もう一度、彼女に会ってみせる…泣けるラブ・ミステリー #1 はじめましてを、もう一度。
「私と付き合ってください、君に死んで欲しくないから」。高校二年の北原恭介は、クラスの人気者・佑那から突然、告白された。夢のお告げでは、断ったら「死んじゃう」らしい。思いがけず始まった、謎だらけの関係。その裏には、彼女が言えずに抱えている重大な秘密があった……。若い世代から圧倒的支持を誇る、喜多喜久さんの『はじめましてを、もう一度。』。ラストに向かって涙が止まらない、本作のためし読みをお届けします。
* * *
イントロダクション
「くだん」という単語をご存じだろうか。漢字だと、「件」と書く。
国語辞典を見ると、「前に述べたこと」とか「例のこと」とか、そういう用法が出てくる。「くだんのことで相談がある」といった具合に使われる。
でも、俺が言いたいのはそっちじゃない。
「くだん」という名の妖怪のことだ。
そいつは、人の顔と牛の体を持つ。人間の言葉を話し、生まれてから死ぬまでの数日の間に、戦争や洪水、流行病などの重大事に関する予言を残すという。そして、それらの予言は見事にすべて的中するそうだ。この妖怪は西の方で活躍(?)していたらしく、山口や長崎、香川などで目撃談が残っているらしい。
俺がこの妖怪のことを知ったのは高校二年生の時だ。二〇一七年の五月に、牧野佑那からその話を聞かされた。
言っておくが、俺は当時も今も、くだんに関する伝承そのものは信じていない。特定の地域で生まれた物語や噂がいびつな形で根付き、奇妙な妖怪が誕生したのだろうと思っている。
ただ、牧野が俺に奇跡を見せてくれたことは、事実として認めなければいけない。それは確かに、くだんの能力そのものだった。
いや、それを奇跡と呼ぶのは違う。それではあまりに綺麗すぎる。
あれは呪いだったと俺は考えている。牧野は予知という名の呪いに縛られながら生きていたのだ。
そんなものにまとわりつかれる人生が、いい人生だとは思えない。
それなのに、俺の記憶の中の牧野は笑っているのだ。いつでも、楽しそうに、白い歯を見せて。
ありえないことだ。常に笑顔だったわけがない。悲しんでいた時もあったはずだ。しかし、なぜか彼女の明るい表情しか思い出せないのだ。相手の心に悪い印象を残さないというのは、牧野の才能の一つだったのかもしれない。
たぶん、彼女は運命を受け入れていたんだろう。そして、呪いとうまく付き合いながら、あるいは闘いながら――ひたすら自分の生き方を貫いた。
彼女のしたことを、俺は褒めたい。本当に尊敬している。
でも、「すごいな」って言うチャンスは、一度もなかった。
だから、俺は決めた。
どんな手段を使っても、もう一度彼女に会ってみせるって。
そう。どんな手段を使っても、だ。
第一章 告白
2838+1【2017.3.28(火)】
春休みに入ってから四日目。近所の公園の桜が満開を迎えようとしているその日も、俺は自宅の二階の自室でパソコンのモニターを眺めていた。
自分が組み立てたコンピューター・プログラムをじっくり見直し、問題がないことを確認する。
――よし、今度こそ……。
期待を込めてエンターキーを押し込む。すると、数字がいくつか表示されたあと、エラーの発生を知らせるメッセージがこれでもかと言わんばかりに画面を埋め尽くした。
……まただ。
俺はため息をつき、椅子のヘッドレストに頭を載せた。
壁の掛け時計は午後三時になろうとしている。朝の九時から、一時間の昼食休憩を挟んで合計五時間。ずーっとプログラムの改良に挑んでいたのに、エラーが頻発するばかりでちっともうまくいかない。
天井をしばらく眺めていると、湯を沸かす時に鍋の底から浮かんでくる気泡のように、ぽこぽことアルファベットや数字がまぶたの裏に現れだした。さんざんモニターを見続けてきたせいだ。
まったく、忌々しいやつらめ。俺は心の中で毒づくと、そいつらを追い払うように勢いよく椅子から立ち上がった。
小腹がすいた。頭脳労働で脳が大量の糖分を消費したらしい。なんでもいいから腹に入れておこう。
部屋を出て一階に降りると、台所に母がいた。熱心にコンロ回りの掃除をしている。
「あのさ、何か食べるものない?」
「それならちょうどいいのがあるよ。お父さんが出張で買ってきたおみやげ」
見ると、机の上に明るい緑の袋が置いてある。沖縄限定、シークヮーサー味のソフトキャンディだった。
「お父さん、恭介に食べてもらいたがってたよ」
「ふーん。じゃ、とりあえず味見するよ」
俺は個包装になっているソフトキャンディを取り出し、ぽいと口に放り込んだ。
舌に載せるとすぐに柔らかくなり、ミルクの甘味と柑橘の酸味が広がっていった。ちゃんと本物の果汁を使っているのか、なかなか美味い。
しばらくぐにぐにとそれを嚙んでいると、口の中で何かが「メロッ」と音を立てた。 ――あ、やばい。
俺は咀嚼を止め、嚙みかけのソフトキャンディを手のひらに出した。薄緑色の塊の中に、一センチにも満たない白い欠片が見えた。
舌先で右の奥歯を確認する。……ない。奥歯の穴を埋めていたはずの詰め物が消えていた。「……やっちゃったな」と俺は嘆息した。
「ん? どうしたの」
「これ食べてたら、歯の詰め物が取れた」
「あらま、そりゃ大変」掃除の手を止め、母がこちらを向く。「お金出してあげるから、歯医者に行ってきなさい」
「歯医者……」
自然と、自分の眉間にしわが寄るのが分かった。
穏やかなクラシックと、殺伐としたドリルの音が共存する待合室。妙に消毒液臭い廊下。にこにこと偽りの笑みを浮かべる歯科衛生士たち。巨大ロボットの操縦席を思わせる、ごてごてした椅子。そして、拷問としか思えない、長い長い治療時間……。それらを思い起こすだけで息苦しくなる。
俺は人より痛みに敏感だ。情けない話だが、足の小指をドアの角にぶつけたらたっぷり三分くらいは悶絶するし、もうすぐ高校二年になるというのに注射のたびにちょっと涙ぐんでしまう。もしかすると、歯科医院はこの世で一番嫌いな場所かもしれない。
「嫌なのは分かるけど、先延ばしにしたら余計に辛くなるだけだからね」
母は人生の格言めいたことを口にすると、財布から一万円札を出し、無理やり俺の手のひらにねじ込んだ。
「……分かってるよ」
「保険証、ちゃんと持って行きなさいよ。あ、あとお釣りは全部返してね」
台所を出る俺に、母が非情な一言を投げ掛けてくる。「はいはい」と適当に返事をして、俺は着替えのために自分の部屋に向かった。
今日は、本当に何もかもうまくいかない。プログラムは停滞しっぱなしだし、歯の詰め物は取れるし、こうして歯医者に行かなきゃならない。
階段を踏みしめながら、もうこれ以上悪いことが起きませんように、と俺は祈った。
外出の予定がなかったので気にも留めていなかったが、空は目一杯晴れていた。満場一致の快晴だ。見渡す限りの爽やかなブルーで満たされている。
風は柔らかで温かく、日差しはこの上なく心地いい。インドア派の中のインドア派を自称するこの俺でさえ、そこらの公園のベンチで桜を愛でつつぼんやりしても悪くないかな、と思うくらいの外出日和だ。
歯の治療は大嫌いだが、虫歯のない丈夫な歯を持っているわけでもないので、掛かりつけの歯科医院というものがある。家から自転車で七分ほど。俺は何年振りかにその歯科医院にやってきた。白い立方体のブロックをどーんと置いたような、無機質な外観は相変わらずだ。
短い階段を上がり、出入口の前に立つ。これから待っている痛みを思うと、恥ずかしながら足がすくみそうになる。できることなら引き返したい。しかし、財布の中の一万円札がそれを許してはくれないだろう。福沢諭吉が樋口一葉と野口英世に変わらない限り、家の敷居を跨げそうにはない。
俺は覚悟を決めて、自動ドアの「軽く押してください」ボタンに拳を押し付けた。
入ってすぐのところが待合室になっている。オレンジがかった暖色系の照明が使われていて、俺のイメージ通り、聴いたことのあるようなないような、微妙なチョイスのクラシックが流れていた。
待合室のソファーには数人が掛けていた。中年の女性に、白髪の老人。大学生らしき若い男もいる。雑誌を読んでいたり、スマートフォンをいじっていたり、ただじっと手のひらを見つめていたり……。示し合わせたかのように、そこにいる全員が黙り込んでいた。まるで刑の執行を待つ受刑者だ。
心を無にして、スリッパに履き替えて受付に向かう。
予約していなかったので、二十分ほど待つことになった。木製のマガジンラックには、グルメガイドや週刊誌、絵本などが並んでいる。大して興味はなかったが、地元の料理店を特集した雑誌を持ってソファーに座った。
それを適当にめくりながら、俺はプログラムのことを考えた。どうすれば、エラーを減らすことができるだろう。とにかくそこをクリアしなければならない。
俺がいま取り組んでいるのは、機械学習という手法だ。コンピューターに問題の解き方を学習させ、任意の問いに対して答えを出せるような仕組みを作るのだ。
例えば、『身長一八〇センチ、体重七〇キロ、静岡県出身の人物はプロ野球選手になれるか?』という問いを解く場合。まず、実際の選手たちの身長、体重、出身地を元に「学習」を行い、「プロ野球選手になりやすい条件」を導き出しておく。そして、その条件に合致するかどうかで判別を行い、答えを出すのだ。
念のために言っておくが、これは別に学校の課題というわけではない。俺の趣味だ。むしろ、趣味だからこそ真剣になれるとも言える。
機械学習を実行するには、プログラムを作る必要がある。プログラムというのは、「こうしてほしい」という指令を順番に並べたものだ。一を五倍して、それから三を足して、次は二で割って……みたいに、やるべきことが延々と書かれている。
正しく命令が並んでいれば、エンターキーを押して計算を開始するだけで結果が出るはずなのだが、俺がやるとエラーになってしまう。書いたプログラムのどこかに問題があるからだ。
エラーメッセージには、何行目のどこどこがよくないですよ、ということが書かれている。しかし、表示されるのは場所だけで、直し方までは教えてくれない。だから、自分で調べたり考えたりして、問題のある箇所を改善しなければならない。その方法が分からずに、俺は朝から苦しんでいるというわけだ。
そんな風に物思いに耽っていたので、「――ねえ」と声を掛けられた時、それが自分に向けられているものだと気づかなかった。
◇ ◇ ◇