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なんか私の人生、止まっちゃってる…30歳になった同級生4人の物語 #3 世界のすべてのさよなら

会社員としてまっとうに人生を切り拓こうとする悠。ダメ男に振り回されてばかりの翠。画家としての道を黙々と突き進む竜平。体を壊して人生の休み時間中の瑛一。悠の結婚をきっかけに、それぞれに変化が訪れる……。『世界のすべてのさよなら』は、芥川賞候補に選ばれ、ドラマ化もされた『野ブタ。をプロデュース』で知られる白岩玄さんの新境地ともいえる作品。その中から、第2章「翠」のためし読みをお届けします。

*  *  *

お気に入りのソファでくつろぎながら飲むビールは格別で、ここ最近のストレスや悩みが嘘みたいに溶けていくのを感じる。悠と瑛一の家の居間にあるこの三人掛けのソファは、二人が相当な数の家具屋を見て回って買ったものだけあって、デザインも座り心地も申し分ない。部屋の中はフロアライトが点いているだけなので薄暗く、でもバラエティー番組を映しているテレビや、へべれけのケージの日光浴用のライトなんかも間接照明のひとつになっていた。

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正直言って瑛一と二人でこの家にいる方が、自分の家でくつろぐよりもずっと落ち着く。座っているだけでお酒のおかわりが出てくるし、つまみも用意してもらえるし、本当に至れり尽くせりだ。

うしろでカタンと音がして振り返ると、瑛一がへべれけ(注1)のケージの下にしゃがみ込んでいた。どうやらエサをあげるようなので、飲みかけの缶ビールを持ってソファから立ち上がる。瑛一は私が来たのに気がつくと、「やってみる?」と爬虫類用の竹でできたピンセットを差し出した。

「いや、いいです」

へべれけはかわいいから好きだけど、生きたコオロギをそのまま食べるところだけは未だに受け入れられない。瑛一はエサのコオロギを飼育しているケースのふたを開くと(この箱がすでにかなりきつい)、ピンセットでつまみあげたコオロギをへべれけの前まで持っていった。エサを認識したへべれけがゆっくりと舌の先を出し、しゅっとそれを伸ばして捕食する。

「うおお、グロい……何回見てもグロいねぇ」

私の引き方に瑛一が笑う。「そんなに嫌なら見なきゃいいのに」と言われたが、怖いもの見たさならぬ、グロいもの見たさというのがあるのだ。結局コオロギを二匹しか食べなかったへべれけは、瑛一が冷蔵庫から持ってきた新鮮なレタスを食べ出した。ケージの中の枝から瑛一の手に乗り移り、水滴のついたレタスを食べる姿が愛らしい。こういうのを主食にしてくれれば私も飼いたいと思うのに。

「もうちょっとつまみ作ろうか?」

うなずきながらソファに戻って柿の種を口の中に放り込む。点けっぱなしのテレビでは、ゲストの人となりを掘り下げるトーク番組をやっていた。七十を過ぎてもエベレストの登頂に挑んでいる登山家の男の人が出演していて、MC力に定評がある芸人さんが、なぜそうまでして山に登るのかということを、ときおり突っ込みを織り交ぜながら訊いている。

好きなことを突き詰めてやっているからだろうか、なんとなく千夜を思い出した。日本に帰ってくるたびにいろんなみやげ話を聞かせてくれる彼女は、この登山家と同じように、いつも次に現地に行くときのことを考えている。日本にいながら、心はずっとアジアの国々とつながっている。

「ねぇ、好きなことに自分の人生をつぎ込んでる人って、やっぱり幸せなのかな?」

私が訊くと、台所にいた瑛一が何か言ったかと訊き返してきた。同じ質問をした私のところへやってきて、菜箸を手に持ったままテレビに目をやっている。

「どうだろうね。傍目にはそういうふうにも見えるけど、本人が幸せと思ってるかっていったらまた別なんじゃない?」

「なんでそう思うの?」

「いや、竜平なんかと接してると、そうでもないのかなって思うから」

瑛一がソファの肘掛けの部分に腰を下ろす。言われてみれば、竜平も好きなことに自分の人生をつぎ込んでいるタイプの人間だった。でも幸せではないと瑛一が言った理由がわからない。私には、千夜も竜平もこの登山家の男の人も、みんな幸せな人生を送っているように思える。

「うーん、良くも悪くも、そういう生き方しかできないっていうのが大きいと思うんだよね。なんていうか、その人にとっては、それが必要なパーツみたいなものなんじゃないのかな。そのパーツがないと、自分っていう人間がうまく成り立たないっていうようなさ」

なるほどな、と腑に落ちた。たしかに幸せというよりも、必要なパーツだととらえる方がしっくりくる。そうなると自然に考えてしまうのは、私にとってのそれはなんなのかということだった。さっそくひとつ浮かんだものの、おまえはそればっかりかと、恋愛バカみたいで呆れてしまう。

「必要なパーツが自分の力で手に入らない人はどうしたらいいんだろうね……」

たとえば竜平のように、絵を描くことが自分を成り立たせるためのパーツなら、それは己の意志でいつでも手に入れることができる。でも私は、私の必要なパーツは、求めたからといって手に入るものではないのだ。一人で埋められればいいけれど、そうはいかない。巧がどうこうというよりも、もっと単純に言うのなら、つまりはこういうことになる。私は自分の好きな人と結婚して子どもを産みたい。それが私に必要なパーツだし、そうしないと人生がこれ以上前に進まないような感じがするのだ。

「……なんか私の人生、止まっちゃってる。方向性がない感じ。荒れ狂ってはいないんだけどさ、凪いだ海にイカダで取り残されてる状態っていうのかな……」

自分で言ってて恥ずかしくなるような表現だったが、素直な今の気持ちだった。世の中には家族や恋人やネットの世界に自分の弱い部分を委託して生きている人がいるけれど、私の場合は瑛一だ。他の誰にも言えないことも、瑛一にはなぜか話すことができる。私が周りからしっかりした人だと思われているのは、瑛一以外の人に頼る必要がないからに過ぎない。

「ねぇ、男の人ってさ、なんで女の老いに理解がないのかな」

台所に戻った瑛一の背中に尋ねると、瑛一は私のつまみを作りながら「うーん、なんでだろうね」と首をかしげた。

「翠の言ってるのは、付き合ってる彼女の結婚とか出産のリミットに関することでしょ? まぁ基本的には男の側に年齢の制限がないからなんだろうけど、実際のところはわかんないよ。やりたいこととか自分の思い描いてる将来設計があって、それと結婚を天秤にかけて、今はそのときじゃないって悩んでるのかもしれないし」

瑛一の言い方にはなんとなく濁したところがあった。きっと私に気を遣って傷つかない言葉を選んでいるのだろう。私はそのことに感謝しつつも、本当のことを教えてほしいと瑛一に言った。もちろん人によりけりなのはわかっているが、瑛一に言われたらつらくても呑み込めるような気がする。

「ならあくまでも僕の意見ってことで聞いてほしいんだけど……理解がないのは相手のことを真剣に考えてないだけだと思うよ。本当に相手のことが必要だったら、何をさておいても一緒にいたいって思うはずだから」

自分でもどこかでわかっていたからこそ胸が痛んだ。でもたぶん、これが私が目を背けてきた偽りのない事実なのだろう。

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荒い呼吸の中で閉じていた目を開けると、口に異物が入ってくる感覚があって指を舐めさせられていた。骨張った指に舌をはわせる私を見る目が少し冷たく、ここに何か仄暗いものがあるんだろうとは思うけれど、私からは何も言わない。巧はセックスの途中で必ず指を舐めさせてくる。歪んだものを受け入れるとき、こんなことで満足するならやってあげようという気持ちになるし、私はこの人を愛してるんだなぁと思う。

今まで付き合ってきた人たちも、みんなそれぞれに何かしらの歪みを抱えていた。他の男友達と遊ぶことを許さず、常にどこにいるのかを報告させる、やたらと束縛をする男。普段は温和なのに、二人きりになると高圧的になって、私をバカにしてくる男。

今思えば、なんてお人好しだったんだとも思うが、好きだからしょうがないという理由で、私は従順に受け入れてきた。ただ問題は、そうやって相手の歪みを受け入れても、私の歪みを受け入れてもらえるとは限らないことだ。男たちは、私がありのままの自分を見せると眉根を寄せることが多い。

言葉を交わさない無言の行為が終わると、巧がいつものようにたばこケースを取り上げた。「あ、ちょっと待って」とそれを引き止め、部屋の隅に置いていた自分の荷物からあるものを取ってくる。ベッドに戻り、たくさん買ってきたことをアピールするために、紙袋を逆さにしてバラバラと中のものをばらまいた。

「じゃーん」

巧は「おー!」と目を見開いて期待以上のリアクションをしてくれた。プレゼントとして買ってきたのは、いろんな種類のシャグや巻紙だ。手巻きたばこはそのふたつでまったく味が変わると前に巧から聞いていたので、一度お店に行って見てみたいと思っていた。それで実際に行ったら、思いのほかたくさん種類があったため、楽しくなってついつい大量に買い込んでしまったのだ。

「つーか、すげー量やな。ちょっと買いすぎちゃうの」

「だって巻紙とかすごい安いんだもん。好きなお酒を増やしてくみたいにさ、いろいろ吸ってみたら好みのものが新しく見つかるかもしれないでしょ?」

温水洋一似のお店のおじさんが教えてくれたのだが、たばこの葉というのは基本的に細かくなるほどマイルドになるそうで、市販のたばこがだいたい0.6から1ミリなのに対して、手巻きたばこのシャグは0.3や0.4くらいの細かさのものまであるらしい。さらに巻紙も大きく二種類に分けられ、燃焼速度が市販のたばこと変わらない「フリーバーニング」と、それよりも遅い「スローバーニング」があり、手早く吸いたいときは前者、のんびり吸いたいときは後者を使うことで変化も楽しめるのだそうだ。

「あと巻紙の質ってさ、原料はもちろんだけど、水が大事なんだってね。だからいいものはフランスのエビアンの採水地と同じ街で作ってたりするんだって」

お店のおじさんから聞いたことをついつい熱を持って話してしまう。巧はさっそく新しい巻紙とシャグを試してくれた。「これいっぺん吸ってみたかってん」と嬉しそうに言いながら、買ったものの中で一番高価だったシャグの袋を開けている。

子どもみたいに無邪気に喜んでいるのを見て嬉しくなったが、少しするとすきま風が吹くように、どこかで冷静になっている自分がいた。こうやって私からプレゼントをすることはよくあるが、彼が私のために時間を使って何かをしてくれたことがあっただろうか? 先月の誕生日も結局会いに来てくれなかったし、なんだか自分だけが彼を喜ばせようと頑張っている気がする。

注1:エボシカメレオン

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