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おれは、きっと狂ってしまう…映画『死刑にいたる病』で注目の作家、櫛木理宇さんが放つサイコ・サスペンス #3 残酷依存症

大ヒット上映中のサイコ・サスペンス映画『死刑にいたる病』。みなさんはもうご覧になりましたか? 連続殺人鬼役の阿部サダヲさんの怪演が脚光を浴びる一方、原作者である櫛木理宇さんにも熱い注目が集まっています。

そんな櫛木さんが放つ、話題の近刊『残酷依存症』。何者かに監禁されたサークル仲間の3人。犯人は彼らの友情を試すかのような指令を次々とくだす。おたがいの家族構成を話せ、爪をはがせ、目を潰せ。要求はしだいにエスカレートし、リーダー格の航平、金持ちでイケメンの匠、お調子者の渉太の関係性に変化が起きる。さらに葬ったはずの罪が暴かれていき……。

『死刑にいたる病』にも匹敵する、残酷でスリリングな展開。あなたは読み勧めることができるでしょうか?

*  *  *

ようやく渉太は、自分がどこにいるかを悟った。

彼は、浴室にいた。見覚えがある。

くだんの借家の浴室だった。

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そして彼はボクサーパンツ一枚で、水なしの浴槽の中にいた。足を伸ばし、浴槽の片側に背をもたせかけている。

自分の裸の腹が見えた。臍が見えた。肌はぶつぶつと鳥肌立ち、乳首も立っていた。寒いからだ、と思った。そうだ、六月に裸じゃあ、まだ寒い。

「こう――……航ちゃ、ん。……たくみ」

呼びながら、首をめぐらせた。

浴槽はオーソドックスな、オフホワイトの陶器製だった。かぶせられたシャッター式の蓋が、半分がた巻きあがっている。

古い借家ゆえ、追い焚きや自動給湯の設備は付いていない。窓は上部に嵌めごろしの明かりとりがあるだけで、その窓は厚手のタオルで覆われていた。またガラス製の引き戸は、ぴたりと閉ざされていた。

三方の壁は、自然石を模した柄入りのピンクベージュ。引き戸の向かいの壁には縦長の鏡が貼られ、その下にはシャンプーや石鹼箱を置く狭いカウンターがある。

そこまでを視線でたどって、渉太は違和感を覚えた。

――なんだろう、なにか足りない気がする。

三十秒ほど考えて、ようやく悟った。

ああそうだ、蛇口がないんだ。カウンターの下あたりに備わっているはずの、蛇口が消え失せている。

そういえば、浴槽に湯を張るための蛇口もないようだった。根もとからはずされ、穴をパテで雑に埋めてある。

――なんだこれは。

渉太は思った。

なんだこれは。管理会社はなにをやってる? 充分な金は払ってあるはずだぞ。なんだってこんな馬鹿な工事をした? いったい誰が?

――誰が。

そう思った瞬間、渉太はようやく例の規則正しい“とくとく”の正体を知った。

やはり痛みだ。足からだった。激痛であった。

彼は悲鳴をあげた。

――いい、痛い。痛い痛い痛い痛い。

意識した途端、痛みの波が押し寄せた。本能的に渉太は、己の足を見ようと身をかがめた。

そうして彼はもっとも肝心な事実に気づいた。

手足の自由が利かない、という事実に。

渉太の両手は背中にまわされ、拘束されていた。人差し指から小指は動く。おそらく両の親指を、結束バンドかなにかで縛られているのだろう。

千切ろうと力を入れた。びくともしなかった。

何度か試す。しかし無駄だった。力みすぎたせいか、こめかみの血管が倍にも膨れた気がした。だが普段なら起こるはずの頭痛はなかった。足の痛みに、すべてが凌駕されていた。

――足先が、見えない。

浴槽にかぶせられている、シャッター式の風呂蓋のせいだった。自分の腿までしか見えない。膝下は蓋の陰に隠れてしまっていた。

渉太は体をひねった。膝下の感覚がひどく鈍い。だがどうやら、両の足首も同じく拘束されているようだ。

感覚の鈍い両膝をなんとか曲げ、彼は足先がどうなっているか見ようとした。

心の片隅では、

(見るな)

自分の身になにが起こっているか、直視するなというシグナルを感じていた。だが渉太は、

(見るな。やめておけ)

見ずにはいられなかった。その目で視認せずにはいられなかった。彼は浴槽の中で身をよじり、両膝を曲げ、見た。

そして絶叫した。

「あああああああ!」

――おれの、おれの足。

「うあああああああ! ああ! ああああ!」

――おれの足が。

彼は見た。

己の両足の親指と小指が切断され、傷口がホチキスのような針で、ひどく不格好に留められているのを見た。

傷口には赤黒い血が固まってこびりついていた。焼灼消毒でも試みたのか、無残に潰れて引き攣れていた。

「ああああ! ああああああああああ!」

彼は痛みの正体を知った。そしてこの傷にしては痛みが、

(こんなもんじゃない)

まだ鈍いらしいことにも気づいた。

(ほんとうに痛みはじめたら、きっと、こんなもんじゃ済まない)

いま痛みが鈍いのは、局部麻酔のせいか? それとも鎮痛剤? モルヒネだろうか?

わからなかった。

彼には医学の知識がない。しかしなんらかの痛み止めが半分がた切れ、半分は効いた状態なこと。それでさえこの激痛なことはわかった。本能で感じとれた。

――もし、完全に効果が切れたなら。

「うあああああああ!」

――おれは、どうなってしまうんだ。

誰かこの悲鳴を聞いてくれ。渉太は願った。

聞いてくれ。頼む。誰か通報してくれ。聞こえるはずだ。届くはずだ。誰か、誰でもいいから警察に電話してくれ。

「火事だあああ」

渉太は叫んだ。

なにかで読んだことがある。無関心な都会の人間でも「火事だ!」の叫びだけは無視できないと。その言葉には、誰しも足を止めざるを得ないと。

「火事だあ。火事、だ。かじ――……」

語尾が消え入った。

重要な事実を、彼は天啓のごとく悟った。

――周囲には、誰もいない。

サークル名義で借りているこの借家は、ドライブコースとしても有名な海岸線の途中にぽつんと建っている。

道路を走っていくのは夕焼け目当てのカップル。はたまた磯釣り客。だが磯釣りの客が、借家の半径三キロ以内に入ってくることはまずあり得ない。

――おれの声を、聞く者などいない。

窓からは海と灯台を望めるだけだ。一番近い民宿でさえ、二キロ以上離れている。そして海びらきにはまだ遠い。一帯に人が集まる季節ではない。

渉太は絶叫した。

首を振り、つばを飛ばし、洟を垂らして哀願した。

助けてくれと。誰か、誰でもいいから警察を呼んでくれ、と。

しかしその間にも、刻々と鎮痛剤の効果は切れつつあった。規則正しい“とくとく”だった痛みは“どくどく”から“ずきずき”に変わり、いまや破れ鐘のような激痛に取って代わっていた。

神経そのものを鷲摑まれ、素手で引き裂かれるような痛みだった。それは痛みというより、熱だった。焼きごてを直接当てられているようだ。渉太は身悶えた。

――気が狂う。

こんな痛みがつづいたなら、おれは、きっと狂ってしまう――。

だがその前に、安寧が訪れた。

迫りくる激痛に、ふたたび彼は意識を手ばなした。

4

高比良は予想どおり、敷鑑班にまわされた。

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相棒は青梅署の工藤という若手だった。去年まで交番勤務だったそうで、歳はまだ二十四歳だという。

「青梅署刑事課、工藤巡査です。よろしくお願いいたします」

しゃちほこばった挨拶をする工藤に、高比良は笑顔をかえした。

「そんな堅苦しくなるこたぁないよ。ところでもしかして、これが専務入り初の捜査本部じゃないか?」

「そのとおりです」

うなずいた顔が、心なしか青い。

内心で高比良は同情した。初の殺人事件がこれでは荷が重かろう。ただの殺しならまだしも、手口が残虐すぎる。

――そう、残虐すぎる……。

ふたたび浮かんできた考えを、高比良はかぶりを振って払い落とした。

「じゃあ行くか」

工藤の肩を叩いた。

「まずはマル害の交友関係から洗っていこう。大学生ともなれば活動範囲は広い。学友はもちろん、サークルやバイトの仲間、彼氏、元彼……。スマホの中身が解析されるまでは、そんなもんかな。手口からいって怨恨の線が濃い。性的暴行はされていなくとも、殴打による撲殺となれば、まず間違いなく男だしな」


事情を訊くべく真っ先に会ったのは、木戸紗綾と同じ大学に通う“友人”だった。

生前の紗綾を、最後に見た人物である。

「……はい。わたしもあの子も『現代社会保障論』を取ってるんです。だから、一緒に講義を受けていました」

紗綾とよく似た雰囲気の女子学生だった。

根もとまできれいな栗いろに染まった髪が、さらりと肩下まで伸びている。服装はカジュアルすぎず、適度にスクエアだ。一昔前なら「コンサバ系」と呼ばれただろうお嬢さまファッションだった。

「その日は社保論が最後のコマでした。紗綾が『人と会う予定がある』って言うから、そこで別れたんです。お化粧室で念入りにメイク直ししてたから、男の子と会うんだろうな、と思ったのを覚えてます」

「木戸さんはその相手について、なにか言っていませんでしたか?」

高比良が問う。

友人は首をかしげた。

「とくには、なにも。わたしが『デート?』と訊いたら『まあね』みたいな返答でした。はぐらかすみたいな、あいまいな感じです。だからそれ以上、突っこんでは訊きませんでした。紗綾って、そういうとこあるから」

「そういうとこ、とは?」

「えっと、なんて言うかな。あの子、わりと秘密主義なとこあるんです」

友人は不安そうな上目づかいになって、

「あ、べつにこれ、悪口じゃないですよ? そうじゃなくて……。ただ男の子に関しては、あんまりオープンじゃないっていうか。ええと、気が付くと新しい彼氏ができてる、って感じ? まわりにがんがん恋愛相談するタイプじゃなくて、こう、秘密裡に動くって言うんでしょうか。だからわたしも『ああまたか』みたいに思って、くわしく訊かなかったんですけど……」

言葉を切り、彼女はネックレストップを指でいじった。

「すみません。訊けばよかったですよね。でもまさか、こんなことになるなんて思わなくて……。すみません」

目もとが泣きそうに歪む。

高比良は冷静に制した。

「いえ、あなたのせいじゃない。あなたはなにも悪くありません。ご自分を責めないでください」

彼女が落ちつくのを待って、

「それで、木戸さんはどうしたんです?」と問いなおす。

「駐車場に向かって、歩いていきました。西門近くの『第三駐車場』です。紗綾は車通学じゃないから、たぶん誰か、迎えが来てたんだと思います」

「車に乗りこむところは見ていない?」

「はい。わたしは学食に行ったので。すみません」

「いいんです」

彼女をいま一度なだめてから、高比良は質問を変えた。

「ところで木戸さんは、SNSをやっておいででした?」

「え、あ、はい」

友人が首肯した。

「LINEはもちろんですけど、あとはインスタとTikTok……かな。頻繁に更新してたのは、インスタグラムのほうです」

「アカウントを教えていただけますか」

高比良は自前のスマートフォンを取りだし、木戸紗綾のアカウントをメモ帳アプリに控えた。

SNSの発展は警察の捜査にも役立っている。加害者および被害者が、個人情報をみずから明かしてくれるのだからSNSさまさまと言っていい。捜査支援分析センターの解析結果を待たずとも、閲覧するだけで多くの手がかりを入手できる。

高比良は泣きそうな友人から、紗綾の所属するサークル、アルバイト先、元彼の名などを聞きだしたのち、工藤をともなって学生課へ向かった。

◇  ◇  ◇

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『残酷依存症』

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