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捜査のためならクスリも打つ…アウトロー麻薬取締官が挑むノンストップミステリ #1 ヒートアップ

麻薬取締官・七尾究一郎は、製薬会社が極秘に開発した特殊薬物「ヒート」によって起こった抗争の捜査を進めていた。そんな折、殺人事件に使われた鉄パイプから、七尾の指紋が検出される。一体、誰が七尾をはめたのか……? 『さよならドビュッシー』などで知られる人気ミステリ作家、中山七里さんの『ヒートアップ』は、最後のどんでん返しまで目が離せないノンストップアクションミステリ。前作『魔女は甦る』とあわせてじっくり読みたい本書より、一部をご紹介します。

*  *  *

一 同盟

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一㏄用プラスチック製注射器の針先が間近に迫る。

「頼むから、勘弁してくれ……」

七尾究一郎は力なく懇願したが、眼前の頬のこけた優男はにたにた笑うばかりでまるで聞く耳を持たない。少女の小指よりも細い容器だが、中に入っているのは武闘派のヤクザより恐ろしい代物だ。

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「勘弁してくれ? へっ、ヘロインを売ってくれと言ってきたのはお前の方だろ。こっちはご希望にそってお望みの品を提供してるんじゃないか」

「まあ、自分で吸うつもりはなかったんだろうが」と、奥のソファで見物していた黒のワイシャツを着た男が口を挟んだ。

「実際にヤクをキメる麻取(麻薬取締官)もそうそういないだろ。しかも最近流行りのアブリじゃなく、由緒正しい王道の静脈注射だ。仲間内で自慢になるぜ」

「きひひっ。しっかし、ミイラ取りがミイラになるってのは、どんな気分かねえ」

机の上でポリシーラー片手にクスリをパッケージ詰めしていた坊主頭が、背中越しに混ぜっ返す。

ソファとパソコン机、そして冷蔵庫と薄型テレビ。最低限の家具しか置いていないが、七尾と男三人が入ると六畳間は途端に窮屈になる。当然だろう。元々、居住用ではない。ヤクの貯蔵庫代わりに契約した部屋に違いなく、その証拠には簡易ベッドすら置いていない。市街地、しかもパチンコ屋とカラオケ・ボックスが建ち並ぶ、騒音に囲まれた古びたマンションだ。家賃も安く、部屋の中で多少大声がしても近所から苦情の出ない立地条件は色々な意味でお誂え向きだった。

優男は、七尾の腕を掴み、静脈の位置を探り当てると消毒もしないまま針を突き刺した。

医者のように慣れてはいないからだろう、突き刺された瞬間に鋭い痛みが走った。ピストンを押す動作も乱暴だ。

「ほいよ、ガソリン満タンだ。純度百パーセントは無理だが、それでも八十の上物を十ミリグラム。初心者には五ミリグラムと決めてあるが、あんたはVIP待遇だからな」

針を抜くと、優男は勝ち誇るように笑った。

静脈から注入されたヘロインが心臓の鼓動一つで、あっという間に全身を駆け巡る。

ずいっ、ずいっと神経に異物が捩じ込まれる。まるで脳髄を冷たい金属棒で貫かれるような感覚だった。

「あんたも専門家だから説明は要らんだろうが、ヘロインってのは粉を鼻からというのが主流だけど、ヘビーな奴らは大抵注射だ。その分、効き目が段違いだからな。効いてくると、たちまち寝入りばなの快感が襲ってくる。ただぼうっとしているだけで幸せ一杯、食べることにもヤることにも興味がなくなる。トんだ状態がずっと続く訳だ。しかし、これは適量使用の場合で、今みたいに最初から十グラムもキめたら話は別だ。ヘロインは数あるクスリの中でも依存性も耐性も最強。仮に耐性があっても一発で常習者の仲間入り。運が悪けりゃ廃人だな」

黒シャツは懇切丁寧に説明したが、その半分も頭に入ってこなかった。

居住用ではないためか、エアコンは付いていない。石油ストーブが煌々と静かに燃えている。窓を閉め切った六畳間でむくつけき男が四人、饐えた臭いの逃げ場所もなく、さっきまで七尾の鼻孔はしきりに不快感を、皮膚は肌寒さを訴えていた。ところが今は不快さをまるで感じない。いや、それどころか五感全てが先端から磨耗していくように感じる。

「まあ、できることなら耐えてくれ。クスリがあんたを友達と認めてくれたら、俺たちが定期的に会わせてやるから。もちろんそれなりのお礼はしてもらうけどな」

「つってもカネ払えってんじゃねーから安心しろや。公務員の安月給なんざ、最初っから当てにしてねえ。ヘロと交換でガサ入れの情報くれりゃあいいんだからよ。なあ、いい条件だろ」

坊主頭ができあがったパケを傍らに積み重ねていく。二センチ四方のビニール袋に納められた白い結晶体はほぼ間違いなく覚醒剤だろう。ここからの目分量で〇・一グラム。所謂ゼロイチのパケだが末端価格は一万円といったところか。

「でも、こいつ、本当に一人だったのか。近くに仲間はいなかったんだな」

黒シャツが訊ねると、優男は人差し指を振って笑う。

「ここに来る前に身体検査はしといた。発信機らしい物はなし。ケータイや鞄も秘密保持のためだって駅のロッカーに預けさせたし」

「大方、手柄欲しさに単独行動したクチだな。さもなきゃスーパー取締官気取りか」

「でもよ、もしこいつ死んじまったらどうする?」

「夜中に東京湾でクルージングでも愉しむか」

「いいや。いっそのこと足を延ばして浦安ってのはどうだい。今なら遊覧船も出ていて目立たねえし、ハゼが盛りなんだ」

坊主頭が指先をくいくいと引く。

「お前、セメント漬け放り込んだ海に釣り糸垂れるつもりか?」

「へへっ、知らねえのか。あの辺は他の組の奴らも投棄場所にしてるから、その肉喰らって魚がえらく育ってるんだぞ。丸々とな」

「そんなとこで釣ったハゼ、俺は絶対食わんからな」

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三人がげらげら笑い興じていると、七尾が口を開いた。

「……縄を……解いてくれ」

「ああん?」

「頼む。あんまりきつく縛られて、クスリが全身に回らない……」

一瞬、三人はきょとんとしたが、黒シャツが弾けたように笑い出した。

「あーはっはっ。こーりゃいい。麻取さん、あんた最高だよ。初対面でクスリに愛されたな。おい、縄解いてやれよ」

「いいのか?」

「確かに、これじゃあヤクが全身に回りにくいな。折角のクスリデビューに可哀相じゃないか。それにどうせ手足が自由になったところで、こんだけ効いてりゃ立つこともできないさ」

「それもそうだよな」

言われて、優男が七尾の縛めを解く。それでも七尾は椅子に全身を預けてぐったりとしている。

それから三人は贔屓の風俗店について話し始めた。やれ年代別の指名ナンバー1は誰だの新人のレベルの高さがどうのと風俗雑誌と口コミから仕入れた知識を総動員して、いい按配に盛り上がったところでノックの音がした。

三人ははっとドアの方を見た。

「黒沢ァ。開けろォ、麻取のガサだあっ」

聞き慣れた鰍沢の声。

やれやれ。やっと来てくれたか。

「仲間だ!」

「この野郎」

がっくりと頭を垂れた七尾に優男が近づいてくる。腹いせに一発入れるつもりなのか。

優男が自分の真上に屈み込んだところを見計らって、七尾は腰と頭を同時に上げた。

後頭部に衝撃を感じると、次の瞬間、優男はアッパーカットを喰らった格好で真後ろに倒れていった。

坊主頭が目を剥いて飛び掛かって来る。

右方向から伸びてきた手を掴み、引きつけるだけ引きつけると、尻を相手の腰に密着させて重心を前に移動させる。

たったそれだけで坊主頭の身体は宙に舞った。坊主頭は受身もできないまま床に打ちつけられる。安普請のフローリングは硬くて柔軟性がない。叩きつけられた衝撃で何枚かの板が割れて弾け飛んだ。脳震盪を起こしたのか、坊主頭はなかなか起き上がろうとしない。

「な、何で動けるんだ」

黒シャツは信じられないといった風に、七尾の立ち回りを見つめている。麻薬取締官は誰もが何らかの格闘術を教えられているが、七尾は合気道の有段者だった。

床に倒れて蠢いている二人をまたぎ越すと、七尾はドアのロックを外した。と、途端に三人の男がなだれ込んで来た。

鰍沢と釣巻、そして熊ヶ根は予め決めていた通り、一人ずつを確保した。その間、およそ五秒。最初は抵抗する素振りを見せた黒シャツも、レスラーにしか見えない熊ヶ根に対峙すると急速に戦意を喪失させた様子だった。不意を衝かれた三人組にしてみれば瞬く間の出来事だったに違いない。そして鰍沢が右のポケットから三人分の逮捕状を取り出す。

「黒沢兼人、余呉高志、三石守。覚せい剤取締法違反容疑で逮捕する。おっと、捜索差押許可状もあるからな。ま、こんな有様で捜索もへったくれもないんだが」

鰍沢が言うのももっともで、机の上にはさながら麻薬パケ作業の一式が展示品のように並んでいる。通常ガサ入れが行われても所有者はいったんクスリの存在を否定するのだが、これではほぼ現行犯なので否応もない。

三人に手錠を掛けて身柄を確保した上で、早速捜索が開始されたが、室内にあったケースと押入れの中だけで証拠物件が山のように出てきた。電子秤二台、五センチ四方の色紙百五十枚、ビニール帯九十三本、ポリシーラー、スプーン五本、インシュリン用のプラスチック製注射器四十二本、パケ六十七袋。そしてまだパッケージされていない覚醒剤が三十一グラム、ヘロイン十二グラム。この段階で覚せい剤取締法第四十一条の二第一項「覚せい剤を、みだりに、所持し、譲り渡し、又は譲り受けた者は、十年以下の懲役に処する」と第二項「営利の目的で前項の罪を犯した者は、一年以上の有期懲役に処し、又は情状により一年以上の有期懲役及び五百万円以下の罰金に処する」は確定したも同然だ。

「現場写真とXチェック頼む」と鰍沢が言うと、それを合図に釣巻がいそいそとデジタルカメラを取り出した。証拠物件を発見した時点の状態に戻して次々と写真に収めていく。

次に釣巻が取り出したのは簡易鑑定用の試薬キットだ。Xチェッカーと呼ばれる物で、逮捕要件には含まれないものの誤認逮捕を防ぐ意味で半ばガサ入れ時のルーチンとなっている。釣巻は押収したパケ袋の一つを抜き出すと開封し、匙で中身をすくって細長いゴム製試験管の中に投じた。手馴れた指捌きで動作に澱みがない。鼻唄混じりで実に愉しそうに試験管を扱う。

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ヒートアップ

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