好きなものは、パンです…ささやかだけど眩い青春の日々 #3 うさぎパン
高校生になって、同級生の富田君と大好きなパン屋めぐりを始めた優子。継母と暮らす優子と、両親が離婚した富田君。二人はお互いへの淡い思い、家族への気持ちを深めていく。そんなある日、優子の前に思いがけない女性が現れて……。ささやかだけど眩い青春の日々を描いた、瀧羽麻子さんの『うさぎパン』。「ダ・ヴィンチ文学賞」大賞にも輝いた本作の、ためし読みをご覧ください。
* * *
「それって理想の家庭教師じゃん? いいなー」
親友の早紀に美和ちゃんの話をしたら、ものすごくうらやましがられた。
早紀とは一学期の間ずっと隣の席で、自然と仲良くなった。中学ではバレー部の主将をやっていたとかで、背がすらりと高くて運動神経ばつぐんの、さばさばした子だ。顔立ちは整っているしスタイルもいいのだけれど、「なぜか男子より女子にもてちゃう」のが悩みだと言う。
ちなみに口ぐせは、「信じらんない」。早紀にかかると、一瞬にして世界は驚きに満ちた場所になる。
早紀の家庭教師は男のひとで、教えかたは悪くないのだけれど、
「めがねかけてて小太りだし、おしゃれじゃない」
上に、
「勉強が人生の中で一番重要だと思ってるタイプ」
だそうだ。
「信じらんないでしょ? もー、ぜんっぜん話が合わないんだよねー」
駅前のアイスクリーム屋でマンゴーアイスをなめながら、早紀は息まいた。怒っているときの早紀はりりしい。ひさしぶりに会うので休みの間の近況報告をしていて、その話になったのだ。
バーゲンに行った帰りだった。どこも殺人的に混んでいて疲れたけれど、早紀はミニスカートとタンクトップ、わたしは古着っぽい花柄のワンピースとジーンズを買えたので、ふたりともとりあえずは満足していた。
「だいたいさ、あんなの見てたら大学行きたくなくなるよ?」
「それは言いすぎじゃない?」
たしなめても、
「いや、あれは絶対病気。有名大学がなんだっていうのよ! いばってんじゃないわよ!」
スイッチの入ってしまった早紀は、誰にも止められない。わたしはもう慣れているのでそれ以上は気にせず、ラムレーズンを食べながら、早紀の気がおさまるのを待つことにした。
ガラス越しに、大勢のひとたちが目の前を行き過ぎていくのが見える。夕方の陽ざしを浴びて、なにもかもがオレンジ色っぽく染まっている。店の中はよく冷えているけれど、外は暑そうだ。
帰ったらミドリさんに戦利品を見せよう、と思った。それと、世の中の家庭教師事情の現実についても教えてあげよう。
実際は、花柄のワンピースはミドリさんよりも美和ちゃんに好評だった(もともとミドリさんは古着が苦手だ。若い頃にこんなのが流行っていたわ、と必ず言う。あまりなつかしくなさそうに)。
「いいでしょう」
反応がよかったのでうれしくなって見せびらかすと、美和ちゃんはしげしげと手にとってながめ、
「飽きたらちょうだい」
とまで言った。
「ねえ、どうかな?」
よほど気に入ったらしく、胸にあててみたりしている。わたしよりもむしろ美和ちゃんに似合いそうな気がしてきて、くやしくなって取り返した。
親しくなるにつれて、わたしは美和ちゃんにいろんな話をするようになっていった。ちょうどわたしが美和ちゃんを先生と呼ぶのをやめた頃からだ。
「ねえゆうこちゃん、おねがいがあるの」
ある日、珍しく改まった調子できりだされ、
「なに? お月謝の交渉ならわたしじゃなくてミドリさんだよ」
ふざけて言い返したら、そんなことじゃなくて、と美和ちゃんは言った。先生って言うの、やめてくれない?
「おちつかないんだけど」
「どうして? 先生は先生でしょ」
「だってミドリさんのこともママじゃなくてミドリさんって呼んでるじゃない? 美和さんか美和ちゃんって言ってよ」
「だってミドリさんはママじゃないもん」
わたしはすでに、うちの家庭の事情についても美和ちゃんに話してしまっていた。美和ちゃんはあまり感情移入せず、そうなんだ、とうなずきながら聞いていた。予想どおり、困った顔をしたり同情したりというありがちなリアクションをしなかったので、話して正解だったと思った。
「まあいいや、じゃあ美和ちゃんでもいい? 美和さんだと語感が悪い、なんか名字みたいに聞こえるし」
わたしが言うと、美和ちゃんはうれしそうだった。
「若返った感じがする」
「十分若いじゃん、ミドリさんに怒られるよ?」
わたしがあきれると、
「ゆうこちゃんにはわからないのよ」
とため息まじりに言う。おばさんきどり、と言い返しかけたら、
「わたし、四捨五入するともう三十代なのよ?」
まだ十五歳のわたしは、黙らざるをえない。十年という長さは、確かにちょっと想像もつかない。
美和ちゃんには、ミドリさんにはちょっと言えないようなこともすんなり言えた。わたしはミドリさんと仲がいいけれど、でも、娘としての立場というものもあるのだ。親に話せないトピックは年々増えていく。わたしのためにというよりは、どちらかというとミドリさんのために。
たとえば、富田くんのこと。
わたしは今まで女子校だったので、男の子とか恋愛とか、そういうことに関しては「かなり遅れてる」と早紀には常日頃から言われていた。
「女子だけの毎日なんて信じらんない! よくがまんできたよね?」
やっぱりお嬢様って違うよねえ、などととんちんかんなことを言う。
早紀はというと、中学校の三年間で、通算二十三人の男の子を好きになったという。ということは一年にだいたい八人の計算で、つまり一ヶ月半ごとに好きなひとが変わったということになる。それが早紀の言うように、「世の中の平均」なのかどうかは謎だけれど。美和ちゃんも、
「それはちょっと多いんじゃない?」
と首をかしげていた。
「でも、今まで誰のことも好きになったことがないなんて、そっちのほうがよっぽどおかしいって」
いくら女子校だからっておくてすぎるよ、と早紀は言う。
「よかったねえ、富田と同じクラスになって」
早紀は勝手にもりあがっているけれど、富田くんが本当に早紀の言う意味での「好きなひと」にあたるのか、わたしにはよくわからない。わからないのだけれど、なんとなく、気になる。ミドリさんに学校の話をするとき、早紀の名前は出てくるのに富田くんが登場しないのは、このもやもやした気分と関係があるのだろう。
始まりは、パンだった。
よくあることだけれど、第一回目のホームルームは、自己紹介だった。この高校は地元の中学から上がってくる子がほとんどなので、みんなお互いに顔見知りだ。わたしは初めから、ちょっとした転校生のような扱いを受けていた。まだ早紀とも仲良くなる前で、このまま友達ができなかったらどうしよう、と本気で心細かった。今から思えば、まるで小学生レベルの悩みなのだけれど、わたしは変なところで小心者なのだ。慣れない共学の雰囲気も、わたしをひるませた。
自己紹介はいたって適当に進んでいった。ちゃんと聞いているのはわたしくらいだったと思う。担任の、平板な顔をした中年の女の先生も、がやがやと騒がしいのをとがめるでもない。
ひとりひとりの名前と顔を頭にたたきこみながら、わたしのときもなんとなく流れてくれますように、と祈るような思いでいたが、やはりそうはいかなかった。わたしの順番がくると、教室はしんと静まった。
わたしはいたたまれない思いで立ち上がり、名前と住んでいるところを言い、なぜここに転校……ではなく入学してきたかを説明した。よろしくお願いします、と言って座ろうとしたそのとき、誰かが突然、
「好きなものはなんですか?」
とさけんだ。
好きなもの?
唐突に聞かれ、わたしは頭の中がまっしろになった。たぶん質問の意図としては趣味・特技あたりが聞きたかったのだと思うけれど、わたしはとっさに、
「パンです」
と言ってしまった。
パン?
教室の空気が少しとどこおる。みんなちょっと困った顔をしているのがわかった。しまった、つっこみにくいコメントをしてしまった。
「はい! 僕もパンが好きでーす」
そのとき、ななめ前の席の男の子が立ち上がって、おおげさな身ぶりで握手を求めてきた。みんな一瞬きょとんとして、そしてどっと笑う。
「文化祭は一緒にパン屋やりませんか?」
おまえとはやらねーよ、と野次られつつ、富田くんはわたしの手を握ってぶんぶんとふった。手のひらが熱かった。
早紀によると、ここですでにわたしは「ふらっときちゃった」らしい。
「あれで富田は差をつけたわけだ」
優子は気になるひととかいないの、としつこく聞かれてしぶしぶうちあけると、何度もうなずきながら早紀は言った。さすが百戦錬磨、察しが早い。
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