恋する殺人者 #2
新宿駅東口の駅前広場に、高文は佇んでいた。
大通り沿いの、巨大な三毛猫が3D画像で映る大きなビジョンが見上げられる場所だ。
十月の好天気。しかも三連休の最後の日ともあって、人出が多い。街には、たくさんの人達が楽しげに行き交う姿があった。
広場と植え込みを仕切る石積みの塀に寄りかかって、高文はさっきの名刺をポケットから取り出した。スマートフォンに番号を登録する。登録名は“鷲津刑事”としておいた。早速かけてみる。しかし出たのは抑揚に欠ける電気的な音声で、
『この電話は現在電源を切っているか電波の届かないところにあるため繋がりません。ご用のかたはのちほどおかけ直しください』
高文はスマホをしまった。
そのままぼんやりと考えに耽る。
どうしても真帆姉のことを思い出してしまう。
母親同士が仲の良い姉妹だった。
高文の母は、結婚して新居を選ぶ際、父に強く小金井を推した。姉の住む町だったからだ。ご近所になった姉妹は子供の頃同様に睦まじい交流を続けた。頻繁に行き来していたから、高文が生まれた時には当然のように、志田の伯母と伯父、そして五つ年上の従姉が身近にいる状況だった。真帆姉は姉同然、いや、姉としか呼べない存在として、常に高文の側にいた。そんな環境で育った。
真帆姉は全体的にほんわりした人だった。何事にものんびりと構え、いつも微笑んでいるような人だった。
高文が第一志望の大学に落ちて浪人を決意し、この世の終わりとばかりに落ち込んでいた時も、
「大丈夫、人それぞれペースがあるんだから、高ちゃんも気にしないで。私もこんなだから、中学高校の頃はとろくさいってよくからかわれて気に病んでいたの。でもね、大学に入ってからはそんなことどうでもよくなっちゃった。ヨガにハマるようになって、心身を自然に任せることを覚えたってこともあるかもしれないけど、人には人の、自分には自分の速さがあるって気がついたの。慌てることも焦る必要もない。人それぞれ自分に合ったペースでやっていけばいいんだって、開き直ることにした。今の高ちゃんにはそういう開き直りが必要ね。いいじゃない、大学に入るのが一年遅れるくらい、どうってことない。それぞれのペースがあるんだからさ、高ちゃんも自分のペースでやればいいと思うよ。ね、開き直り開き直り」
おっとりとした笑顔で慰めてくれた。
そんな真帆姉を、高文は姉として慕っていた。いつでもゆったりと、春の陽気のように麗らかで、ほわっとした人柄だった。
だから高文は、真帆姉が亡くなったのが呑み込めないでいる。
どうしても納得できなかった。
気持ちの置きどころがなく、戸惑い続けている。
ずっと宙ぶらりんな気分だった。
今日もこれから、こんな気持ちでアパートに帰る気にはなれなかった。高文は今、落合で独り暮らしをしている。大学まで地下鉄で二駅という利便性だけが取り柄の、オンボロ老朽アパートだ。実家から通っても構わなかったのだけれど、大学生になったからには独り暮らしも経験しておきたかったのである。三年になって就職活動が本格化したら、小金井に戻るかもしれない。だから今はまあ、とりあえず単身生活をそれなりに楽しんでいる。
ただ、今日のような心持ちの時は困る。
ちょっと呑みたい気分だった。
といっても、学校の友人達を誘うといつものバカ騒ぎになるに決まっている。今は到底、気乗りしない。故人を偲び、しんみりと呑みたい。しかし、真帆姉を知っている相手となると選定が難しい。母は伯母と二人姉妹で、高文も真帆姉も一人っ子である。だから母方の従兄弟は他にいないのだ。
思い当たるのは一人だけ。高文は再びスマホを取り出し、LINEを送る。
〈暇?〉〈軽く呑み、どう?〉
すぐに〈OK!〉とイラストのスタンプが返ってくる。暇な友人は頼りになるな、と高文はちょっと笑った。
待ち合わせの店を指定し、中央・総武線に乗って阿佐ヶ谷へ移動した。相手の住む町だ。
駅から三分の焼き鳥屋に向かう。縄の暖簾に赤い提灯の装飾。メニューを記した短冊が、長い年月煙で燻され変色し、なおかつ反り返って読めなくなっている。そんな時代がかった店構えだ。壁も、脂と埃と煙草の煙が年月を経て染み込み、元の色がまったく判らない、というような庶民的な店である。ただし味は地元の皆さんのお墨付き。今日も早くも混み合っている。
高文は入り口近くの二人掛けのテーブルを、かろうじて確保することができた。
遠慮する相手でもないから、先に生ビールを注文する。そして“鷲津刑事”にもう一度電話をかけた。しかしやはり繋がらない。
ビールのジョッキの一口目に口をつけていると、向かいの席に待ち人が座った。
挨拶もなくこっちをじっと見てきて、
「思ったよりマシな顔色してるじゃない、もっとダダヘコみしてるかと思った」
「お陰様でね」
すると相手は突然居ずまいを正し、きっちり座り直すと、
「この度はご愁傷さまでした、謹んでお悔やみ申し上げます」
ぺっこりと頭を下げる。高文は面喰らって、
「何だよ、急に」
真顔だった相手は、にへらっと表情を崩し、
「一応社会性のある挨拶してみたの。これでも常識をわきまえたレディだからね、私は」
そう云って、来宮美咲は笑った。
高校時代の同級生である。卒業後も、まったく別の進路になってはいるが、何となくウマが合って友達付き合いが続いている。
来宮は真帆姉とも一度会っていた。
この夏、真帆姉が牧先生に認められて自分のレッスン時間を持つことになった。インストラクターとして独り立ちだ。その際、最初のレッスンは無料体験コースとして、できるだけ多くの生徒を集めるという趣旨で行われた。ネットの宣伝動画で「ほら、こんなに大勢の生徒さんが興味を持って参加してくれましたよ」とアピールするのが目的だ。もちろん個人情報保護の観点から、参加者の顔は映さず、背中からのショットのみである。その動員を高文も頼まれた。要は賑やかしの頭数合わせだ。真帆姉の頼みだけれど、理工学部の野郎どもに招集をかけるわけにもいかない。画面の見映えを鑑みても、若い女性のほうがいいに決まっている。仕方なしに、数少ない女友達を頼ることにした。来宮は快く引き受けてくれた。他の女の子の友達にも声をかけてくれた。お陰でレッスン場は大盛況。大いに助かった。ちなみに、人手が足りないので、ビデオの撮影係は高文が務めた。
来宮は、頼んだビールのジョッキが運ばれてくると、店員さんにつまみも何点か注文してから、
「じゃ、献杯だね」
「ああ」
無言でジョッキを合わせた。ぐびりと一口呑んでから来宮は、
「お葬式は?」
「終わった、昨日」
「泣いた?」
「いや、泣けなかった」
未だに真帆姉が亡くなった実感がない。どこか他人事というか、別世界の出来事を俯瞰しているみたいな気分だ。それがずっと続いている。これでは泣けるはずもない。
そんな落ち着かない気持ちでいることを来宮に伝え、
「だから、自分でどうにかしようと思っている。地に足がついた感触を取り戻すためにも」
「どうにかって、何するの」
「調べてみようと思うんだ、真帆姉の事件を」
高文は敢えて事故とは云わなかった。
「独自調査をしてみるつもりだ」
◇ ◇ ◇