
聞こえないはずのメロディ…あなたはこの物語で7回、涙する #3 ありえないほどうるさいオルゴール店
「あなたの心に流れている音楽が聞こえるんです」。その店では、風変わりな店主が世界にひとつだけのオルゴールをつくってくれる。耳の聞こえない少年。音楽の夢をあきらめたバンド少女。妻が倒れ、途方に暮れる老人。彼らの心にはどんな曲が流れているのか……。瀧羽麻子さんの『ありえないほどうるさいオルゴール店』は、思わず涙がこぼれる連作短編集。全7話のうち、今回は「よりみち」と「はなうた」のためし読みをお届けします。
* * *
「帰り道で、悠人にオルゴールを買ったの」
昼間のできごとを思い出して、美咲は夫に言った。
「オルゴール? 悠人に?」
うまそうに発泡酒を飲んでいた陽太が缶から口を離し、ぽかんとして聞き返した。美咲は早口で補った。
「器械が動いてるのを見るのがおもしろいのかな。すごく気に入ったみたいで」
陽太が気を取り直したようにうなずいた。
「そうか、よかったな。どんなの? 見せてよ」
「まだできてないの。これから作ってくれるって」
「へえ、オーダーメイドってこと? 本格的だな」
「うん、まあ。でも意外に安かったよ」
美咲が言うと、陽太はすぐさま首を振った。
「いいよそんな、値段なんか。悠人がなにかほしがるなんて、珍しいし」
「来週、教室の帰りにでも取りにいくつもり。店員さんが、おすすめの曲を選んでくれるんだって」
それでは聴かせていただきます。
あの店員は厳かに宣言し、おもむろに両手を耳にやった。長めの髪に隠れた左右の耳に、透明な器具がひっかかっていることに、美咲はそこではじめて気がついた。
彼は慣れた手つきで両耳からそれぞれ器具をはずし、テーブルの隅に置いた。ことり、とかすかな音がした。
あまりじろじろ見てはいけないと自戒しながらも、美咲は器具から目を離せなくなっていた。かたちは補聴器によく似ている。でも、おかしい。彼は悠人の「心の音楽」とやらを聴くと言ったのだ。もしこれが補聴器なら、どんな音を聴くにしても、はずすのではなくてつけるところではないか。
店員は美咲の視線を気にするでもなく、机の上に出したノートを開いた。中は五線紙だった。ペンを手にとり、悠人の顔をまじまじと見据え、それから目をつぶった。芝居がかったといえなくもない一連の動作を、美咲はあっけにとられて見守った。
数秒だったか、数十秒だったか、彼はじっとまぶたを閉じていた。そして、やにわに目を開け、五線紙の上に猛然とペンを走らせはじめた。のんきそうな雰囲気から一変して、なにかに急きたてられているような、ただならぬ勢いだった。美咲は気圧され、ただ眺めていた。悠人はまじめくさった顔をして、身じろぎもしなかった。
あっというまに一ページ分を埋めてしまうと、店員はぱたんとノートを閉じた。なに食わぬ顔で耳に器具をつけ直し、月曜日にはできあがりますので取りにいらしてください、お代もそのときにちょうだいします、と事務的に告げた。
むろん、彼に本当に音楽が聞こえていたのかどうかはわからない。それらしい身ぶりをしてみせたとはいえ、冷静に考えればかなり眉唾ものだ。楽譜を読み慣れていない美咲には、五線紙に並んだ音符を反対側から見ても、なんの曲かはわからなかった。悠人くらいの年齢の子に受けそうな曲を書きとめただけかもしれない。
半面、興味もあった。できあがったオルゴールからは、いったいどんな旋律が流れ出すのだろう。店員の言葉を信じるなら、これまで何人もの客に同じ方法でオルゴールを作ってきたらしい。そんな彼が悠人のために選んだ音楽を、美咲も聴いてみたい気がした。
しかし、陽太は違ったらしい。
「それ、どうなの? あやしくない?」
疑わしげにたずねられ、詳しく話したことを美咲は後悔した。どう考えても、陽太が好みそうな話ではない。
「その店員、悠人の耳のことは気づいてた?」
「たぶん、気づいてなかったと思うけど」
悠人の耳が聞こえないと知った相手が見せがちな表情を、彼は浮かべていなかった。子ども慣れしているふうでもなかったから、悠人くらいの年頃ならけっこう喋るものだという知識も、持ちあわせてはいないのだろう。せいぜい、無口な子だと感じた程度ではないか。
「ひとこと言えばよかったのに。そしたら、そんな妙なことも言われなかったんじゃないの」
「だって、赤の他人にそんな……」
行きずりの他人にまで、同情されたり困惑されたりしたくない。
「事実じゃないか」
さえぎった陽太の声に、もう険はなかった。子どもに言い含めるような、淡々とした口ぶりだった。
「気に入らなきゃ返品できるっていったって、悠人にはどうしようもないよな? 気に入らないもなにも、どんな音が鳴ってるんだかわかんないんだから」
陽太は正しい。いつだって正しい。耳が聞こえない息子のことを、全力で守ってやるべきだと言う。現実を直視すると同時に、卑屈にならず堂々とかまえて、弱者としての権利を主張しなければならない。おれたちには親として戦う責任がある、と。
「まあ、もう買っちゃったものはしかたないな。悠人が喜ぶんだったら、それが一番だよ」
陽太が話を打ち切るように、ごちそうさま、と手を合わせた。食卓から立ちあがりざま、ひとりごとのようにぼそりとつぶやく。
「やっぱり手術を受けたほうがいいんじゃないかな」
最近、悠人の話をしていると、決まってそこへ行き着く。可能性を広げるために、できる限り手を尽くしてやりたいというのが陽太の考えだ。
もちろん美咲だってそう思っている。心底思っている。
ただ、全身麻酔が必要となる頭部の大手術となると、どうしてもひるんでしまう。悠人の小さな頭が切り開かれるなんて、考えただけで胸が苦しくなる。それで取り返しのつかないことになってしまうくらいなら、高性能の補聴器や手話をめいっぱい活用して、今の調子でどうにかやっていけないものだろうか。幸い悠人は手話の理解も早く、相手の唇の動きや表情を注意深く読みとることにも長けている。今のところ、意思疎通の面でそこまで不自由はない。
なかなか決論を出せない美咲を、陽太は急かそうとはしない。悠人と一番長く一緒にいる美咲の判断を、尊重したいと言ってくれている。それはたぶん、うそではない。正直なひとだ。正直すぎて、ときどき気持ちがあふれ出てしまうのだ。
教室で顔を合わせる難聴児の親たちの間でも、手術に対する姿勢はまちまちだ。思いきって受けてみたいという肯定派も、様子を見ておいおい考えていくという慎重派もいる。
いろんなひとが、いろんなことを言う。身近なところでも、たとえば美咲の母は、陽太とまるで違う意見を持っている。
ありのままを受けとめてやればいいと母は美咲を励ます。誰が悪いわけでもないんだし、自分の子どもに誇りを持ちなさい。お兄ちゃんのとこだって、あんなに大変だったのに、なんとかなったじゃないの。
美咲の兄には一人娘がいる。赤ん坊のときから癇が強くて手を焼いていると聞いてはいたが、たまに一家と顔を合わせるたびに、どちらかといえば姪よりも嫂の様子に美咲は驚かされた。出産前は上品で優しかった彼女は、別人のように険しい顔つきで、ヒステリックにわが子をしかりつけていた。娘が床を転げ回って泣きわめけば、美咲たちが見ている前でも、ぞっとするほど冷たい声を張りあげて応戦し、手を出すときさえあった。母から聞いた話では、娘の脳に障害があるのではないかと疑って、検査まで受けたらしい。なにも異常はないと診断結果を言い渡されたときには、なにかの間違いじゃないか、この子は絶対におかしいはずだ、と医師に食ってかかったそうだ。
そんな姪は、幼稚園に入ったらころりと落ち着いた。昨年小学校に入学し、学級委員を務めている。今では母娘の仲もしごく良好だという。言葉が通じるようになったのがよかったんだな、と兄は感慨深げに言っていた。相手の声が物理的に聞こえるかどうかと、その言葉の意味を正しく理解できるかどうかは、別の問題なのだ。
ともあれ、そうして状況が好転してからも、手のかからない悠人を見るにつけ、いいわねえ、と嫂はうらやましげに言ったものだった。つい一年ほど前までは。
月曜日、悠人の教室が終わってから、美咲たちはいつものように運河沿いを歩きはじめた。
廃線跡の緑地まで、入り組んだ路地を抜けていく道筋は何種類もある。あのオルゴール店の前は通らないように、美咲は道を選んだ。
陽太の言うとおりだった。どうしてあんなものを買おうと思いついたのだろう。あの店員はきっと、できあがったオルゴールを悠人に渡し、聴いて下さいと自信ありげにうながすだろう。あるいは自ら鳴らしてみせるかもしれない。いずれにせよ、短い旋律が流れた後で、気に入ったかと問うに違いない。
悠人には答えられない。今回ばかりは、美咲がかわりに答えるわけにもいかない。
電話して注文をとりさげようかとも考えた。返品も可能なのだから、おそらく問題ないはずだ。でもよく考えたら、店名もわからなかった。引換証のようなものも渡されなかったし、こちらの名前や連絡先も聞かれていない。あのときはぼんやりしていて不審にも感じなかったけれど、おおらかというか、いいかげんというか、やっぱり変な店だ。さすがに無断ですっぽかすのは気がひけるので、また日をあらためて、美咲ひとりで出向くことにした。事情があって必要がなくなったと謝ろう。
悠人は美咲に手をひかれるまま、ゆっくりと歩いている。時折首をめぐらせて、運河の上を飛びかうかもめや、通り過ぎる自転車を目で追っている。
あの店のことを、悠人は忘れてくれているだろうか。美咲と同様、店を出た直後はいつになくぼうっとしていたし、翌日以降もオルゴールの話題にふれることはなかった。あのおもちゃを買ってもらったとも認識していないのかもしれない。その場では品物を受けとらず、代金すら払わなかったのだ。珍しい器械を少しばかり見学した、と受けとめた可能性もある。
例によって、緑地には誰もいなかった。悠人が美咲の手を離し、とことこと線路に向かって歩いていく。
芝生をつっきり、遊歩道の入口に立ったところまでは、いつもどおりだった。これもいつものとおり、いそいそと線路をたどりはじめるかと思いきや、美咲の予想を裏切って、悠人はぴたりと足をとめた。
「どうしたの?」
美咲はつぶやいた。悠人は振り向かない。背後で声を出しているのだからあたりまえなのに、どういうわけか胸騒ぎがした。
◇ ◇ ◇