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写真を撮ってきて頂けませんか?…難病の少女との心震えるラブストーリー #2 ぼくときみの半径にだけ届く魔法
売れないカメラマンの仁はある日、窓辺に立つ美しい少女・陽を偶然撮影する。難病で家から出られない陽は、日々部屋の中で風景写真を眺めていた。「外の写真を撮ってきて頂けませんか?」という陽の依頼を受け、仁は様々な景色を届けることに。写真を通して少しずつ距離を縮めるふたり。しかしある出来事がきっかけで、陽が失踪してしまい……。ミリオンセラー『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』の七月隆文さんが贈る『ぼくときみの半径にだけ届く魔法』。一部を抜粋してご紹介します。
* * *
雪に咲く花、というのは変わらない印象。歳はぼくより少し下――二〇歳くらいだろうか。女性、と表すにはまだ少し幼さが残っている。
「はじめまして」
その声はあたたかな雪、という矛盾した質感がした。
「幸村陽と申します」
丁寧にお辞儀して微笑むと、持ち上がった頬から顎にかけてつるりと滑らかな曲線が現れ、彼女が自然と授かっただろう、みんなに好感を抱かれそうな顔になった。
ぼくは少し見とれながら、日常からかけ離れたこの景色にぼぅっとなってしまっている。
「あの」
呼びかけられ、我に返った。
彼女が両手でそれを持ち上げたとき、ぼくはそこにある自分のカメラの存在にやっと気づいた。
「お写真、拝見しました」
心臓が鳴る。
ここにいる目的を思い出す。そう、彼女があの写真を見たんだ。
次の言葉を、待つ。
すると彼女は一瞬、何かをこらえるように眉間と唇に力を込め、それから宗教画のような微笑みともつかない穏やかな顔をした。
「外からの自分を見るのって、久しぶりです」
言ってから、羽織ったカーディガンの襟を直す。
彼女の言葉に引っかかりを覚え、考えようとすると、
「須和さんはプロの写真家なんですよね。すごいです」
向けてくる目には、純粋な尊敬の光があった。
「……いえ」
眩しさに暗い部分を照らされ、ぼくは苦笑いを浮かべる。
「プロの写真家って実は誰にでも名乗れて。全然たいしたことないんです。ぼくなんか仕事一つもなくてまったく食えてないんですけど、それでも言えちゃうんですよ」
本当は出さなくていいところまでどろりと溢れてしまい、それが部屋の空気を濁らせたのを感じた。
「――大丈夫ですよ、江藤さん」
彼女がぼくの後ろを見て言う。
振り向くと、ドアのわきに控える江藤さんが、ずっと緊張の面持ちでこちらを見ていたことに気づいた。
彼女の言葉に、畏まったふうに頭を下げる。
なんだろう。
このやりとりの意味が、ぼくにはつかめない。
「須和さん」
彼女が呼びかけてくる。
「このお写真を公開する許可、というふうに伺っていますが」
「あ――はい」
気を取り直し、説明する。
「作品として使わせて頂きたいんです。コンクールに出すとか、ポートフォリオに使うとか、SNSに上げるとか」
「……ポートフォリオ、というのはなんですか?」
「作品の見本帳です。『こういうの撮ってますよ』って、ファイルにしたもの。それを出版社の人とかに見せて、仕事をもらったりするんです」
「なるほど……」
迷っているふうだった。
「人目にふれますが、それでトラブルっていうのは、ぼくは聞いたことがないです」
言葉を重ねる。この写真はなんとしても使わせてもらいたかった。
「全部じゃなくて、コンクールだけとか、どれかだけの許可でいいので。……お願いします」
「あ、頭を上げてください、どうか」
上げると、困惑に曇る表情があった。けれどぼくの視線を察したとたん、唇の端を窪ませるように持ち上げ、微笑み未満のものを作る。
その意識というか、人に対する表情の仕草が心に焼きついた。
彼女がもう一度写真を見る。考えている沈黙。
ぼくは改めて、広い部屋を見渡す。
何か特別な事情がある。
それが何かははっきりしないけど、間違いないだろう。だからこそ彼女はこんなにも迷うんだ。
続く沈黙の長さで、悲観的な予想がよぎりだしたとき、
「……ポートフォリオだけなら」
彼女が言って、まなざしを向けてきた。
「それだけなら、いいです」
ぼくはすっと息を吸う。
コンクールに出せないのは正直残念だけど、それよりも差し迫っているのは仕事を取ることだ。そういう綾を胸の内に広げ、
「よかった」
と口に出した。
すると彼女はふっと目を瞠り、胸に右手のひらを当てる。瞬きを二度して、笑んだ。
ぼくたちの間に、何か心が通い合ったようないい間合いが訪れた。
「あの、他の写真を見てもよろしいですか?」
「ええ」
彼女はカメラの操作パネルを見て、すぐ戸惑いを浮かべる。
「そこのダイヤルを回すんです」
「ダイヤル?」
「ええと、丸いギザギザになってるところ。それを左に」
そのとおりにした彼女が、あっと目を見開く。
そこに収められているのは、この住宅街や周辺を歩きながら撮ったものだ。
なのに、彼女のまなざしの色が妙に深くなったのはどうしてだろう。
「あ、この桜」
どれ? と聞く前に彼女が先回りしてぼくに見せてくる。
この家から近い十字路にあった桜の木だ。枝がだいぶ剪定されて痛々しい姿になっていたけど、それでも花を咲かせているのがけなげだった。
「植えてる場所とか形が面白いと思って」
ぼくの言葉にへぇぇ、と感じ入る。くすぐったい。それから彼女はぼくの発言が終わったのか確認するような丁寧な間を置いて、また写真に視線を戻す。
「もう葉桜なんですね」
「ええ。この木はちょっと早いかもです。別の場所ではここまで葉っぱになってなかったです」
「懐かしい」
つぶやき、ダイヤルを回した。そのフレーズに引っかかりを覚えたとき、
「この公園」
また見せてくる。
「……それも面白いと思って」
子供向けの広場に小さい信号機とか横断歩道が置かれ、教習所のコースを小さくしたような造りになっていた。
「私も小さい頃、遊んだことがあります。妹とキックボードで競走したりして」
ああ、森田さんのお家。
ここの通りも懐かしい。
そう写真を見ていく彼女の色合いに、ぼくはひとつの予感を強めていた。
だって、そこに写っているのは本当にこの家の近くのものなのに、彼女の表情は遠くの故郷に何年かぶりに帰ってきたときのような、そんなふうだったから。
そして彼女は、最後まで見終えた。
部屋に沈黙が降りる。白い壁に映された風景の幻に囲まれながら、彼女がそっと口を開く。
「須和さん。私、病気で外に出られないんです」
ぼくはとっさに反応できない。聞きたいことがたくさん浮かんだけど、ずけずけと踏み込めない。
「あっ」
そのとき、彼女が大事なことを思い出したふうに体を起こした。
「ずっと立ったままですよね、すみません」
何か座るものを、と見回したあと、掛け布団をめくり、ベッドから降りようとする。
「椅子をお持ちします」
ぼくが止めようとしたのと同時に、
「陽様、ただいま持って来させます」
江藤さんがスマホで誰かと連絡を取る。
「すみません、気づかなくて……」
彼女が申し訳なさそうにうつむき、自分の手にあるカメラに気づいて、あ、とあわてた顔になる。
「あの、ありがとうございました」
カメラを掲げ、返す意思を示してくる。江藤さんが速やかに歩み寄って、主からカメラを引き取った。
「お写真、素敵でした」
「いえ……」
やりとりしている間にカメラを受け取る。しっくり手になじんだ。
彼女はぼくと目が合うと逸らして、口許だけで微笑みを作る。そわそわとした気配があった。この状況に緊張しているのだろう。気の細やかな子なんだなと思った。
「……それじゃ、ぼくはこのへんで」
そろそろ、おいとましよう。
「許可、ありがとうございました。これほんとにいい写真だと思うんで、撮れて嬉しいです」
お辞儀する直前、彼女の何かを言おうとする唇が垣間見えた。そのまま部屋のドアに向かおうとしたとき、
「――あの」
呼び止められた。
振り向くと、彼女はぴくりとこわばって、開いた口にじわじわ力を込めていき、
「写真を撮ってきて頂けませんか」
「え?」
「また、外の写真を撮ってきて頂けませんか」
彼女のまなざしには切実さが宿っている。
ぼくは、はっとなった。
壁にあるたくさんの風景写真。ネットの画像検索だったり、どこかの写真集からのデータだったりするんだろう。実際、見覚えがあるものもあった。
「須和さんのお写真にはここにあるものにはない、その、質感というか、そういうものがありました」
それはきっと、生っぽさだろう。
たとえばカッチリ整ったテレビ番組より、個人配信の方が手触りがあっていい。そういう感覚。
「須和さんの目を通した世界を、もっと見せて頂けませんか」
詳しい事情はわからないけれど、病気で外に出れない彼女のために写真を撮ってくる。それを断る理由はないと思った。
ぼくが応えようとしたとき、彼女がふいに両手で顔を覆う。
「私、恥ずかしいこと言いましたね」
なんだろう。
「……世界って……」
ああ。
彼女の耳が、はっきりわかるほど赤くなっていく。
「――大丈夫です、江藤さん」
また彼女が言った。振り向くと、江藤さんは承知したふうに動かない。このやりとりはなんなんだろう。
まあ、それはともかく。
「……わかりました」
ぼくは応えた。
「写真、撮ってきます」
すると彼女は覆っていた手を下ろし、みつめてくる。
そして、微笑った。
部屋の光線が変わって空間が鮮やかに持ち上がったような、そんな感覚がした。
彼女は、あ、とあわてたふうに、
「もちろんお礼はお支払いします」
つい苦笑する。深窓の令嬢という風貌と小動物みたいな振る舞いのギャップが、おかしかった。
こうしてぼくは、彼女のために写真を撮ることになった。
◇ ◇ ◇