約束は守った、伝えてほしい…慟哭の真実が明らかになる感動ミステリ #2 罪の境界
「約束は守った……伝えてほしい……」。それが、無差別通り魔事件の被害者となった、飯山晃弘の最期の言葉だった。みずからも重症を負った明香里だったが、身代わりとなって死んでしまった飯山の言葉を伝えるために、彼の人生をたどり始める。この言葉は誰に向けたものだったのか? 約束とは何なのか?
薬丸岳さんの最新刊『罪の境界』は、決して交わるはずのなかった人生が交錯したとき、慟哭の真実が明らかになる感動ミステリ。謎が謎を呼ぶ、本作の冒頭をご覧ください。
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付き合ってほしいと告白されたのは出会ってから三ヵ月ほど経った頃のことだ。横浜に遊びに行ったときに、みなとみらいにある観覧車の中で言われた。外には夕焼けに照らされた海と周辺にある高層ビル群から放たれる無数の光で、星のようなきらめきが広がっていた。観覧車に乗る少し前からしきりに腕時計をチェックしていたのは、この景色を見せるためだったのだろう。
明香里が好みそうなシチュエーションを柄にもなく必死に考えている航平を想像しておかしくなり、噴き出しながら頷いた。
付き合ってから五年近くになるが、不満に思うところはほとんどない。誠実な人柄や優しさはあの頃から変わらない。ただ、さりげなく今後の話をしても、結婚という言葉がいっこうに出てこないのが唯一の不満だ。明香里は社会人四年目にしてすでに結婚資金として百万円以上の貯金をしているというのに。
もともと小説好きが高じて出版社に入ったので、今の仕事が楽しくてしかたなく、しばらくはプライベートよりも編集者の仕事を優先させたいと思っているようだ。
「若いのに芹沢史郎の担当をしてるんでしょ。すごいわよねえ」
母の口からその名前を聞いて少しばかり不機嫌になる。
芹沢史郎はそれほど小説を読まない母や父や涼介さえも知っている有名なミステリー作家だ。作品の多くが映画やドラマになっていて、複数の出版社から出されている小説のすべてがベストセラーになっている。
たしかに彼氏がそんな作家の担当を任されているのは誇らしくもあるが、同時に腹立たしい思いをさせられたのも一度や二度ではない。
芹沢史郎は担当編集者の人使いが荒いようで、休日であってもおかまいなしに連絡してきたり、急に呼び出されることもあって、デートを途中で打ち切らされたことも多々ある。
「今度、サイン本を頼んでおいてよ」
母に言われて、明香里は頬を膨らませる。
「もらってもどうせ読まないでしょ」
「読むわよお。東原さんが来たときの話題にしなきゃならないし」
そもそも明香里はミステリー小説が好きではない。どこか現実離れした境遇の人たちが殺したり殺されたりして、夢も希望も感じられない物語のどこが面白いのだろうと思う。以前、航平からお勧めだという本を渡されたが、それもやはりそんな感じの話で、真ん中あたりまで読んだところで投げ出してしまった。タイトルすら覚えていない。
「あの人の作品なんか図書館で借りればじゅうぶんだよ」明香里は言い切った。
「彼氏の仕事相手なのにひどい言いかたね」
「彼氏の仕事相手だから言うのよ」明香里は溜め息を漏らして立ち上がった。「今日は楽しかったけどちょっと疲れた。そろそろ着替えて寝るね」
「お父さん、もうすぐ帰ってくるってさっきメールがあったよ。ドレス見せてあげてから寝たら?」
「人の結婚式で着たドレスを見せても、それほど嬉しくないでしょう」
「それもそうね」
母からスマホを返してもらい、明香里はリビングを出て洗面所に向かった。洗顔と歯磨きをして階段を上る。二階にある自室はここを出て行ったときの状態のまま残しておいてくれている。ドレスからスエットに着替えると、ベッドに寝転がってLINEにつないだ。
『今さっき実家に着きました。新婦さん、すごくきれいだったよ』
結婚式の写真とともに航平にメッセージを送る。
『お疲れ様でした。ひさしぶりの実家でゆっくり休んでね』
可愛いクマのキャラクターが添えられているが、結婚式については一言も触れていないことに不満を抱く。
すぐにメッセージが追加された。
『ところで再来週の金曜日だけど、十八時半にここを予約してるから』
メッセージとともにお店の情報が貼りつけられている。『ベッラドンナ』という店名を見て心が浮き立った。
都内のレストランに馴染みの薄い明香里でもその名前は知っている。渋谷の松濤にある高級イタリアンで、ミシュランガイドで二つ星になった店だ。
少し前に明香里の部屋で航平と一緒に観ていたテレビ番組で紹介されていた店で、特に生うにを使ったトマトクリームのパスタが絶品だとレポーターが言っていた。
いつか行ってみたいなという明香里の呟きを覚えていてくれたようだ。予約を取るのも大変だっただろう。
再来週の金曜日――十一月十六日は明香里の二十六歳の誕生日だ。
『わかった。楽しみにしてるね』
大喜びするウサギのキャラクターを添えてメッセージを送る。
もしかしたらその日に特別なことを考えてくれているのではないかと想像してしまい、それからしばらく経っても眠ることができなかった。
階段を上って地上に出ると、まばゆい街の輝きが視界に広がると同時に人いきれに包まれた。
十一月半ばだというのに額が汗ばむのを感じながら、明香里は東急百貨店のほうに向かって歩いた。
金曜日の夜とあってか、前に渋谷に来たときよりも歩いている人が多い。行き交う人たちのほとんどが楽しそうに映ったが、今この街にいる中で一番心を浮き立たせているのはきっと自分だろうと思える。
東急百貨店の前まで来ると、明香里はバッグからスマホを取り出した。この百貨店の裏手が松濤だ。スマホで『ベッラドンナ』の場所を調べ、地図を頼りに周辺を歩く。
手の中でスマホが震え、画面に航平の名前が表示される。
「もしもし……もうすぐ着くよ」明香里は電話に出て言った。
「……ごめん。今日、行けなくなった……」
航平の暗い声が聞こえて足を止める。
「どういうこと?」
「芹沢さんから緊急の調べものを頼まれて、これからそれをしなきゃいけない」
その言葉を聞いて、頭がかっと熱くなる。
「ちょっと……今日が何の日か知ってる?」電話越しにも今の自分の思いが伝わるよう刺々しい口調で言った。
「もちろん知ってるさ。明香里の二十六歳の誕生日。この埋め合わせは絶対にするから。本当にごめん……」
「別に『ベッラドンナ』は今度でもいいけど、今日中に少しでも会えないの? 航平の部屋で待っててもいいから」
航平は練馬駅の近くにあるマンションでひとり暮らしをしている。お互いの部屋の鍵は渡し合っていて、相手がいなくても寄ることがある。着替えは常備していないが明日は休日なので、下着だけどこかで買っていけばいいだろう。少しだけでも今日という日を航平と過ごしたい。
「おそらく今日中には終わらない。ごめん、そろそろ切らなきゃ……」
「ちょっとひどくない」
「しょうがないだろう! 九時五時の仕事じゃないんだし、おれの代わりはいないんだから。今おれがやらなきゃ今月の原稿を落とすことになるんだ」
「そんなの……」
わたしの知ったことじゃない――
「……ごめん。また連絡する」
電話が切れ、スマホをバッグにしまうと明香里は踵を返して渋谷駅のほうに向かった。努めて何も考えないようにする。
地下道への階段を下りようとして、ふと足を止めた。このままひとりで家に帰るのは虚しい。かといって、ひとりでクラブやバーに行く勇気もない。
先日観たテレビ番組のスイーツ特集で渋谷の店が紹介されていたのを思い出す。見た目が可愛らしくておいしそうなケーキだった。
たしか店は渋谷駅の向かい側だったと、明香里は歩き出した。駅前のスクランブル交差点の手前で立ち止まる。
こちら側にいる人たちも、あちら側にいる人たちも、あいかわらず楽しげに映った。でも、今の自分の気持ちは先ほどと打って変わってくすんでいる。
信号が青に変わり、気持ちを奮い立たせながら明香里は足を踏み出した。大勢の人たちが交差していく中で、向こうから歩いてくる人と目が合った。眼鏡をかけた若い男だ。気のせいか、男が明香里のほうに進路を変えたように感じる。視線をこちらに据えながら、肩にかけたバッグから何かを取り出して近づいてくる。
男が手に持ったものが目に留まり、呆気にとられた。
斧――?
まわりの喧騒をかき消すようなギャーッという奇声を発して、男が駆け出してくる。斧のようなものをこちらに振り下ろそうとするのが見えて、とっさにバッグを自分の顔のほうに上げた。次の瞬間、右の頬に衝撃が走り、明香里はバッグを落とした。痛みのあまり、そのままアスファルトに膝をつく。
あたりから悲鳴が聞こえてくるが、何が起こったのか理解できない。
すぐに背中のあたりが焼かれたように熱くなる。前のめりに倒れてからも、身体のあちこちが内側から爆発するような痛みに苛まれる。
それらの痛みが鈍くなり、意識がぼんやりとしていくが、「死ね――死ね――」と遠くから聞こえる男の声がふたたび現実の痛みを引き起こす。
自分はこのまま死ぬのだろうか――
助けて……死にたくない……こんなところで死にたくない……
航平――助けて――
身体中に激しい痛みが駆け巡り、視界が真っ赤に染まる。
「やめろ!」
どこからか声が聞こえて、自分の身体から何かが引き抜かれるのを感じる。同時に大量の液体が外に流れ出る音が聞こえる。激しい痛みに耐えながら、音のするほうに片手を伸ばす。指先が生温かい液体に触れる。
遠くから男たちの怒声が聞こえる。その音が静まった次の瞬間、大きな音とともに目の前に男の顔が現れる。
眼鏡をかけていないので先ほどの男ではない。それに先ほどの男よりも老けている。
男は片方の頬をアスファルトにつけた状態でじっとこちらを見つめている。蒼白な顔で、小刻みに口もとを震わせていた。
何か話そうとしているのだろうか。でも、すぐ目の前にいるはずなのに聞き取れない。
どうしても聞かなければならないように思えて、痛みをこらえながらさらに近づいていき、男の口もとに自分の耳を近づける。
約束は守った……伝えてほしい……
荒い息とともに漏れる途切れ途切れの言葉を聞きながら、男の姿がかすんでいく。
待って――行っちゃダメ――行かないで――
必死に訴えかけながら、視界が闇に覆われた。
◇ ◇ ◇