私の夫は、本当は誰なの?…新しい人生へ踏み出す6人を描く恋愛小説 #4 隣人の愛を知れ
不倫と仕事に一生懸命なパラリーガル、初恋の相手と同棲を続けるスタイリスト、夫の朝帰りに悩む主婦。自分で選んだはずの関係に、彼女らはどう決着をつけるのか……? ルミネの広告コピーから生まれたベストセラー小説、『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』。7年ぶり、待望の2作目となる『隣人の愛を知れ』は、素直になる勇気を得て、新しい人生へと踏み出す6人を描いた恋愛小説です。その冒頭を特別にお届けします。
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12月26日(月) ひかり
夫が帰らず、子どものいない主婦は、独り暮らしとなにが違うのだろう。
ひかりには有り余る時間だけがあった。毎朝、赤坂御所の脇の坂道を上って、四谷にあるお寺まで出向いている。だらだらと続く勾配に息は切れるし、先週は子どもに自転車をぶつけられて転倒までした。
「俺がハタチのとき事故でさ」
夫の直人から両親の話を聞いたのは、初めて会った夜のことだ。家族を失った天涯孤独な人なのだと、ひかりはしんみりと同情した。母と姉に囲まれてにぎやかな生活をしている自分には、とてもじゃないが耐えられない境遇だと思った。
直人に会った3年前の春、ひかりは学生時代からの女友だちと飲んでいた。給料日前だからと、リーダーシップのある由佳が、2時間飲み放題、食べ放題の串揚げ屋さんを選んでくれた。就職してからも定期的に集まるいつものメンバー。由佳は姉御肌で、もうひとりの麻子とひかりは、どちらかと言えば、後からついていくようなタイプだった。愚痴を言い合って、励まし合って、すぐに元気になる。マッチポンプみたいな女子会だ。
「ねー。ありえないでしょ?」
その夜のメインスピーカーはひかりだった。ひかりには1年前から付き合っている晃平という彼がいて、4月から福岡へと転勤が決まった。プロポーズもそろそろかと、期待していた矢先だった。3週間前のタイミングで突然内示が出たらしく、昨晩ひかりも聞いたばかりの話を、ふたりに一生懸命説明する。
「別にありえなくはないじゃん。メーカーなんだから転勤もあるでしょ。晃平くんが悪いわけじゃないし」
由佳の正論に、ひかりは心の中で思いっきり舌打ちをしたい気分だった。
「そうだよ、いいじゃん。遠距離だって」
麻子まで由佳の側に立つなんて悲しくなってくる。
「困るよ。遠恋なんて絶対にありえないから!」
金曜の夜から月曜の朝まで恋人と一緒に過ごす。それだけを楽しみに、ひかりはまた1週間を頑張れるのだ。
「とりあえず1年我慢して、来年からひかりも福岡に引っ越せばいいじゃん。そのタイミングで籍も入れてさ」
「それ、晃平にも言われた……結婚までは言ってなかったけど」
淋しい思いをさせないようにと、彼もあれこれとプランを考えてくれていたが、心はどん底だった。ひかりの職場が、年度内は退職も転職もしづらいことを理解してくれている。それ以上の問題は、彼の転勤が、本社への栄転だったことなのだ。
「そりゃ結婚はしたいけど、福岡が本社の会社だったなんて聞いてなかった。それって転勤じゃ済まなくて、定年までずっと九州の可能性もあるって話なんだよ?」
騙されたと言わんばかりに、ひかりはレモンサワーのおかわりを頼んだ。由佳も麻子も、グラスにまだ半分以上残っている。結婚が前提の女の人生なんて、化石みたいな価値観だと知っている。だけど結婚せずに生きていく将来は選択肢にない。
「ひかり、ちょっとペース飛ばし過ぎじゃない?」
由佳の忠告を無視して、ひかりはジョッキを一気に飲み干した。
「別に福岡だって、職場はいっぱいあるでしょ。ひかりが働ける幼稚園なら。ごはんもおいしくて、子育てもしやすいし、むしろ東京より住みやすいって聞くけどね」
「麻子、他人事だからっておもしろがって言わないでよ」
「だってそれしかなくない? まぁ離れちゃうのはうちらも淋しいけどさぁ。福岡ならLCCも飛んでるから安く行けるし。って、わたし1回も行ったことないけど」
麻子はすっかり、ひかりが福岡に行くものと決め込んでいる。由佳の言うとおり、いつもより速いペースで飲んでいるからか、あっという間にぐるぐると酔いが回ってきて、なんだか泣けてきた。
「遠恋は我慢できたとしてもさ……由佳も麻子も知ってるよね? 実家から遠くなる結婚はダメなんだって。お母さんをひとりになんてできないから」
両親は、ひかりが4歳の時から別居している。父親はずっと別の女と暮らしているのに、母は断固として離婚を許さなかった。
「ダメって言ってもさ……。ひかりにはお姉さんもいるわけだし」
麻子が困ったなという顔で、声のトーンを下げた。
「じゃあひかり、別れる、でいいわけ? 晃平くんみたいないいヤツ、なかなかいないと思うけど」
それはひかりにもわかっている。わかっているからこそ、転勤という不条理が納得できないのだ。だからといって、結婚のために晃平に転職してもらうこともできない。
「26にもなって、そんな子どもみたいなこと言ってる余裕ないじゃん。だったら晃平と別れて、他の相手を探すしかないね」
煮え切らないひかりが、由佳に追い討ちを喰らったとき、
「ここに、いまーーーす!」
と、隣のテーブルで飲んでいたグループのひとりが、ひかりのジョッキにガチンとグラスを当ててきた。
「俺たちいいヤツだし、とりあえず一緒に飲みません? 男女3・3でちょうど良くない?」
ただでさえテーブルの間が狭く、満席で賑わう店内だ。ひかりたちの会話は彼らにも丸聞こえだったのだろう。ノリは学生のように軽いが、スーツ姿からすると、みな社会人に見える。気軽に声をかけても、嫌がられる確率は低いはずだ。そのぐらい遊び慣れてそうなイケメンの部類が揃っている。ひかりは自分の酔っ払った泣き顔が猛烈に恥ずかしくなって、急いでトイレに立った。
女ばかりの家庭、さらには女子校で育ったせいか、職場まで女だらけだからか、男性に対して身構えてしまうところが、ひかりにはある。男友だちはいても、気を許せるのは彼氏になった人だけだ。
入念にメイクを直して席に戻った頃には、2つのテーブルを合体させ、由佳も麻子もすっかり盛り上がっていた。ひとり気後れするひかりに、
「家族思いのひかりちゃんは、ここだよ」
自分の隣の椅子をスッと引いたのは、さっきジョッキを当ててきた男で、ひかりが飲みかけだったレモンサワーをさりげなく引き受けている。かわりに烏龍茶を頼んでおいてくれたその人は、1年後には夫となる直人だった。
今朝、墓石に冷たい水をかけて、持参したスポンジで念入りに擦っていると、住職らしき人が声をかけてきた。そんなことははじめてだった。
「失礼ですが、どんなご縁で?」
ひかりは高齢の僧侶に一礼をする。
「夫の両親のお墓参りです」
ひかりの言葉に、顔に深い皺を刻んだ住職は、眉を少し上げた。そりゃそうだろう。毎日冷たい水でピカピカに墓石を磨く嫁なんて、いまどき殊勝な心掛けだとめずらしがるのも無理はない。
「結婚前に亡くなっているので、わたしはご両親にお会いできませんでしたが……」
この墓を最初に訪れたのは、直人と付き合って間もない頃だ。ひかりの大好きなアニメ映画の聖地巡礼にと須賀神社をおとずれた帰りだった。
「福吉なんて滅多にいない縁起良さそうな名前なのにさ、ふたりして早死にするなんて泣けるよな」
最愛の両親のお墓に、心やさしい男前が手を合わせている。彼を決して独りにはしないと、直人の隣でひかりはそっと誓った。
福吉勝徳 享年七十六歳 昭和六十三年九月三日
福吉鈴子 享年八十四歳 平成十六年一月三十日
住職は、墓石の後ろに立つ卒塔婆をズラして、しっかり刻字が読めるようにしてくれる。
福吉夫妻には、古希を迎えた娘さんがいらっしゃって、先日、永代供養の相談に来た。その方がそのときに、ここで手を合わせている見知らぬあなたを見て、不思議に思ったのだ、と。住職は、皺がさらに深くなったような表情を見せて話を終えた。
直人の両親が亡くなったのは、こんな年齢ではないはずだ。
この墓のふたりは同じ日に亡くなってもいないし、いくらなんでも昔すぎる。直人が生まれる前に義父は死んだことになる。祖父母の代からのお墓だったのだろうか。
「その娘さんに、息子さんはいないんですか? 息子じゃなくても甥っ子とか」
わけがわからず不審の目を向けると、老人のしっかりとした眼光に、逆にひかりの足がすくんだ。人違いならまだしも、墓違いなんて聞いたことがない。住職は、静かに首を振った。
ドラマチックなプロポーズをされた後も、結婚式の報告も、子宝を祈るときも、毎年の直人の誕生日にも。会ったこともない舅姑のお墓にお参りすることで、ひかりは不思議と心が落ち着いた。夫方の家族は増えずとも、直人の奥さんであることを実感できた。これまでも、そしてこの2ヶ月は1日も欠かさず、わたしは誰のお墓に手を合わせていたというのか。
ひかりにとっては、お参りではなく、もはや願掛けに近かった。直人の帰りをひたすら待つ長い夜。師走に入り、寒さが日に日にこたえたが、お墓参りを途切らせると心の何かまでも、プツリと途切れてしまうような気がしていたのだ。
ひかりは全身から力が抜けて、地面にしゃがみ込んだ。
頭がうまく回らない。住職と話を続ける言葉もみつからない。
直人に電話をかけて今すぐにでも聞きたいのに、なんて聞いたら良いのかもわからない。そんなことを聞いたら、直人はまた不機嫌になるのだろう。
それだけははっきりとわかるのに。
「もしお嬢さん? 大丈夫ですか?」
住職の声が、やたらと遠くに聞こえる。
わたしの夫は、わたしが知っている男性なのだろうか。
スウェットの上から両脚を抱えると、自分のものとは思えないほど細い。ひかりはよろよろと立ち上がりお墓を後にする。
とりあえず家に帰ろう。
帰り道の長い下り坂が、ひかりの重い足には上り坂のように感じられた。
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