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【電本フェスおすすめ本vol.2】こうして“世界のミクニ”は生まれた料理界のカリスマ・三國シェフ、感涙の自伝

この記事では、電本フェス前夜祭(~8/31)の対象作品の冒頭を試し読みしていただけます。数ある電子書籍の中から、スタッフが厳選ピックアップしたおすすめ作品です。ぜひお楽しみください!

今回は、フランス料理のカリスマ的存在として名高い三国清三さんの自伝をご紹介します。まずは、冒頭部分を読んでみてください。


こうして“世界のミクニ”は生まれた
料理界のカリスマ・三國シェフ、感涙の自伝

『三流シェフ』三國清三


*  *  *

はじめに

東京四谷の住宅街に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業したのは一九八五年、今から三十七年前のことだ。

友人の多くが反対した。近所に一軒の飲食店もない、夜は真っ暗な住宅街にフランス料理店を開業するなんて。しかも駐車場もないときている。お客さんが入るわけないだろう、と。

ぼくは住宅街の奥まった場所にあったその建物を、ひとめで気に入った。控えめだが温かみのある洋館。敷地内の樹木のたたずまいもいい。

周囲には他にも立派な屋敷があった。その住宅には、それだけではない何か特別な雰囲気があった。そこで暮らす方の人柄さえ偲ばれるような。もしここが料理店だったら、間違いなくおいしいものが食べられそうだ。

ぼくがずっと探していたのはこれだと思った。窓に灯りが見えたので、迷わず玄関の呼び鈴を押した。

「この家を貸してくれませんか?」

訪問の理由を伝えると、出迎えてくれたその家の主人は目を丸くした。私たちが住んでいるのをわかっていて、君はそれを頼むの、と。

人が住んでいるからこそ訪ねたのだ。誰も住んでいない空き家だったら、呼び鈴を鳴らしたりはしない。さすがのぼくでも。人がいるから交渉できるんじゃないか。

普通の人は、そういうことをしないのだろうか。

「面白いことを言うね、君は」

家の主人は無下には断らなかった。

「それで、ここを借りて君はなにがしたいの?」

「フランス料理です」

ぼくがそう答えると、ちょっと考え込んだ。

「なるほど。私たち家族も毎年正月は志摩観光ホテルに泊まって、高橋忠之シェフの料理を食べるのを楽しみにしてる。君はああいう料理を作るの?」

「いえ、あんな古臭い料理はやりません。ぼくのは最先端のフランス料理です」

大先輩であり芸術家とまでいわれた人の料理を「古臭い」と言ったのは、ぼくの気負いだ。ぼくは三十歳前で、まだ何者でもなかった。貯金もなければ、家もない。あるのは当時のヨーロッパで最高のレストランで積んだ八年間の経験と、自分の料理の腕に対する根拠のない自信だけ。つまり若気の至りというやつだ。まして毎年三重まで食べに行くという料理を貶したのだから、その場で断られても仕方がない。

けれどその家の主人は寛大だった。

「わかった。今日はもう遅い。来週にでも詳しい話を聞こう」

ぼくの幸運は、そこが彼のセカンドハウスだったことだ。本宅は大田区雪谷の高級住宅街にあった。ぼくが訪ねたその洋館は、近所の学習院初等科に通っていたお子さんたちと日本舞踊をされる奥様の稽古場のために建てた家だった。

一週間後、忘れもしない渋谷のNHKの裏の喫茶店でお会いして返事をもらった。彼はNHKの報道部に勤めていた。

「いろいろ考えたけど、あなたに貸してもいい。ただし八年間だけ。八年後にはなにも言わずに出てくれると約束するなら貸しましょう」

こうして「オテル・ドゥ・ミクニ」は、東京の片隅で産声を上げることになる。

貯金ゼロでなぜ開業できたのか、それは後ほど語ろう。友人たちの予想通り、最初の半年はお客さんがほとんど入らなかった。それがなぜここまでやってこられたのかという話も。それどころか八年後には返すはずだったその建物を買い取り、店を拡張して、気がつけば人生の半分以上をこの店と過ごしてきた。

いろいろなことがあった。

たくさんのお客様に来ていただいた。総数はざっと三十万人を超える。国内はもとより海外からも、たくさんのお客様に来ていただいた。ゲストブックに名を連ねていただいた各界の著名人の職業をあげればきりがない。歌手、俳優、芸術家、作家、科学者、政治家……。各国元首、閣僚、大使、海外アーティスト、ハリウッドスターのお名前だけでもかなり長いリストになる。

けれどなにより誇りたいのは、最初の半年間は別にして、三十七年間途切れることなくお客様をお迎えできたことだ。

ここ数年のパンデミック騒ぎを経ても、それは変わらなかった。十分な距離をとるためにテーブルの数を減らしたり、いろいろな対策に協力していただいたりと、ご不便をおかけしたことはあったけれど、それでもお客様たちは以前と変わりなく足を運んでくださった。今現在も。四谷の街から人影が消える日曜日のランチでさえ、席は埋まっている。

楽しそうに料理を食べている気配は、厨房にいても伝わってくる。太陽の光にきらめく海のような、その海からの心地よい風のような、客席のさざめきを聞きながら料理を作っている時間が、ぼくはなによりも好きだ。

料理店というものは、お客様に育てていただくものだと思う。料理を作るのはぼくたち料理人だけれど、謙遜ではなく、お店を育てるのはお客様たちなのだと心から思う。親から子、孫へと何代にもわたって通ってくださる常連の方たちも、今日初めていらした若いお客様も。

お客様たちがいたからこそ、ここまで料理人を続けることができた。

皿の上に僕がある。かつてぼくはそう言った。

でもずっと皿の上にいられたのは、お客様がいてくださったからだ。

そういう意味で、「オテル・ドゥ・ミクニ」はぼくだけの店ではない。ましてこれだけの歳月を続けてきたからには。ぼくの知らないいくつもの思い出、いくつもの物語が、この店のあちこちに宿っている。

それはよくわかっている。

わかった上で、ぼくはある決断をした。

二〇二二年の暮れ、ぼくは「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店する。

一九八五年から二〇二二年。

店の歴史を書くとしたら、そう記されることになるだろう。

三十七年。長かったし、一瞬でもあった。

あと三年で四十年。少々きりの良くない数字になるのには理由がある。

店は終わるけれど、料理人を引退するつもりはない。

料理人として心の底で温めていた夢を実現するために、ぼくは店の閉店を決めたのだ。三年間は、その準備期間だ。

三年後のぼくは七十歳。

どんな夢をかなえようというのか。

その夢の話をするために、この本を書き始めた。

話は半世紀以上昔に遡る。

ぼくは北海道の貧しい漁師の子だった。

◇  ◇  ◇

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