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「あとは自由だよ」…ハードボイルドの名手が描く、自伝的ギャンブル小説 #1 病葉流れて

学生運動、華やかなりし時代。上京したばかりの梨田は、麻雀と運命的な出会いを果たす。ギャンブルにだけ生の実感を覚え、のめり込んでいく梨田。そして、果てしなき放蕩の日々が始まる……。ハードボイルドの名手として知られた、故・白川道さんの自伝的ギャンブル小説シリーズ『病葉流れて』。その記念すべき第一作目より、冒頭部分のためし読みをお届けします。

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三十年前――。

十八歳の春、私は小さなボストンバッグを片手に、プラットホームに降り立った。中央線を下った、国分寺駅から武蔵野の奥へ分け入って行く某私鉄のちっぽけな駅である。

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ホームには私に似た、どこか田舎からきのうきょう出てきたばかりのような何人かの若者の姿が見られた。ある者は学生服に身を包み、またある者は春らしい色彩のシャツやセーターで装ってもいた。しかし、どの若者の身体からも、今し方、樹木から新芽を出したばかりとでもいうような初々しい匂いが発散されていた。

そんな若者たちを吐き出すと、まるでおもちゃをおもわせる二両編成の電車は、再び間延びした速度でホームを出ていった。その後ろ姿をぼんやりとした視線で見送ったあと、私は一度大きく息を吸い込んでからボストンバッグを握り直した。

その年の冬はいつになく寒さが厳しく、前年の暮れから何度となく降った雪は、年が明けた二月になっても、まだいぜんとしておもい出したようにその姿を天空に舞わすほどだった。三月も中旬に入った頃、ようやく春らしい日々が訪れはしたものの、都心をはるか離れたこの武蔵野の一角では、肌に吹いてくる風にどこかまだ冬の名残が感じられた。そのせいか、線路沿いにある陽の当たらない雑木林のあちこちに、白い塊が忘れ物のように残されていた。

私がこの駅に降りるのは、きょうが初めてのことではなかった。ひと月ほど前の二月に、すでに何度か経験していた。大学入試のためである。難関をなんとか凌ぎ、今こうして再びこの駅に足を降ろすことができたからといって、とりたてて感慨はなかった。それどころか私の胸のなかには、入試のときに覚えた不安感とはまた別の、ある種いいようもない感情が芽生えはじめていた。それは、安堵感を枕に、まるで重みも中身もない布団を被って横たわっているとでもいうような、そんな漠とした不安だった。

単線で、何駅かの間を上り下りするだけのこの私鉄の駅舎はまるでマッチ箱のようにちゃちなもので、何人かの乗降客の相手をし終えた駅員の姿はもう改札口には見られなかった。

ボストンを片手に改札口を通るとき、私は駅舎のなかをちらりとのぞいた。

制帽を被った中年の駅員が、読みかけの新聞から顔を上げ、私の顔を見るなり小さく顎をしゃくった。

そこを通り過ぎ、私は目の前に広がる景色をゆっくりと見回した。

春の午後の日差しを浴びて、目の前に十メートル幅の道が一直線に伸びている。道の両側にはゆったりとした間隔で平屋建ての民家が並んでおり、ところどころに灌木の茂みがある。二百メートルほどの、その行き止まった先に、大きな門と柵がかすかに見えた。樹木の生い茂る敷地の中から、旧い煉瓦造りの建物の一角が顔をのぞかせている。私がこれから過ごす学舎だった。駅と学舎の間のその道を何人かの若者たちが行きかっている。

周辺には店らしきものの姿はほとんどない。角に一軒、看板のはげかかった小さな中華そば屋があり、その二、三軒隣にあるのはどうやら寿司屋らしい。そのずっと先にクリーニング屋の看板が掲げてあるのが目につくだけだった。

私はゆっくりと学舎への道の第一歩を踏み出した。二、三十メートル先を、先刻、始発駅で見かけた学生服姿の若者が大きなボストンバッグ二つに足を取られながら歩いている。一休みするように若者が立ち止まった。振り向いた彼の目と視線が合ったとき、ごく自然に私は早足になっていた。

「新入生?」

敬語を避け、できるだけ親愛の情を込めて私は訊いた。

「そうです」

語尾がうわずったような感じで、若者が応えた。

「もしかしたら、君も寮に入るの?」

返事の代わりに、若者が小さくうなずいた。

「じゃ、仲間だ。僕もきょうから入寮するんだ」

梨田雅之。私は自己紹介をした。つられたように、照れ臭そうな表情を浮かべながら若者も応えた。湯浅正己。

「運ぶの手伝うよ」

私は自分のボストンを左手に持ち替え、二つある湯浅のボストンの、紐を結わえてある重そうなほうのひとつに右手を伸ばした。

ありがとう……。湯浅は消えいるほどに小さな声でいうと、まぶしそうに私を見た。その眼の輝きは、一瞬、田舎の山奥にいる小動物をおもわせるほどに純なものだった。

そのとき、左手の灌木の陰から、男がいきなり飛び出してきた。あるいはゆっくりと出てきたのかもしれない。だが、そうと感じさせるほどに男のいでたちが派手だったのだ。ジーンズの上にブルーのシャツを着こみ、長髪を垂らしたその首には赤いスカーフを巻きつけている。

「いよっ、若者。学ぶのはフランス語と麻雀だけでいいぞ」

意味不明のことばを私たちに投げると、もう駅のほうへ身を翻している。

なんだ、あれ――。私と湯浅は顔を見合わせた。

「異邦人みたいだね」

湯浅がぽつりといった。

男の飛び出してきたあたりを見ると、灌木の茂みに隠れて、人家らしき建物があった。出入り口らしき開き戸のガラス窓に、つたない手書きの文字で何やら記してある。『麻雀・来々荘』。

私が生まれて初めて目にした、麻雀屋の屋号だった。

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春休みのせいだろう、キャンパスには人影がほとんど見られなかった。

「帝国主義打倒」「アメリカはベトナムから出て行け」「沖縄を返せ」――

そんないくつかの立て看板だけが私と湯浅を迎えてくれた。

「学生運動には興味があるのかい?」

重いボストンの手を休め、私は湯浅に訊いてみた。

「わからない」湯浅がはにかんだ表情を浮かべた。「だって、今までサイン、コサイン、タンジェントなんてことばかり覚えていたから……」

湯浅の返事に、私は初対面で抱いた彼への親近感がますますふくれてゆくのを覚えた。

「それで、君は?」湯浅が訊いた。

「正義とか社会とか、なんかそういうことばに弱いんだ。照れちゃってね。それに正直なところ、ベトナムの明日どころか、自分の明日すらわかっていない」

湯浅の口元に笑みが浮かんだ。

寮のある場所は、学舎を突っ切った裏手と聞いていた。

その方向に歩いてゆくと、ほどなく噴水の止まった煉瓦造りの溜め池の向こうに、まるで長屋をおもわせる細長い一階建ての木造建物が三棟、東西に並列して並んでいるのが目に入った。そのいずれもが見るからに老朽化している。各棟の合間の物干し場には、下着や布団などがぶら下がっており、その近くの芝生の上では、日向ぼっこをしている何人かの寮生らしき者の姿が見られた。

――ここか。

何がしかの期待と漠とした不安、その二つが胸のなかでせめぎ合うのを感じながら私はその建物を見つめた。

私学ではなく国立を、下宿ではなく寮を。私がそう選択したのに深い理由や意志があったわけではなかった。ありていにいえば実家の家計が苦しかったからだ。その前年の夏、父親の勤める小さな会社は倒産し、どう見ても我が家には経済的なゆとりはありそうにもなかった。

しかし、寮生活をすることに不満があったわけではない。むしろ興味津々たるものがあった。生まれてこのかた親元を離れたことのない私にとって、小説や漫画でしか知ることのない大学の寮生活というのはある種の憧れを抱かせるに十分な存在だったからだ。

玄関を入ると、受付の窓口にいた持ち回り当番だという寮生が、名前を聞いたあと、私と湯浅の部屋を教えてくれた。二人とも一番北に位置する「北棟寮」と名のついた棟にある部屋で、湯浅と私は二つ隔てただけのすぐ近くとなっていた。

「四人部屋だからね。春休みで同部屋の先輩たちは帰郷してるかもしれないけど、簡単な寮規則さえ守れば、あとは自由だよ」

寮生に礼をいい、私と湯浅はボストンを手に、教えてもらった部屋に向かって廊下を歩いていった。

ジャラジャラジャラ――。通りかかった部屋から、乾いた、何かをかき混ぜているような音がする。

小さく開いたドア越しに部屋のなかを盗み見ると、下着姿の若者が四人、座りテーブルを囲みながら何やらゲームに熱中していた。

「麻雀だよ」

湯浅が小声でいった。

「麻雀?」

「知らないの? さっきの異邦人みたいなのがいってたじゃない」

田舎の純朴な若者だとばかりおもっていたが、その湯浅の口振りは私よりはるかに世のなかを知っている大人を感じさせるものだった。

私は麻雀という遊び自体は耳にしていたが、ルールどころか、その道具すら一度も目にしたことがなかった。

中国、竹、象牙、騒々しい――、そんな断片的な知識を繋ぎ合わせ、私は麻雀という遊びは占い師などが用いる筮竹みたいな物を使ってやるものだと勝手におもいこんでいたのだった。したがって、初めて目にするそのちっぽけな、四角い石ころのような牌と称する麻雀の道具は、私の頭のなかにある麻雀のイメージとは程遠いものだった。

「おもしろいのかな」

「おもしろいよ」

湯浅が事もなげにいった。

「やったことあるのかい」

「ああ、家の親父が大好きだから。でもあまりにおもしろ過ぎて、中国では亡国のゲームだといわれているんだ」

私はあらためて湯浅の顔をまじまじと見つめた。

「覚えたいんだったら、いつでも教えてあげる」

私のウイークポイントを見つけたかのように湯浅が得意げにいった。

自分たちの部屋に辿り着くまで、それから更に二回ほど、私たちは麻雀の音が響く部屋を通り過ぎた。

――なんか、麻雀屋が何軒もあるみたいなところだな。

それが、この寮に対する私の第一印象だった。

たぶん同居人となる先輩も帰郷しているのだろう、部屋には誰もいなかった。

つん、と饐えたような匂いがする部屋の中央に立ち、私はあらためて部屋を見回した。

六畳あるかないかの広さ。板敷きの床はささくれ、抉れた木目には積年の垢がしみ込んでいる。左右がまるで押し入れのような二段式の木製ベッドになっており、そのいずれにもカーテンが引かれていた。部屋の隅っこに家から送った私の荷物がぽつんと置いてあった。

あとは自由だよ……。先刻の受付の寮生のことばが耳に残っている。

――自由か。

私は胸のなかで何度かつぶやいた。

この十八年間生きてきて、自由ということばを真剣に考えてみたことはなかった。義務教育の六年間、そして高校生活において、してはならぬという校則や戒めはあったにせよ、別段それを不自由などと感じたこともない。それは家庭内での生活においても同様だった。逆にいえば、自由への渇望感というものが私にはなかったともいえる。

――自由とはどういうことなのだろうか。

私は十八歳で、これからはたばこを公然と吸える。私は十八歳で、これからは酒場で羽目も外すだろう。私は十八歳で、たぶん女も知る。

だが、そんなことは自由とは何ら関係がない。私は自由ということばの、その甘い響きに酔う一方で、とらえどころのない焦燥感を心の内に感じていた。

ふと、麻雀屋から出てきて声をかけてきたあの不思議な雰囲気を持った男の姿が脳裏に浮かんだ。

――フランス語か……。

第二外国語はそれにしてみよう。私はなんとなくそうおもった。

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