グルは相手の戦法だと考えればいい。俺は麻雀のイカサマっていうのは、ルール外のことをやることだとおもっている」

「ルール外?」

「ああ、そうだ。勝負事っていうのは与えられた材料を最大限に使うことだ。牌が裏返っていれば、覚えればいいし、集めたっていい。そして積み込んだっていい。狙い打ちをしたって一向に構わない。でも、牌を隠す、すり替える、あるいは麻雀をしている以外の者が壁役になる、そういうルール外のことだけはだめだ。それはイカサマだ。君が今覚えてやってるのは麻雀の基本ルールで遊んでいるだけで、麻雀の勝負をしているわけじゃない。博打事としての麻雀を打っているわけじゃない」

少しばかり麻雀に自信を持ちかけていた私は、永田のことばに傷ついた。心の奥の自尊心が萎縮するのを感じた。

そんな私を無視して、冷めたコーヒーの残りを口にすると永田がいった。「だけど、はっきりいって、イカサマなんてのはどうだっていい。やりたいやつにはやらせておけばいい。とてもみすぼらしい話さ。俺がいいたいのは博打というものに対する認識だよ。これから博打をつづけてゆくなら、博打ってなんなんだろう、という自分なりのスタンスを持たなきゃいけない」

「認識とスタンスですか……」

私は口ごもった。

徹夜で頭がぼんやりしている上に、永田の話が妙に哲学的で、意味不明だったからだ。

「俺には俺流の博打観がある」永田がいった。「俺たちは今まで、目に見えるものや手で触れるもの、あるいは数値や論理で立証されたものだけが絶対だと教えこまれてきた。つまり、意味があるものだけがすべてというわけだ。しかし、ほんとうにそうだろうか」

永田はそういうと、細い指にたばこをつまみ、ひと口吸った。

「そういう絶対的なもののなかで生活するために、ひとは、社会や機構を、今度はそれを維持存続させるために制度や枠を作りだした。それがすべてになった。そのなかで同化できないものはどんどん排斥されてゆく。でもな――」

永田が視線を宙に浮かせ、少し考えてから、自分自身に語り聞かせるようにいった。

「博打をやっていると、それがすべてではないということが朧げながらわかってくる。この世の中は、なにか別な力が、そんな姑息なものではない、もっと大きな人知を越えたなにかによって支配されている、そんなふうにおもえてくる。絶対的なものなんてのはこの世の中にはないんだ」

「それが博打観とどう繋がるんですか?」

「博打をただ勝てばいい、と考えるやつがいる。絶対に勝つためにイカサマをやるやつもいる。だけど、そんなものは博打とはいわない。博打に事寄せた単なる金儲けさ。泥棒と遜色ない。そういうやつは、一時的には勝ちを拾うかもしれない。でも大局的には負けるだろう。博打っていうのは、さっきいった、人知を越えたなにか、つまり天運ともいうべきものとたったひとりで相対することなんだ。天運を信じない者に天運が味方するわけがない」

「永田さんは自分の天運がどんなものなのか、もう掴んでいるのですか?」

「俺なんてまだ博打打ちの駆け出しさ。その輪郭すらも見えちゃいないよ。ある意味では、それが知りたいがために、俺は博打をやっているのかもしれないな。なんとなくそれがわかったときに、自分が博打から手を引いてしまうような気もする。まあ、いずれにしたって、それがわかるまでは流浪の旅の連続さ」

一か月後には今度は大阪に行く。そういってから、永田が例のにやりとした笑みを口元に浮かべた。

「あまり学校に来てないようですけど、そのときは博打を打ちにいろんなところへ出かけていたんですか?」

永田がうなずいた。

「ルミについていくと、いろんな土地のいろんな博打事に巡り合える」

「ルミって――」

薄々察しはついたが、私は訊いてみた。

「さっき別れた踊り子だよ。彼女の次の舞台は大阪だ」

「一緒に住んでいるんですか?」

もしかしたら、永田はあのルミという女のヒモをやっているのかもしれない。私の頭のなかに、永田がポケットから無造作に出したあの十数枚の万札が浮かんだ。

それを見透かしたように永田がいった。「一緒には住んでいるが、俺は彼女のヒモなんかじゃないぜ。博打で負けたら働く。金が貯まるまではじっとただ辛抱する。博打はしょせんひとりだけのものだ。女とは別もんだよ」

伝票に手を伸ばし、立ち上がった永田に私はいった。

「大阪に行くまでの一か月間、僕に麻雀を徹底的に教えてくれませんか?」

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