#3 まいまいつぶろ 村木嵐最新刊【冒頭特別公開】5/24発売
発売前より全国の書店員さんから感動の声が続々と届き、話題沸騰中の村木嵐さんの最新刊は異色の将軍、第九代将軍・徳川家重を描いた『まいまいつぶろ』。
将軍のあだ名であった「まいまいつぶろ」とは「カタツムリ」のこと。
その悲しき理由に迫る落涙必至の書き下ろし、いよいよ発売です!
発売を記念して、冒頭をnoteで特別公開いたします。
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「あの御目見得でも、やはり長福丸様は中途で座を立ってしまわれてな。こちらは冷や汗が背を伝うた」
だしぬけに立ち上がった長福丸は何やらごにょごにょと言い捨てて、そのまま広間を出て行こうとした。
だがそのとき前列で手をついていた少年が急に頭を上げた。
──将棋がお好きでございますか。
少年はまっすぐに長福丸を見つめてそう言ったという。
その日の御目見得は特別に少禄の旗本の子弟ばかりが集められていた。長福丸に顔見知りがいるはずもなく、立ち去りかけてわざわざ足を止めたのに能登守は驚いた。
長福丸はその場に立ったまま、今度はその少年に向かって何やら口許を動かした。
──もちろんでございます、なにゆえそのようにお尋ねでございますか。
少年は小首をかしげて、長福丸にそう応えた。
長福丸はさらに何ごとかを話しかけた。すると少年は満面の笑みで、畏まりましたと深々と頭を下げた。
「いやはや、すぐそばで見ておった奏者番が申すのだ。あれは確かに言葉を交わしておられた。なにせ、当の長福丸様のほうが驚いて、ぽかんと口を開いておられたのだからな。つねは不機嫌を察せよとばかりに引き結んでおられる、さして動きもせぬ、あの御唇をな」
この通り、と能登守は自らもぱっくりと口を開き、しばし宙を見つめた。そしてそのまま思案に入ってしまった。
やがて忠相を思い出したか、能登守はあわてて口を閉じた。融通が利かず、けれん味もない能登守が今も戸惑っているのは確かなようだ。
そうして少年がじっと頭を下げていると、長福丸は廊下の手前で戻って来た。そして少年の前に立ち、何やら話しかけて能登守に指をさした。
すると少年は目をぱちくりさせて能登守を顧みた。それから畏まりましたと小声で応えた。
「そうとなれば、私も尋ねたくなるではないか。その少年、大岡兵庫とやらにの」
忠相はうなずいた。今のやりとりは何だったのか、忠相でも気にかかる。
御目見得が終わるのを待ちかねて、能登守はその少年だけを残らせて問うてみた。
少年はおずおずと、詫びるように口を開いた。
──私の言葉が本当に分かるならば、この奏者番に、長福丸自らが、そなたを小姓に任じたと申せ。そうすれば私はもう一度、そなたに会うことができる。
長福丸は広間を出る前に、そう言いに戻ったのだという。
それから兵庫は問われるままに、それまでのやりとりを明かした。
最初、ふいに立ち上がった長福丸は、どうせ将棋を指せる者などおるまいとつぶやいた。だから兵庫は、将棋がお好きでございますかと尋ねた。己が最前列にいたので、応えなければならないと思ったのだという。
すると長福丸が、言葉が分かるのかと驚いて話しかけて来たので、もちろんでございます、なにゆえそのようにお尋ねですかと答えた。
喜んだ長福丸は、それなら次は、そなたが将棋の相手をせよと言った。それで兵庫は、畏まりましたと頭を下げた。
「それは……、まことにございましょうか」
忠相は思わず息を呑んでいた。十五やそこらの少年が、咄嗟にそんな筋の通った噓をつけるものだろうか。
いやはや、と能登守は自らの首筋に手を当てた。
「御城の広間におったのじゃ。私だとて小童の一人や二人、竦ませるほどの威容は持ち合わせておるであろう。それを兵庫は、口ごもりもせずに滔々と申しおった」
能登守にも、とてもでまかせとは思えなかった。
「そればかりではない。長福丸様は私の名を、起請文がわりに教えてゆかれたのじゃ」
「起請文がわり、とは」
能登守は困じ果てた顔をして、己の鼻に人差し指をさした。
「此奴は松平能登守乗賢と申し、去年の三月から若年寄を務めておる。美濃国岩村藩二万石の主じゃ」
長福丸がこの通り、少年に告げていったのだという。
「越前。そなた、私の在所はともかく、石高など知っておるか。いや、そのほうならば存じておっても不思議はない。だが御目見得がどうにか叶ったという旗本の小倅ごときが、つらつらと私が若年寄に任じられた月まで申しおったのだぞ」
たかだか数百石の旗本の子が、その日の奏者番の名を言い当てたというだけでもあり得ない。
だがこのやりとりが真実ならば、その場でこれだけの策を与えた長福丸は、とても十四とは思えない。いっぽうの兵庫にしても、あの江戸城の広間で命じられた通りに即座に繰り返すとは並のことではない。
「どうだ、謀りごとの類とは思えまい。だが、となれば、どうなる」
忠相は応えるどころか、うなずくこともできなかった。たぶん忠相の持った恐れは能登守と同じだろう。
長福丸の言葉には幕閣の誰一人、老中でさえ逆らうことはできないのだ。それがある日を境に、兵庫の言葉に取って代わらぬと言い切れるだろうか。兵庫が長福丸の言葉だと偽って、己を利する言葉を吐くようにならないだろうか。
それなら兵庫がわずかばかり利口だということは、むしろ悪を企む危うさのほうが大きい。
忠相も声を潜めた。
「はじめのうちは当人も一心に務めましょう。ですがいつ悪いほうへ化けるとも限りませぬな」
「左様。初手から悪事をなすつもりの童などおらぬであろう。して、その懸命に務めておる間に、長福丸様に格別に御目をかけていただくことになれば、何が起こる」
能登守の不安は察するに余りあった。
元来、将軍の子には大勢の小姓がつき、その中から性質も能力も抽んでた者たちが側近に選ばれ、競い合って幕閣に残っていく。だが廃嫡だといわれている長福丸にはまだ誰も近しい小姓がおらず、その中へ突然、自在に話のできる者が一人だけ現れるのだ。
兵庫ははじめから唯一無二の寵臣になると決まっているようなものだ。しかもそれは兵庫自身の能力にも心映えにもよらぬ、ただ耳が良いという取とり柄えだけのためだ。
「あの気短な長福丸様のことだ。面倒がって、その者に好きに話をさせなさるかもしれぬ」
長福丸はさぞ嬉しいだろう。なにせ生まれてこのかた不便をしてきた、なかった口を手に入れるのだ。兵庫を気に入らぬわけがない。
「それにしても、長福丸様がご聡明にあそばしたことは確からしゅうございますが」
これまで長福丸は、きちんと人の話を理解できているのかも分からなかった。だが実は他人と会話することができ、奏者番の来歴まで頭に入っていた。その場でふたたび兵庫と会える手まで打っていったのは見事なものだ。
「応よ。これで上様も一安心であろう」
実際は、そう明らかになればなったで厄介は増すのかもしれない。長福丸には将来の側近になるべき臣下がいない一方で、弟の小次郎丸には、すでに次の将軍と期待をかけて奉公に励んでいる小姓たちが大勢いる。
そんななか兵庫が長福丸の小姓になれば、事はどう動くのだろう。ただの藩主の子などと違って、長福丸の場合は暮らし易くなるというだけでは済まないのではないか。
「その者、奥でのみ御口代わりを果たせばよいというものでもない。今でも長福丸様は表へ出られることもある」
長福丸は元服すれば諸侯の前に出なければならなくなる。黙って座っていられるのも今だけである。
「越前には兵庫の人となり、とくと見定めてきてもらいたい」
「ですが、歳は十六とか。ただでも見極めが難しい年頃でございます」
「そうとも。その時分の己を思い出せばよう分かる。私など、大人を平気で謀って、裏でほくそ笑んでおったわ」
互いに肩をすくめて笑った。若年寄にまで昇るような能登守は、さぞ頭でっかちのこましゃくれた少年だったことだろう。
結局はその時分の己を尺に測るしかない。忠相も町奉行などといって大上段で人を裁いているが、どこまで真実を見抜くことができているか知れたものではない。
「いかに同族といえど、越前ならば目が眩むこともあるまい。小姓に相応しゅうないと思えば、御城へ上げるような真似はしてくれるな。我らもそれは信じている」
老中の乗邑は、兵庫が忠相の遠縁にあたるのも東照神君の計らいだろうと言ったという。
将軍家の長子相続を堅く定めていったのは家康だ。だがそれでも三代家光は自ら同母弟を自刃させ、そのぶん家康の血統は数を減らしている。
「長福丸様がただの大名の子であれば、どのような者だろうと取り立ててやるのだがな」
この世に身体の悪い者はごまんといる。だが長福丸ばかりはあの不如意な身で、幾百と並ぶ諸侯に、佇まいから勢威を示さなければならない。
その重圧が、三十という若さで幕閣に連なる能登守には分かるのかもしれない。だが長福丸は元服すれば、そんな重臣たちにも指図をしなければならなくなる。
もしも長福丸が聡明な生まれつきで、己の立場が分かっているとするならば。もしもそうなら、長福丸はこれまでたった一人でどれほどの不安と闘ってきたのだろう。
夕闇の辻に能登守の駕籠が消えると、忠相は空にそびえ建つ江戸城を見上げた。
あの巨大な城の中で、物も言えぬ少年は一人でもがいているのだろうか。
日の長い町には、まだ振り売りの声が小さく聞こえていた。
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