自分で選んだはずなのに…新しい人生へ踏み出す6人を描く恋愛小説 #3 隣人の愛を知れ
不倫と仕事に一生懸命なパラリーガル、初恋の相手と同棲を続けるスタイリスト、夫の朝帰りに悩む主婦。自分で選んだはずの関係に、彼女らはどう決着をつけるのか……? ルミネの広告コピーから生まれたベストセラー小説、『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』。7年ぶり、待望の2作目となる『隣人の愛を知れ』は、素直になる勇気を得て、新しい人生へと踏み出す6人を描いた恋愛小説です。その冒頭を特別にお届けします。
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12月26日(月) ヨウ
アイロンのプラグを抜こうとしゃがんだら、椅子の下にグレーのアーモンドトゥのフラットシューズをみつけた。「こんな靴、衣装で用意したっけ?」と一瞬考えたが、スタイリストの瀬島ヨウは、それがすぐに女優の私物だと気がついた。
「まさか裸足で帰っちゃったの?」
連絡しようかとスマホを手にして、メッセージを打つ指を止める。どうせ数時間後には、またこの楽屋に戻ってくるのだ。女優の束の間の安らぎを、邪魔したくはない。
「ひとまわり違う友だちがいると、人生は最後まで楽しいらしいよ。ヨウちゃんとわたしはちょうどだよね」
モデル出身の戸鳥青子とは、もう20年来の付き合いになる。ファッションの好みも合うし、さっぱりとした性格で馬が合った。ヨウにとっても、親友といえる大切な存在だ。
青子は主役を張ることは滅多にないけれど、ここ数年オファーが途切れることがない。むしろ四十路を越えてからは、憧れの大人の女性として、若い子からも人気が高まっている。おかげでヨウは還暦も近いというのに、深夜まで彼女の現場に立つことが多かった。
女優業は続けるだけで、奇跡みたいなことだとヨウは知っている。カメラの前に立ち、人目を集めるのは、普通の神経でできることではない。プレッシャーからの不機嫌を武器にしてスタッフに当たり散らす女優。瞬間的な人気に勘違いする女優。ヨウはそんな女優たちに、星の数ほどの服を着せて脱がせてきた。
青子はシャツやジャケットをスタイリストに着せてもらうとき、申し訳なさそうに腕を曲げる。着せる側の立ち位置に注意しながら、自分の腕が当たらないように袖を通す。
ヨウは片付け終えた道具箱の中から、再びブラシを取り出し、青子のシューズをブラッシングすることにした。上質な柔らかいスウェードには、職業病ともいえる外反母趾の跡がくっきりとついている。こんな足でピンヒールを履きこなし、笑いながら美しく歩くのだから大したものだ。
それはどんな靴よりも美しいものにヨウには思えた。
ついでに自分の履いているワークブーツも磨いちゃおうか。ヨウがそう思った瞬間、左胸の脇に痛みが走る。最近たまに起こる鈍痛だった。それは前触れもなくやってきて、しばらくすると嘘みたいに去っていく。いつものように鎮まるのをじっと待ちながら、いい加減、病院に行ってみようかと思う。明日の午後は撮休の予定だ。
乳腺外来か? 内科でいいのか? ホルモンバランスが人とは違うため、まずはかかりつけのクリニックに行くのが無難だろうか。
とりあえずは、家に帰って一刻も早く寝よう。
人肌であたためられたベッドに潜り込むことを想像するだけで、ヨウは自分の人生は人並みに恵まれていると思えた。
12月26日(月) 美智子
新宿御苑にある小さなクリニックを出ると、雨はすっかり上がって、雲間からは太陽が覗いている。もう少し早く止んでくれたら、洗濯物をベランダに干してこられたのに。
クリスマスの翌日。水戸美智子は、通りを見回して、人の流れの多い方が地下鉄の駅だろうと歩きはじめる。まだ朝の通勤ラッシュの時間帯でありながら、美智子は1日分の疲れを感じていた。老眼鏡を取り出し、スマホの地図を開くことすら億劫だ。
「なるべく早いうちに、娘さんを連れてこられることをお勧めします」
クリニックの先生の厳しい口調が、美智子の胸を締め付ける。丁寧な口調でありながらも冷静な医師としての見解は、母親としての不甲斐なさを感じさせるには十分だった。
娘の様子がおかしい。
気になりはじめたのは、先月の半ば頃だ。結婚してからも、毎週のように顔を見せていた下の娘が、自分からは一切連絡をしてこなくなった。電話ではいつも通りに明るく話すが、会うことを明らかに避けている。甘えん坊が抜けない次女の遅い母離れだとしても、さすがに1ヶ月以上も顔を合わせないことなどこれまでにない。
ふたりの娘を育てたこと。
それだけは、美智子が自分の人生で胸を張れることだった。
「妊娠でもしたんじゃないの?」
長女の楽観的な推測に「そうなの?」なんて、期待していたのが間違いだった。おめでたであったならば、母親に隠す理由がどこにあるだろう。
いま思えば、最後に会った娘は明らかに痩せていた。する必要のないダイエットをしているなら、すぐに止めさせなければ。インターネットで若い女性の疾患記事を読むたびに、母として不安で居ても立ってもいられなくなる。
昨日のお昼近く、美智子は信濃町の娘のマンションまでついに足を運んだのだ。
引っ越しの時以来、娘の部屋を訪れなかったのは、娘婿との生活に気を遣ってきたところもある。それ以前に頻繁に実家に帰ってくるので、わざわざ出向く必要もなかったのだ。
「心配しないで」という娘の言葉に逆らって、美智子はスマホの地図を何度もピンチアウトしながら、どうにか見覚えのあるエントランスまで辿り着いた。望まれない訪問の口実にと、クリスマスのシュトーレンをオーブンで焼いてきた。シナモンを控えめにして、娘の好きなドライアプリコットをふんだんに混ぜ込んだものだ。
何度インターフォンを鳴らしても、応答がない。
娘は、幼稚園の先生をしていたが、妊活をすると言ってあっさり仕事を辞めた。年度はじめにクラスの担任になると、途中から産休には入りづらいという。
「担任が変わっちゃうと子どもたちが可哀想だから」
娘はそう説明していたが、
「ナオくんの仕事も不規則だし、休日出勤も当たり前だし、できるだけ一緒にいられる時間を増やしたくて」
とも、付け加えた。そっちが本音だなと、美智子は微笑んだ。
日曜日だから、旦那と一緒に買い物にでも出かけているのだろうか。
美智子が娘婿のナオくんと対面したのは、いわゆる親への挨拶ではない。当時、流行っていたらしい「フラッシュモブ」なるサプライズ企画で、娘さんにプロポーズをしたいからと、共犯となる娘の旧友に連れられて、家までやってきたのだった。
「お義母さんにもぜひ参加していただきたいんです」
プロポーズが成功する前から、「お義母さん」と言い切るのが可笑しくて、ついついOKしてしまった。明るく気のまわる彼に、娘が惹かれるのもわかるわと、ダンスの振り付けを一生懸命覚えたっけ。あの思い出のプロポーズ動画は、今もYouTubeに残っているだろう。美智子は胸騒ぎを無理矢理にでも押さえつけようとして、楽しかった出来事ばかりを思い出すよう努めた。
マンションのエントランスに座って娘の帰りを待つと、硬いソファにお尻が痛くなってきた。シュトーレンの入った紙袋を膝の上に置いて、もぞもぞと重心を変えてみる。娘婿とデートにでも出かけたのなら、夜まで帰らない可能性だってある。今日はクリスマスなのだ。むしろ夫婦の楽しいデートであれば、美智子の心配は考えすぎとなるだろう。
それでも、急に痩せた娘を思うと、なにか良からぬことがあったのではないかという不安がどうしても頭をよぎる。
娘は、妊活がうまくいかずに悩んでいるのか。流産した可能性だってなくはないのかもしれない。何度メッセージを入れても既読にならないまま1時間が過ぎ、お尻も限界になって出直そうかと思いはじめたときだった。
マンションに戻ってきた娘は、美智子の姿を睨みつけるようにして言った。
「なんで来たの?」
ダウンコートで着膨れているが、先月よりさらに痩せている。
「ナオくんがお母さんに連絡したの? 迎えに来いって言ったの?」
父親ゆずりで筋肉質の長女とは違い、次女は自分に似て、色白でぽっちゃりしている。「食べても太らないおねいちゃんが羨ましい」と口癖のように言いながらも、甘いものに目がないところが可愛らしかった。
それがいま、目の前にいる娘は、頬はげっそりと抉れるように痩けて、目ばかりがぎょろりと大きい。そして何よりゾンビのような顔色をしている。
「帰ってよ」
娘らしからぬキツい口調と、それ以上に我が娘の異様な姿に、美智子は瞬きができなかった。
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