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ZERO〈上〉 #1
プロローグ
二〇〇二年二月 中華人民共和国北京市・万寿路
不安がないわけではなかった。しかし、もはや選択肢はほかにはなかった。睡眠を忘れ、冬の訪れさえ気づかず、何度も密やかに熟考を重ねた挙げ句、たった今、そう確信したのだ。
八行紅罫の便箋で最後に筆を撥ね終えた時、そう時間はたっていなかった。老人は机から顔を上げ、集中管理の暖房が行き届きすぎたお陰で真っ白く濁っている窓に目をやった。細かい粒がうごめくシルエットが微かに見えた。
老人は関心もなさそうに目を逸らし、らくだ色のカシミアの膝掛けを机の上に置き、朱色に輝く本棚の一角に近づいた。B5判を半分にした大きさの一冊の本を取り出すと、小さな息を吹きかけて埃を払った。表紙は山水画の舞台として知られるカルスト地形の写真で被われている。
薄い便箋の束がその中に滑り込んだ。色褪せた茶紙で包まれた上に宛名が書き込まれた。二重にした茶紙で再び被われると、最後に赤い蝋を溶かした滴で封がされた。包みをひっくり返して満足そうな笑みを浮かべた老人は、茶金色のタッセルが揺れる呼び鈴を振った。
腰を屈めた秘書は頭を低くして小刻みな足取りで近づいた。
小包を仰々しく受け取るとまた深々と頭を下げ、軽業師のように後ずさりして部屋を出て行った。
長い廊下を進んで黒光りする階段を駆け降り、自分の書斎に戻った秘書は天窓から射し込む微かな陽光に小包を透かした。今日は、いつもとは違って相当分厚い。しかも、中身は二重になっているようだ。下地に透ける文字は判読できなかった。
秘書は首をすくめて、合皮のコートを羽織った。玄関を出ると、しんしんと降り続く粉雪が頬の上で遊んだ。冷気が短い首を一周した。秘書はぶるっと体を震わせた。
小太りの秘書が乱暴に腰を下ろしたことで自転車は軽い悲鳴を上げた。五分ほど走らせ、翠微路の西側にある郵便局に辿り着くと、無表情な局員に、急いで送るように念を押してから小包を手渡した。二日後、小包は手垢で汚れたり、傷むこともなく、上海まで辿り着くと、浦東エリアに聳え立つ〈上海金茂君悦大酒店〉の貸し切られた一室に届けられた。シルクの白いシャツにサスペンダーで吊ったズボンで腹の出っ張りを隠した江西省の大地主である富農は、ベルボーイからその小包をハンカチで受け取ると急いで封を開けた。そして、バスタオルを足元に落とした女には目もくれず、準備していた封筒へと移し替える作業に没頭した。小包を包んでいた茶紙は、スカイビューの窓が張り出すバスルームに備えつけの灰皿で灰になった。再び、ベルボーイを呼ぶと、「明日、一番の便で送ってくれ。急ぐのだ」と言いつけ、百元札二枚を手に握らせた。目を丸くしたボーイは、小包をしっかりと抱きかかえ、礼を繰り返して消えて行った。
翌朝、航空便で旅をした小包は、その日のうちにJR東京駅そばの国際郵便局に届けられた。そして神田郵便局に送られ、JR神田駅近くの貸しビル、築三十年という年代物のビルの郵便受けへその日のうちに辿り着いた。
渤海からの海産物の輸入を手がける零細貿易会社で五年を過ごしていることが自分の人生の中で最も奇異なことだと確信する水谷通子は、老眼鏡を首からぶら下げたままコンクリートが剥き出しの階段を一階まで降りると、折れ曲がったステンレスの郵便受けを機械的に開けた。大量の広告チラシの中にそれを見つけた時、女性社員は怪訝な眼差しを向けた。
一ヶ月に一度の割合で届く、アダルトビデオの通信販売。社長に届けると、いつも慌ててひったくって机の引出しに放り込む。そして、時々、思い出したようにニヤニヤした笑みを一人浮かべるのだ。本人は気づかれていないと思っているのだが、一度、雨で破けた時、中身が覗いていたことがあった。そこに見えた女の裸と、変態、緊縛という文字……。気持ち悪い! また全身に鳥肌が立った。今年こそ、絶対に辞めてやる──。水谷通子は、五度目の誓いをした。
東海水産社長の坂本洋平は、人の気配を感じて顔を上げた。
女性社員が無表情に見下ろしている。なんて愛嬌のない女なんだ。坂本は、溜息をついて女性社員を上目遣いに眺めた。明日にでも辞めさせてやる──毎日考えることだった。
まるで放り投げられたかのようだった。小包が机の上で一回転した。水谷通子は中華鍋のような尻を振って、無言で自分の席に戻って行った。
坂本は慌てて、小包を拾って、いつものように引出しの中へ放り込もうと……。坂本の手が止まった。あれ? ビデオじゃない……。
あぁっ! という奇声を発して坂本は小包を見つめた。幾つもの引出しを乱暴に引き出すと、中身を机の上にまき散らした。書類の山から大きな封筒をやっと捜し出すと、その中に小包を放り込み、ガムテープで何重にも巻きつけた。そして、震える手でブリーフケースから神社のお守りを取り出すと、紐で結ばれたお守りの口を開け、折り畳んだ紙片を広げた。ボールペンを握り、そこに書かれた文字をそのまま封筒の上に書き殴った。水谷通子は、顔を歪めて上司の奇行に全身を硬直させた。そして露骨な嘲笑を浴びせかけた。
「これ、急いで!」
坂本は突然立ち上がると、口から唾を飛ばしながら叫んだ。
水谷通子が無言のまま引きつらせた顔を向けた。
「郵便局? 今からですかぁ?」
午前中に処理しなければならない雑用は山ほどある。しかも、郵便局まで片道二十分以上もかかるのだ。
「いいから、早く、ほら!」
水谷通子は嫌悪感を剥き出しにして封筒を奪うように取ると、建て付けの悪いドアを乱暴に開けて飛び出して行った。
その背中を見つめながら、坂本は呆然と立ち尽くした。
《本当だったんだ……》
そして、自分が咄嗟にあんな行動ができたことに驚いた。
十年前、親父が死ぬ直前、息も絶え絶えに口にしたあの言葉──。あらゆるリンパ節をガン細胞に侵食された親父は、病室に詰めかけていた家族全員を強引に廊下に追い出した上で、わざわざ自分だけを枕元に呼んだ。そして、「中国から手紙が来る。その時、今からオレが言う通りにやってくれ、そうでないと死に切れない」と搾り出すような声で言ったのだ。あの時の顔、あの瞳を、坂本はずっと拭い去ることができなかった。
しかし、それも一年が過ぎると、徐々に記憶から薄らいでいった。親父が言ったような手紙は一切来なかったからだ。
それが、今日、たった今、十年を経て、送られてきた。親父の言ったことは、嘘ではなかったのだ。こんなことが実際にあるなんて……。
あの言葉通りにオレはやった。「小包が来たら、この住所に送れ」という奇妙な遺言通りに──。坂本は手のひらを見つめた。確かに、あの小包を掴んだ感触がそこにあった。
それから一週間。あらたに封印された郵便物は、車整備工場、仕出し弁当店、フラワーショップと駆け巡った。それぞれの場所で深い溜息と驚きの声を浴びながら。
遥か数千キロの旅をした手紙は、日本に辿り着いてちょうど三十日後、ついに安息の場に落ち着こうとしていた。
赤いバイクのスタンドを立てた郵便局員は、子供の字で書かれたような封筒の裏を何気なく見つめながら舌打ちをした。まったく、差出人の住所と名前を書かない奴がどうしてこうも多いのか。配達員はぶつぶつ口ごもりながら、インターホンを押した。応答がない。腹立ちまぎれに大声で表札の名前を呼んだ。それでも反応はなかった。配達員は、ドアにあけられた郵便受けの中に封書をねじ込み、ポットンと音がしたことを確かめた。
そしてまたバイクにまたがると、配達員は思いっきりアクセルを開けた。まだまだ仕事は残っている。だが残業は御免だった。
◇ ◇ ◇
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ZERO〈上〉
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