富田君との楽しいパン屋めぐり…ささやかだけど眩い青春の日々 #5 うさぎパン
高校生になって、同級生の富田君と大好きなパン屋めぐりを始めた優子。継母と暮らす優子と、両親が離婚した富田君。二人はお互いへの淡い思い、家族への気持ちを深めていく。そんなある日、優子の前に思いがけない女性が現れて……。ささやかだけど眩い青春の日々を描いた、瀧羽麻子さんの『うさぎパン』。「ダ・ヴィンチ文学賞」大賞にも輝いた本作の、ためし読みをご覧ください。
* * *
公園では、小学生くらいの男の子が何人かキャッチボールをしていた。たまに歓声が上がる。ゆったりと犬の散歩をしているひともいる。
太陽であたたまったベンチに座って、さっそく味見する。ロゴ入りの赤い紙袋の中には、パンと一緒に、小さなクリームチーズのペーストとプラスチックのナイフが入っていた。ウエットティッシュも入れてくれているところを見ると、わたしはよっぽどあせっているように見えたのだろう。
「おいしいねえ」
わたしが幸せな気持ちになりながらつぶやくと、よかった、と富田くんはほっとしたように言った。
「内心、口に合わなかったらどうしようかと思ってたんだ」
あんなに真剣にパンを選ぶお客さんは初めてだよ、と苦笑まじりに言う。
「あんな場所だけど、近所のひとはけっこう買いに来てくれるみたい」
もっとも、最初は大変だったらしい。
「おばあちゃんなんかに、この店にはあんぱんはないの? とか文句を言われて」
汗をかきながら、おばあちゃんに他のパンをすすめるおじさんが目に浮かぶ。
「もう少しうちに近かったらわたしも通いたいよ」
お世辞ではなくそう思う。ミドリさんもきっと気に入るだろう。
「おうちもあの近くなの?」
何気なく聞くと、
「うん、親父はあの店の二階に住んでる」
富田くんは言った。
「おれは母親と住んでるから。ここからは歩いて十分くらいかな」
両親が離婚したのは、富田くんが小学生のときだった。サラリーマンをしていた父が、突然「パンにとりつかれて」フランスに修業に行く、と言い出したのが発端だったという。
「あれはまさに、とりつかれた、って感じだったね」
家族はもちろん仰天した。
「フランス語もほとんどできないのにね」
パンをかじりながら、富田くんは弱く笑う。そうか、このパンはフランス仕込みなのか、とわたしは思う。
「まあそれでなくても、うちの両親あんまりうまくいってなかったみたい」
淡々と言う。
「うちの母親は超現実的なひとだから、親父の夢みがちなところがいらいらするんだろうな」
夢みがち。おじさんの丸い顔を思い出す。
でもおかしいんだよね、と富田くんは言う。
「最近、また仲良くなってきてさ」
たまに、母が父の店のパンを買ってくることもあるらしい。
父は、三年間フランスにいた。一年前に帰ってきて、自分の店を開いたのだという。母ははじめ、富田くんが父親に会うのを嫌がった。
「自分と子供を捨ててフランスに行かれたわけだしね」
でもおれの場合は、捨てられたっていう意識はなくて、むしろ帰ってきてくれたことのほうが大事だった。
「パン屋なんてどこでもできるじゃん?」
それなのに、父親は、わざわざこの街に戻ってきた。
「転勤族だったからここに長いこと住んでたわけじゃないし、親父にとってはなんの思い入れもないはずなのにね」
富田くんには、父親が新しい生活を自分たちのそばで始めようと思ったことが、素直にうれしかった。
「フランスに行くとき、親父、絶対帰ってくるって言ったんだ。いいかげんなところはあるけど、言ったことは守るひとなんだ」
「すてきなお父さんだね」
わたしはすっかり感心しながら言った。
「それにしても、このパンほんとにおいしい」
あんなに大きかったバゲットが、もうひとかけらくらいしか残っていない。
「またいつでも買いに来よう」
買いに来て、ではなく、買いに来よう、と富田くんは言った。
空が薄紫色に染まってきていた。ひざのパンくずをはらって立ち上がる。公園の葉桜の上に、細い三日月がかかっていた。
それからも、わたしたちは放課後にいろんなパン屋さんに行った。週一、二回のペースで、わたしが案内することもあるし、富田くんの知っているお店に行くこともあった。パンを買うと、たいてい家までがまんできず、そのへんの公園でふたりで食べた。食べながら、いろんな話をした。
普通わたしは早紀と一緒に帰るので、
「一緒に来る?」
一度誘ってみたけれど、
「まさか」
即座に断られた。
「デートの邪魔なんて、信じらんない」
「デートじゃないよ」
私があわてて否定しても、
「デートじゃなかったらなんなのよ?」
早紀はおおげさに顔をしかめる。
「富田に嫌がられるよ」
わたしはそうは思わなかったが、ちょっとほっとしたのも事実だった。早紀はからかうけれど、これはデートというよりも、同好会の課外活動と呼んだほうがしっくりくる。富田くんとわたしは、部活仲間、あるいは(美和ちゃんいわく)同好の士、ということになる。
家でのパン作りにも気合が入った。本を何冊か買い、レパートリーを増やした。上手になったら富田くんにも食べてもらおう、と思った。
梅雨に入って公園が使えなくなると、わたしたちは富田くんの父親のお店、アトリエに行くようになった。厨房の隣に小さな事務室があり、そこでパンを食べたり、宿題をしたりした。レジを打つのを手伝ったり、おじさんがパンをこねるのをながめたりすることもあった。
夕方、ふっとお客さんが途切れる時間帯があって、そんなときは三人で厨房でパンを食べた。よそのパンを持ちこむのはなんだか気がひけたけれど、
「勉強になる」
と、おじさんも喜んで試食した。
「ちょっとやわらかすぎる」
「ここのは油っこい」
いろいろ批判するのはわたしたちふたりで、おじさんはいつも黙ったまま、ほんのひと口だけ食べた。ふだんの陽気な表情ではなく、職人らしい、きまじめな顔をするのだった。
八月に入ると、登校日があった。
真っ黒に日焼けしていたり、髪型が変わっていたり、程度の差はあるものの、休み前とは少し違って見える子が多かった。みんな思い思いに夏を楽しんでいるようだ。会わなかったのは一ヶ月足らずのはずなのに、すごくひさしぶりのように思える。休みの間の空白を取り戻そうとするかのように、教室のあちこちで話がもりあがっていた。
学校は午前中で終わったので、富田くんとふたりで少し遠出してみることにした。新しいパン屋さんを開拓しよう、と前から企画していたのだ。
富田くんと顔を合わせるのもひさしぶりだった。富田くんは、夏休みの間アトリエを手伝っている。ほとんど毎日だと言っていたから、お店に行けばいつでも会えるのだけれど(実際、何回かパンを買いがてら遊びに行った)、そうそう邪魔をするわけにもいかない。第一、とりたてて用もないのに顔を出すのは、どうも気が進まなかった。
目的地は、わたしたちの住む街から電車で一時間ほどだった。山あいにあるその都市は、伝統的な町並みが有名で、観光地としても人気がある。中心部にはおしゃれなお店やレストランも集中していて、わたしも何度か買い物には来たことがあった。歩いていると、近代的なビルに混じって、どっしりとした古い民家が目立つ。
特に行き先は決めずに、道沿いのお店をのぞきながらぶらぶらと山のほうに進んだ。駅前は家族連れやカップルでにぎわっていたけれど、大通りを抜けてしまうと人もぐっと減り、のんびりした風景が広がった。
雲ひとつない快晴で、気温はそうとう上がっていた。ぎらぎらと照りつける太陽が、体から水分を奪っていく。それでも、わたしたちの足取りは軽かった。夏休み独特の解放感、知らない場所に来た高揚感。
「のどかだー」
歩きながら、富田くんがうーんとのびをする。パンを焼いていると暑いから、という理由で坊主頭にした富田くんは、また少し背が伸びたような気がする。
「さてと、そろそろメインイベントに入るか」
もうけっこうな時間だし、と言う。ぐるる、とわたしのおなかもタイミングよく鳴った。そういえば、とっくにお昼どきは過ぎている。
「でも、意外とパン屋さんが少ないね」
かなり歩いたにもかかわらず、駅のすぐそばにあったチェーン店以外は、まだ一軒も見かけていない。
「なんとなくパンよりごはんって感じのとこだもんなあ」
あたりを見回しながら富田くんも首をかしげる。
「隊長、どうします?」
「おなかすいたね」
「のどもかわいた」
さっきまでは平気だったのに、意識し始めると、どんどん空腹感がつのってくる。
「うどんとかでごまかす? 小麦つながりで」
ざるそば、と筆で書かれた貼り紙を横目で見ながら富田くんが言う。ちりちりと涼しげな音を立てて、店先で風鈴が揺れている。
「うーん」
それはそれで魅力的ではあったけれど、
「でもせっかくここまで来たんだし……」
「ストイックだなあ」
さすが隊長、と富田くんが笑う。
「よし、もうちょっとがんばろう」
その熱意がよかったのかもしれない。角を曲がったところにそのお店を見つけて、わたしたちは同時に歓声を上げた。
それは、わたしたちの地元ではあまり見かけないタイプの、昔なつかしい雰囲気のお店だった。ひさしは日に焼けて少し色あせ、窓ガラスには「ベーカリー・キムラ」と白字で大きく書かれている。ひときわ大きくおなかが鳴って、わたしたちはほとんど小走りになっていた。
引き戸を開けてお店に入ると、思ったよりも中は広く、ひんやりと涼しかった。ふりかえると、おもての明るい景色がガラス越しにくっきりと浮かび上がって見える。正面のレジにお店のひとの姿はなく、奥でなにか作業しているらしい物音がかすかに聞こえる他は、しんと静かだった。
◇ ◇ ◇