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すぐには、殺さないで…映画『死刑にいたる病』原作者が描く、衝撃のサスペンス・ミステリ #1 殺人依存症

大ヒット上映中のサイコ・サスペンス映画『死刑にいたる病』。みなさんはもうご覧になりましたか? 連続殺人鬼役の阿部サダヲさんの怪演が脚光を浴びる一方、原作者である櫛木理宇さんにも熱い注目が集まっています。

殺人依存症』は、そんな櫛木さんによる衝撃のサスペンス・ミステリ。息子を亡くした捜査一課の刑事、浦杉は、現実から逃れるように仕事にのめり込む。そんな折、連続殺人事件が発生。捜査線上に、実行犯の男たちを陰で操る一人の女の存在が浮かび上がる。息をするように罪を重ねる女と、死んだように生きる刑事。二人が対峙したとき、衝撃の真実が明らかになる……。

『死刑にいたる病』に興味を持った人なら、絶対ハマること間違いなし。映像化も期待される、本作の冒頭をご紹介します。

*  *  *

プロローグ

やめてください、の一言が、どうして口からこぼれ出てくれないんだろう――。

血が滲むほど、美玖は下唇を嚙みしめた。

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美玖は約五箇月前、明蓮第一高校に入学した。家にもっとも近い駅から、電車で約三十分。普通科の偏差値は六十。数年前にデザインを一新した制服は、グレンチェックのスカートと藤色のリボンタイが「上品だ」と保護者からも好評だ。

合格できて嬉しかった。憧れの制服にも、はじめての電車通学にも胸が躍った。またひとつ大人になれたんだ、と思えた。

――その電車通学に、こんな落とし穴があったなんて。

落とし穴とは、痴漢である。

初登校のその日から、美玖は毎朝、痴漢に悩まされるようになった。美玖だけではない。電車で通っている女子生徒たちは、ほぼ全員が口を揃えて、

「ぶっ飛ばしてやりたい」

「学校来るのがいやになる」

と嘆いている。中にはショックと屈辱で泣きじゃくる子や、「体液をかけられた」と目を真っ赤にしてスカートを洗いに行く子もいた。

「あいつら、明蓮一高の制服を狙ってくるんだよ」

部活の先輩はそう言って唇を曲げた。

「お嬢さま学校だからおとなしくて泣き寝入りする子が多いって、痴漢の間じゃ評判らしいの。どいつもこいつもいい歳したオヤジのくせして、恥ずかしくないのかな」

まったくだ、と美玖は同意した。

痴漢の八割は美玖の父親と同年代で、父と同じく紺のスーツを着込んだ中年男だった。もしかしたら家には美玖と同い歳の娘がいて、

「勉強はどうだ」

「部活、頑張れよ」と笑顔で肩を叩いているかもしれない。彼らは娘を励ましたその手で、他所の女子高生の体を撫でまわし、下着の中まで指を侵入させ、ときには血が出るほど荒あらしくまさぐるのだ。

痴漢に悩まされていると、いまだ美玖は両親に訴えていなかった。

多感な年頃である。性的な事柄について、親と話し合うのは抵抗があった。よけいな心配をかけたくもなかった。クラスメイトたちも同じ意見で、

「一時間早いのに乗るとかして、対処するしかないよね」

「安全ピンで手を刺してやるといいって言うよ」

「先輩たちに自衛方法を教えてもらおう」

と、あくまで「自分たちで対処する」もしくは「我慢する」ほうを選んでいた。

――でも今日の痴漢は、常にも増してひどい。

美玖は奥歯を嚙みしめた。

体を這っている手は、あきらかに複数だった。痴漢に前後左右を囲まれている。彼らの手の動きはよどみがなかった。共謀しているのだ。グループでの痴漢であった。

泣くもんか、と美玖は思った。泣いたらこの変態どもを喜ばせるだけだ、絶対に泣くもんか。

そう決心したそばから、足の間を疼痛が貫く。爪を切っていない不潔な指が、少女の未発達な粘膜をなんの遠慮もなく抉る。

痛い。怖い。声をあげたい。でも、やめてくださいの一言が喉の奥で凍りついている。だって一対四だ。怒らせたらなにをされるかわからない。怖い。

――怖い。

目がうるむ。鼻の奥がつんとする。思わず、嗚咽を洩らしそうになった刹那。

「ちょっとあんたら、なにしてんの!」

女の声が、満員電車の空気を裂いた。

「いい大人が女子高生相手に、よってたかってなんやの。こっちから手ぇ、ばっちり見えてんで。次の駅で駅員呼ぼか?」

女の抑揚には、はっきりと関西訛りがあった。美玖は顔を上げた。

ドア近くのシートに座る、五十代なかばの女であった。無造作なショートカット。安っぽい長袖ニットとジーンズ。目が細く、頬がふっくらとしたお多福顔だ。膝に抱えた安っぽいバッグから、マシュマロの徳用袋を覗かせている。

美玖の体から、力が抜けた。

この人知ってる――。そう思った。この時間帯の車両で、以前にも二、三度見かけたことがある。

顔も服装も、ごく平凡である。なのに覚えていたのは、女がいつも同じシートを陣取り、降りるまで決まってお菓子を食べつづけていたせいだ。

あるときはクリームを挟んだビスケット。あるときはクッキー。またあるときはチョコレートパイ。

そのたび「満員電車でものを食べるなんて」と美玖は鼻白んだものだ。マナーがなってない。甘ったるい匂いで、気分が悪くなる乗客だっているのに――と。

しかしいま痴漢を糾弾してくれているのは、その“非常識な女”であった。逆に“常識的”だったはずの乗客たちは、われ関せずと無言で顔をそむけている。

美玖の視界が、涙でぼやけた。安堵の涙であった。声を上げてくれる人が、一人でもいるという事実が嬉しかった。

だが背中の後ろで、

「はあ? なに言いがかり付けてんだ、ババア」

と痴漢の一人が声を張りあげた。

「人を痴漢呼ばわりすんのか。なんの証拠があってほざいてやがる。てめえの股が干上がって、触ってもらえないからって妄想かましてんじゃねえぞ」

怒気のこもった声だった。ふたたび美玖の体がすくむ。恐怖で身が縮まる。

しかし女は眉ひとつ動かさなかった。

「はあ? あんたみたいな不細工に触ってもらいたがる女なんて、この世にいいひんわ」

臆せず、そう言いはなつ。

「見てみ、その子。泣いたぁるやないの。あんたが不細工な上、へったくそな証拠や。へたくそには女の体をいじくる資格はないねんで。風俗行って、お銭払うて修行してこんかい」

「なんだと!」

「あら怒った。へたくその図星突いてもうて、ごめんなさいね。おお怖わ、ほんまのこと言われて逆ギレするその顔、おお怖わ」

わざと目を剥いて、大げさに身を震わせる。

誰かがぷっと噴き出すのが聞こえた。車両の中で、あちこちから低い笑いが湧く。忍び笑いが次第に伝播していく。……くすくす。ぷっ、くすくす……。

背後の男が、舌打ちするのが聞こえた。数度舌打ちしたあと、不服そうに黙りこむ。美玖の体にたかっていた複数の手は、いつの間にか離れていた。

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「よっこらしょお」大声で言って、女が立ちあがる。

「ちょっとごめん、ごめんなさいねえ」

人波をかき分けて、彼女は美玖の手をとった。

「お嬢さん、次の駅で降りましょ」

「え? でも、学校……」

「あかんあかん。あんた、ひどい顔しとるよ。そんな顔じゃ学校なんて行かれへん。どないする。警察行く?」

「あ……いえ」

美玖は涙ぐみながら、首を横に振った。大ごとにしたくなかった。

ぷしゅう、と音をたててドアがひらく。たったいまの痴漢騒ぎなど忘れたように、乗客たちがひとかたまりに降りていく。

女に手をとられたまま、美玖は流れに押し出されるように電車を降りた。

「あ、あの……」

「どっか座れるとこで、いったん落ちついたほうがええね」

女が微笑んだ。造作に似合わぬ、欧米人ばりのきれいな歯並びだ。吐く息は、マシュマロの甘い香りがした。

「改札出てちょい歩いたとこにほら、ええとあれや、スタバ。スタバがあるやん。な、あそこでなんやらマキアートだかラテだか飲んでいきましょ。あったかくて甘いもんには、人を安心さす効果があるねんで」


二人は駅ビル内のスターバックスに入った。

女はホワイトモカにキャラメルシロップとチョコレートソースを追加し、「同じものを」と美玖にも奢ってくれた。

糖分たっぷりの温かいモカを啜るうち、美玖の心はすこしずつ落ちついてきた。動悸がおさまり、拭えど拭えど溢れてきた涙も、ようやく止まった。

「親御さんに迎えに来てもらったほうがええね」

女が静かに言った。

「電話して、お父さんかお母さんに来てもらわんと」

「いえ。うち、共働きなんで無理です」

美玖はかぶりを振った。

「父も母も仕事中だから……。大丈夫です、一人で帰れます」

「そんな。こないなときくらい、甘えたってええんちゃう」

「いえ、いいんです。この時間帯、反対方向の電車なら空いていますし」

かたくなに言い張る美玖に、「しゃあないな」女が大きなため息をついた。

「しゃあない。ほな、送ったげるわ」

「え?」

「うちの亭主がな、いつも駅まで迎えに来てくれるんよ。ほんまはふたつ先の駅で降りる予定やってんけど、まあこの程度の距離やったら旦那も文句言わんやろ。メールしてみるから、ちょい待っとき」

いまどき珍しい折りたたみ式の携帯電話をひらくと、女はメールを打ちはじめた。


三十分後、美玖はスターバックスを出て、女とともに中央口の駐車場前に立っていた。

「あ、あの白いワゴンや。お父さーん、こっちこっち」

女が手を振る。その動きにつられるように、手前から二列目に駐車していた大きなワゴン車が発進し、場内を一回りして二人の前に停まった。

「お父さん、ごめんなあ」

女が助手席のドアを開ける。美玖を振りかえり、

「あ、これ、うちのお父さん。やくざみたいな顔しとるやろ? せやけど、中身はそう捨てたもんやないねんで。それなりにええ人やから、安心してな」

と紹介してから、自分の言葉に声を上げて笑う。

運転席には、なるほど人相のよろしくない中年男が座っていた。猪首で、額が禿げあがっている。真正面を見てハンドルを握ったまま、男は美玖にかるく会釈した。慌てて美玖も頭を下げかえした。

「ほら、乗って乗って」

女が助手席シートに片膝をかけ、肩越しに美玖をうながす。

「はい」

うなずいて、美玖はおずおずと後部座席のドアを開けた。窓の前面にスモークフィルムが貼られたドアだ。そのせいか、中はひどく薄暗かった。

ふいに背中をとん、と押された。

中へ体がのめる。背後で、ドアが閉まった。

女がドアを閉めたのだ。そう気づく前に、美玖の口を汗ばんだ掌が覆った。

ワゴンは三列シートタイプで、二列目と三列目はすでに倒されフラットになっていた。その上に、複数の男たちがうずくまっている。

美玖は酸い悪臭を嗅いだ。一瞬にして、体が恐怖にすくむ。

悪臭は、男たちの汗の臭いだった。

車内には饐えたような獣臭と、体熱とがこもっていた。男たちの目が鈍く光っている。全身の毛穴から立ちのぼる、むっとするような害意が嗅ぎとれた。

これから自分の身に起こることを、美玖は悟った。悟らざるを得なかった。悲鳴を上げたかった。しかし声は、湿った掌の下で凍りついていた。

怖い。恐ろしい。彼らを怒らせたら、なにをされるかわからない。いやもしかしたら、怒らせなくとも――。

「すぐには、殺さないで」

女の声が聞こえた。

完全に標準語のイントネーションだ。訛りの気配すらなかった。

「わかってるって」

美玖にのしかかる男が、低く応える。

美玖は瞠目した。この声。さっき、女に「なに言いがかり付けてんだ、ババア」と怒鳴った声だ。

つづいて体を這いまわりはじめる、複数の手。荒れた掌の感触。酸い体臭。粘っこい指の動き。

間違いない。さっきの痴漢たちであった。

――全員、共謀だった。

悟ったときには、とうに遅かった。

ワゴンが発進する。女がグローブボックスを開け、中からチョコレート菓子の徳用袋を引っぱり出す。

しかし美玖がそれを目にすることはない。少女は早くもフラットにした座席の上にねじ伏せられ、力任せに仰向かされていた。その耳にはもはや、なにものも届かない。

菓子をひとつ口に放りこみ、女は言った。

「――楽しませて」

駐車場を出ると、信号はちょうど青だった。

ハンドルを握る男が、左にウィンカーを出す。悲鳴をエンジン音がかき消す。白のワゴンは滑らかに、迷いなく郊外に向かって走った。

◇  ◇  ◇

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『殺人依存症』

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