ヤバい口座のヤバい金…橘玲さん渾身の国際金融情報ミステリー! #1 タックスヘイヴン
シンガポールのスイス系プライベートバンクから1000億円が消えた。ファンドマネージャーは転落死、バンカーは失踪。マネーロンダリング、ODAマネー、原発輸出計画、北朝鮮の核開発、仕手株集団、暗躍する政治家とヤクザ。名門銀行が絶対に知られてはならない秘密とは……。
ベストセラー『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』などで知られる橘玲さん。『タックスヘイヴン』は、そんな橘さんによる国際金融情報ミステリー小説です。姉妹作品である『マネーロンダリング』『永遠の旅行者(上巻)』『永遠の旅行者(下巻)』とあわせて、お楽しみください!
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第一章 邂逅
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厳原港のターミナルで古波蔵佑はフェリーの到着を待っていた。十二月はじめにもかかわらず海面に反射する陽光は眩く、油の混じった潮の香りがときおり鼻を刺す。ダークレッドのマフラーをカシミアのラフなジャケットの上から無造作に垂らし、バーバリーのトレンチコートを羽織って、まずそうにマールボロをくゆらせていた。髪は肩にかかるほど長く、唇は薄く、ラベンダーグレイのレイバンのサングラスで表情を隠している。
接岸作業が終わると、フェリーの開口部から韓国人観光客を乗せた大型バスが降りてきた。煙草を靴底で揉み消し、細身のスラックスのポケットに片手を突っ込んで、古波蔵は駐車場に向かってゆっくりと歩きはじめた。
港に停泊する漁船のまわりを数羽のカモメが群れ飛んでいる。フェリーからは、ボストンバッグやスーツケースを提げた乗客が三〇人ほど降りてきた。道路脇に、家族を迎えに来たらしい車が何台か駐まっている。
しばらく待っていると黒のタウンエースが入ってきて、短いクラクションを鳴らした。
「遅うなってすんまへん」サイドウインドウを下げて、堀山健二が言い訳した。「なんやいちばん最後になってしもて」
タータンチェックの厚手のシャツにプロックスのライフベスト、防水仕様のパンツにメッシュのベースボールキャップ、まるで釣り番組から抜け出てきたようだ。おまけにど派手なミラーグラスをかけている。
助手席のドアを開けると、古波蔵はコートを脱いでバンの後部座席に投げ入れた。
「ちょっと車、見ててもらえまっか?」堀山がターミナルの隣にある土産物屋を指差した。「あそこでなんか食うもんを買うてきます。荷物が気になって、船のなかで昼飯を食えんかったんですわ」
古波蔵がボンネットにもたれて煙草を吸っていると、ペットボトルのウーロン茶二本と紙袋を手にした堀山が戻ってきた。
「なんかこんなもんしかのうて」紙袋からおにぎりを取り出し、口いっぱいに頬張ってウーロン茶で流し込む。「シケた島のシケた店でんな」
堀山からペットボトルを一本受け取り、古波蔵もひと口飲んだ。フェリーに積まれた車はすべて下船し、迎えの車もいつの間にかいなくなって、駐車場の端に従業員のものと思われる軽自動車が何台か駐まっているだけだ。まだ午後三時過ぎだというのに、着岸後の一瞬の喧騒が過ぎればあたりに人影はない。
堀山は昨日の夜、大阪・吹田の自宅前で愛用のベンツにわざとらしく釣り道具を積み込み、そのまま高速に乗って午前六時過ぎに博多港に着いた。そこで古波蔵の手配したレンタカーに荷物を積み替え、十時発のフェリーで対馬南端の厳原までやってきたのだ。
「吹田のインターに乗るまでさんざん回り道して、そこから休憩なしで一五〇キロで福岡まで飛ばしてきましたんや。いくらマルサでも、追いつけるわけあらしまへん」ミラーグラスを外し、充血した目を瞬いた。
「昨日から一睡もしてまへんのや」紙袋とペットボトルを駐車場のゴミ箱に投げ捨てると、堀山は大きく伸びをした。「古波蔵はんの顔を見たら安心して眠うなってきましたわ。ちょっと仮眠とらせてもろてよろしおまっか?」
「だったら俺が運転するよ」古波蔵はサングラスを外すと運転席に回った。
「そうでっか、すんまへんな」
助手席に座ると堀山は思い切り座席を倒し、ハンドタオルで顔を覆った。ライフベストのポケットが妙にふくらんでいる。
ナビをセットして、古波蔵はゆっくりと車を出した。
「妙な因縁とはこのことですわ」眠っていると思っていた堀山が、独り言のようにつぶやいた。「エラい苦労して日本に戻したカネを、また命がけで海外に持っていかなあかんとは、ほんま神も仏もないわ」
対馬を南北に走る国道328号線に出ると、あとは北端の比田勝港まで一本道だ。ナビでは到着まで二時間弱と表示されている。念のためバックミラーを確認するが、あとをついてくる車はない。厳原の町を出れば対向車の姿もほとんどなく、ただ田舎道が続くだけだ。
柳・正成の紹介だといって堀山が訪ねてきたのは三日前のことだ。関西を中心にファッションヘルスやピンサロを手広く経営する堀山は、二重帳簿で売上を隠蔽し、休眠法人への架空の支払で赤字を装ったとして、大阪国税局査察部から厳しい調査を受けていた。
横浜港に面した帆船を模したホテルのスイートルームからは、ベイブリッジと大黒埠頭、対岸の房総半島が一望できる。その日は雲ひとつない素晴らしい天気で、キャラメルブラウンのモダンなソファが置かれたリビングに日の光が斜めに差し込んでいた。新港埠頭に小山のような豪華客船が停泊し、赤レンガ倉庫ではイベントが行なわれているのか、中央広場が人波でごった返していた。事務所を持たない古波蔵は、来客のときはいつも自宅のある藤沢から車で三〇分ほどのこのホテルを使っていた。
「今朝、信金の担当者から内々に連絡があったんですわ」初対面の挨拶もそこそこに堀山はいった。「マルサの連中が、ウチの店の記録を洗いざらい持っていったらしいんですわ。税理士からは、強制捜査は時間の問題やといわれてますねん」
真冬で暖房もそれほど強くないというのに、堀山はしきりに額の汗をぬぐった。
「血と汗と涙で稼いだカネを強奪されてムショに放り込まれたら、生きとってもしゃあないですわ。せやから生命をかけてお願いに来ましてん」
堀山の大袈裟なものいいを、古波蔵は薄笑いを浮かべて聞いていた。
「柳さんから、こんなこと頼めるんは古波蔵はんしかおらんといわれましてん」堀山はごくりと唾を飲み込んだ。「税務署につけ回されてどこにも預けられん現金が手元に五億ありますねん。それ持って外国に高飛びして、二度と日本には戻ってこん覚悟ですねん。カネはいくらかかってもかましまへん。ワシを助けてください」
堀山はソファから立ち上がると、下手な役者のように土下座した。
堀山を仲介した柳は在日韓国人の大物フィクサー崔民秀の配下で、裏社会に通じた情報屋だった。芝居がかった演技は鼻についたが、堀山の話は事前に柳から聞いていた説明と同じだった。すくなくとも肝心なところで嘘はついていないようだ。
山口組傘下の闇金業者の資金洗浄に利用された金融機関が金融庁の処分を受けてから、どの銀行も胡散臭い海外送金を受けつけなくなった。多額の現金を銀行に持ち込んで海外に送金しようとしても、門前払いされるか、疑わしい取引として警察庁刑事局にあるJAFIC(組織犯罪対策部犯罪収益移転防止管理官)に通報されるだけだ。
だがこのままでは家宅捜索は時間の問題で、有り金すべてを押収されてしまう。堀山にとって唯一残された道は、どれだけコストがかかっても税務署の手の届かないところにいますぐカネを動かすことだけだ。
古波蔵はゲームを検証してみた。堀山の出口はどこにもないようだった。
「五億のカネを匿名のまま海外に送金したいんなら、俺のことを無条件に信じてもらうしかない」マールボロに火をつけると、古波蔵はほんのわずか唇を歪めた。「その五億をここに持ってくれば、一ヶ月以内にどこでも好きなところに送ってやるよ」
「一ヶ月でっか……」堀山は語尾を濁した。
「不動産を使って融資を受けるにしても、株取引を装って資金移転するにしても、いろいろと準備が必要なんだ」こんどははっきりと笑った。
「はあ」と、堀山は曖昧な返事をする。
「ところで、そのカネが途中で消えたらどうする?」古波蔵は冗談のような口調で訊いた。
「なんの話でっか?」
マネーロンダリング規制が世界的に強化されて、無記名の割引債を買い集めて海外送金するような単純な手口はとっくに使えなくなった。ダイヤモンドや絵画・骨董での資金移動は取引コストが高く、騙されたら一巻の終わりだ。株式や不動産を使ったり、インターネットオークションを利用したり、裏社会に乗っ取られたフロント企業から貿易決済の名目で送金するなどの方法もあるが、どれも手間も時間もかかるし、場合によってはヤクザをあいだに入れなければならない。関係者が増えれば、当然リスクも大きくなる。
「目の前に、騙し取っても警察に被害届の出せない大金がある」古波蔵は重ねて訊いた。「そんなとき、見ず知らずの他人のために危ない橋を渡ろうと思うか?」
青ざめた顔で、堀山は首を振った。
「あんたにはふたつの選択肢がある」古波蔵は煙を吐き出した。「ひとつは、このことをすべて承知したうえで、それでも俺を信じてカネを預けること。もうひとつは自分で運ぶことだ」
「ワシが、自分で運ぶ……」堀山は、反芻するようにその言葉をつぶやいた。「そんなことできるんでっか?」
「成功は約束しない。俺はいちばん確率の高い方法を教えるだけだ」紫煙越しに、古波蔵がまた唇を歪めた。「もちろん法律を犯すことになる。失敗すれば刑務所行きだ」
「そんなことなら心配せんでもよろしおます」堀山が即答した。「これでダメやったら死ぬだけですわ」
古波蔵は、脂ぎった堀山の顔をじっと見詰めた。「だったらその覚悟を見せてもらうよ」
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