整形の決断と親の許可┃整形アイドル轟ちゃん
初めて整形をしたのは、18歳の時。
未成年なので親の同意書が必要だったが、正直言って、親に許しをもらう必要などないと思っていた。
両親は共働きでいつも忙しく、小学3年生のときに母親が正社員になってからは誕生日以外、ゆっくりと食卓を囲んだ記憶もなかった。
ご飯は作ってくれるが、家族全員がバラバラの時間帯に食べ、起床も睡眠も、生活リズムは父親とは同じだったが母親とは正反対だった。
両親は「たまには家族の時間を持とう」と時々私に気を遣って買い物に誘うこともあったが、情緒不安定になっていた私は、いちいち歯向かっては困らせていた。
親に接待されるような休日は私にとって、1人でアニメを見て自室で過ごすより孤独と苦痛を強く感じる時間だったのだ。
変な話だが、「娘」として叱られている時間の方がよっぽど愛情を感じていた。
両親と関わりの薄い日常が当たり前だったので、私は「何かをするのに親に許しを得なければいけない」という意識があまり無かった。「自分を変えたい」という思いを両親に打ち明けるのは多少恥ずかしかったが、反対はできないだろうという確信があった。
「親は今まで何もしてくれなかった」。そんな、愚かな思い込みがあったからだ。生きるために必要な全てを、両親が用意してくれたにもかかわらず。与えてくれなかったのは一緒に過ごす時間だけで、ごはんも学ぶ環境も住む家も楽しい記憶も、全て両親が働いてくれていなければ叶わないものだった。
夜、母親が珍しくリビングでテレビを観ていた時に、スッと同意書を差し出した。思い上がっていた私は何の躊躇もなく、「同意書にサインしてほしい」と伝えた。既にクリニックにも行き、カウンセリングを済ませ、決意をした後だった。
母親にも誰にも、私の決断を邪魔できないと思っていた。母親を見つめている私の視界の端には、毎朝化粧をしているテーブルと椅子があった。
薄紫色の大きなメイクボックスにはたくさんのアイプチやアイテープ、まぶたを持ち上げるための芯の太いつけまつ毛が積まれていた。
ここで毎朝自分の一重まぶたと格闘している私の姿を母親も見ていたはずだから、反対されたらそれを材料に逆ギレで押し切ろうと思っていた。
「いつも放っておいているくせに今さら親みたいなこと言わないで。私がどんなに大変か見ていたでしょ」と。
けれど、返答はあまりにもあっけなかった。母親は静かに微笑んで「わかった」とだけ言った。そして翌朝、サインと住所、緊急連絡先が書かれた同意書を渡された。
一瞬、「ああ、私の顔が変わろうが興味がないんだ」と被害者ぶったが、そうでないことはわかっていた。見ていないようで見ていたのだろう。私が幼い頃に感じていた孤独も、「自分を変えたい」という思いも、きっとわかっていたのだ。
YouTuberになって初めて両親と腹を割ってしたとき、「親としての責務を果たせなくてごめんね」と謝られ、両親も苦しんでいたのだと気付かされた。小さい頃から抱えていた疑念も不信感も、私のなかでふっと消えた瞬間だった。
二度目の整形以降、私が両親に整形の許しを乞うことは二度となかった。同意書が必要なくなったから。18歳でまぶたの切開手術をした後には、鼻と唇をほぼ同時に整形した。整形が全てで、整形しないと生きていけなかった。整形のリスクを考えず、自分を変えたい一心でメリットしか見ようとしなかった。
自分の顔が嫌いで嫌いで堪らなかったし、何かが上手くいかなければ全て顔のせいにして、次はどこを直せばいいのか鏡とにらめっこするのが日課だった。
親もいきなり顔が腫れ上がった私を見ても何も言わなかった。お互い、向き合うことが必ずしも正しいと思っていなかった。正直、親からすれば腫れ物扱いみたいな所もあったとは思うが。
18歳から今まで、両親が私の決めた整形に干渉したり意見したりすることはほとんどなかった。母親は「あんたが決めたならいいよ」、父親は笑いながら軽く「またやったのか!」と言った。当時の私は整形に生かされていた。「整形をやめろ」と言われるのは「死ね」と言われることと同義だった。
両親のこの態度を、「冷たい」「愛されていない」と言う人もいるかもしれない。しかしこの無関心にも見える態度が、私を救った。周りからは整形依存症として破滅しているように見えていたと思うが、破滅が私にとって最大の「生」だった。周りがどう言おうと私の求めるものでしか生きられなかった。
時々、視聴者さんから「整形したいけど親が許してくれない」と相談を受けることがある。「整形をした上で何をしたいのかを話し合ってみたら?」とアドバイスをするが、私自身が身勝手に整形をしてまったく話し合いなどしていないので「偉そうに言える立場じゃないよなぁ」と毎回苦笑いをしてしまう。
世の中にはたくさんの意見があるが、私は自分の顔を自分で変えることに許可などいらないと思う。
親の立場になって考えれば「生まれたままの自分を愛してほしい」と願うのも痛いほどわかるが、私のように整形しなければ死んでしまっていたかもしれないということを考えれば「生きるためにどんな手段も厭わない」としてその手段が整形なら、それは前向きだと思う。
親から貰った顔、というがそれは親にとって子どもの命より大切だろうか。そうは思わない。私の両親は顔が変わったって体の一部を失ったって生きていてほしいと私に願ったと思う。
一番向き合うべきは自分で、自分が本当にこれでいいと思える形なら間違いなんてない。
* * *