これからは僕、先生に診ていただきます…現役医師が描く感動のヒューマンミステリ #5 ディア・ペイシェント 絆のカルテ
内科医の千晶は、日々、押し寄せる患者の診察に追われていた。そんな千晶の前に、嫌がらせをくり返す患者・座間が現れる。彼らのクレームに疲幣していく千晶の心のよりどころは、先輩医師の陽子。しかし彼女は、大きな医療訴訟を抱えていて……。現役医師、南杏子さんの『ディア・ペイシェント 絆のカルテ』は、現代日本の医療界の現実をえぐりながら、医師たちの成長と挫折をつづったヒューマンミステリ。その一部を抜粋してお届けします。
* * *
医局はごった返していた。ホールから戻ってきた医師たちが、いったんここを経由してから午後の持ち場へ散るためだ。
午後の面談予定を確認しようと、千晶は手帳の入ったポケットに手を入れた。折りたたまれた紙が手に触れる。今朝、階段で拾ったものだった。
「そういえば……」
「何?」
陽子にそのメモを見せると、「へえ」と言いながら、ほとんど読みもせず半分にたたんだ。そして、ふと話題を変えるように「実は私もね」と白衣から茶封筒を出した。中央に「御礼」と書かれている。現金が入っているのだろう。
「五万円。今朝、患者さんからポケットにねじ込むようにして入れられたのよ。返そうと思ったら、もう姿が見えなかった。走って追いかける訳にもいかなくて」
病院では、「心づけ」を絶対にもらってはならないという規則がある。万が一断り切れなかった場合は、病院事務局を通して返す仕組みになっていた。
「これから事務に届けに行ってくるね。ついでに、この紙も持っていってあげる。個人情報かもしれないから」
陽子は「善は急げ!」と言いながら立ち上がる。千晶が拾った紙は、五万円の封筒とともに陽子のポケットの中へ消えた。
午後九時半を回った。千晶は退院患者の病歴要約を書きながら、午前中に会った外来患者を思い起こしていた。
認知症が疑われる浅沼知恵子は、母の姿と重なった。知恵子が見せた兆候は、母の数年前と同じだ。ふと思い立って、千晶は地下一階の診療情報管理室に向かった。
知恵子のカルテを「本日の受診者」のラックから取り出す。すでに夜間の時間帯であることは気になったが、思い切って知恵子の自宅に電話した。息子が出ますように、と祈りながら。だが、誰も電話には出なかった。
おふくろの湿布薬がほしい――と言っていた保坂の顔を次に思い起こした。同じ名字の女性患者のカルテを探す。住所が一致していたことで、簡単に見つかった。
処方内容をチェックした。湿布薬だけでなく、血圧の薬も処方されていた。日数を計算すると、もうすぐ切れそうだ。保坂は母親から湿布しか頼まれていなかったのだろうか。
保坂に電話する。電話口に出た男性は、露骨な警戒感を漂わせた。
千晶は突然の連絡を詫びた後、いくつかの提案を示した。
「お母さまは血圧のお薬もあるようですから、近いうちに処方を受けられた方がいいですよ」
「……用件はそれだけ、ですか?」
「はい?」
千晶は動悸がするのを感じた。自分が非常識なおせっかいをしているような気分になる。
「そんなことで、わざわざ電話をもらえるなんて思いませんでした。先生、ありがとうございます」
保坂の声は少し驚いているようだった。礼を言われて正直嬉しい。
診療情報管理室を出る前に、もうひとつだけ確認したいことがあった。PET検査で陽性反応が出た藤井典子の件だ。
作業デスクに据えられた端末から肝生検の検査予約システムにアクセスする。ウィンドウを開くと、それまで真っ赤に染まっていたカレンダーの一角に、ぽかんと白いマスがあった。
キャンセルが出たのだ。五日後だった。ちょうどいい。マウスを扱う手が乱暴になる。猛烈なスピードで自分のID、パスワード、それに患者名を入力し、「予約」ボタンを押す。
「取れた!」
五日後の検査枠を、典子のために押さえることができた。すぐさま典子の家へ電話する。時間は構っていられなかった。
電話口に出た典子は、「あのときは主人が、その、随分と興奮してしまって。すみませんでした」と頼りなげな声を返してきた。
千晶が詳しい事情を説明していると、「ちょっとお待ちください」と言って夫に代わった。
「ぜひ検査を受けさせてください。先生、どうか女房を助けてやってください……」
その声は少し震えていた。
これで今日の仕事は終わった。千晶はようやくそう思うことができた。
医局に荷物を取りに戻り、二階から再び裏階段を下りる。外来診察室と待合室は、常夜灯の下に沈んでいた。西側奥にある夜間救急の出入口だけに灯りが残る。
「千晶先生、ですね?」
暗闇の中で声がした。
「こんばんは」
誰? どこから?
手前の長椅子に横たわっていた人影が、突然むっくりと起き上がり、千晶の前に立ちはだかった。背の高い、五十歳くらいの男性だった。
「今日、僕は診察時間に間に合いませんでした」
いったい何が言いたいのだろう。それに、この患者には会ったことがない。なのに、下の名前で呼ばれている。
「そ、そうでしたか……」
千晶は、何と答えてよいか分からず口ごもった。
「優しそうな女医さんが来たって、評判ですよ」
男は、黒々としたオールバックの頭を突き出すように笑いかけた。黄色い縁のメガネ。前歯が欠けている。
苦手な人物だと直感した。千晶は反射的に目を伏せる。
「あの、急ぎますので」
バッグを小脇に抱え、歩みを進めた。
千晶の背後から、よく通る声が投げかけられた。
「これからは僕、千晶先生に診ていただきます。よろしくお願いします」
それが座間敦司との初めての出会いだった。
武蔵小杉は、病院の最寄り駅からひと駅の場所にある。
千晶の住まいは全室ワンルームの造りになっているマンションの八階だった。どうせ寝に帰るだけだから、広い部屋は必要ない。それよりも駅に近く、生活に便利な方を優先した。宅配便は管理人が預かってくれるし、ゴミ置き場の整理もしっかりしている。機能性は抜群だ。
玄関には、段ボールに入ったペットボトルの水があった。入ってすぐのキッチンカウンターには、食器が少しだけと大量の本が積み上げられている。「台所」として使っていないのが一目瞭然だ。そのまま進むと、左手に事務用のデスクとソファー、右手にはセミダブルサイズのベッドがある。
今夜、電話機の光は点滅していなかった。あれからまだ妹に電話を返していない。
父が昨年、「七十五歳までに診療所を辞めたい」と打ち明けたとき、家族は誰も信じていなかった。だが、それはやはり本気だったのだ。
自分が戻らなくても、パート医を増やせばいいという考えは甘いようだ。
父の診療所が、近く廃院になる――。自分はここにいていいのだろうか。
千晶はベッドに寝転がった。脈を手首で取りながら息を吸う。
――トク、トク、トク、トク、トク……
続いて少しずつ息を吐く。
――トック、トック、トック、トック……
わずかな差だが、吸気のときに脈が速くなり、呼気で遅くなる。医学生が全員、習うことだ。
メカニズムは単純だ。人間の脈の速さを左右するのは、交感神経と副交感神経だ。交感神経は闘争の神経、副交感神経はリラックスの神経とも言われる。敵と戦うときは闘争の神経が働き、十分に酸素を消費できるように脈は速くなる。逆に食事や睡眠などではリラックスの神経が働き、心臓の活動がゆっくりになる。
息を吸うときは交感神経が刺激され、吐くときは副交感神経が刺激される。だから、吸うときに脈が速くなり、吐くときにゆっくりになるのだ。
千晶はとにかく緊張しやすい性格だった。たとえば外傷の縫合だ。普段の練習ならできるのに、いざ患者を前にして傷を縫おうとすると、手が震えてしまう。いくら「リラックス」「平常心」と気合いを入れても、直らなかった。
ところが二年前、運動不足解消のために体験したロシア武術「システマ」の教室で、リラックスする方法を手に入れた。
システマ独特の、呼気を刺激する呼吸法がある。鼻から息を吸い、口から「フッ」と吐く。これを一分間に百回くらいの速度でフッフッフッフッと繰り返す。
スピードの目安は、「地上の星」や「アンパンマンのマーチ」、あるいは「ステイン・アライヴ」だ。関係ないが、心臓マッサージのスピードと一致する。
この方法で呼吸することによって気持ちが落ち着き、縫合時に手が震えなくなった。以来、システマが好きになった。
「システマは、安全にお家に帰るための武術だよ」
千晶は、講師の吉良大輔からそう教わった。闘いを主目的とせず、相手の攻撃から身を守る護身術のような武術である、と。システマはロシア語で「仕組み」を意味する。心身の仕組みから集団心理まで、さまざまな人の動きに関するメカニズムを解明し、身の安全のために活用する方法だという。
だがそもそもは、旧ソ連の特殊部隊から伝わった武術らしい。工作員たちの間で秘密裏に受け継がれていた教えが、ソ連の崩壊で世界に広まるようになったという。吉良講師は、素人を怖がらせないようにオブラートに包んで説明してくれたのだろう。
システマの呼吸法で平常心を取り戻す。恐怖心や緊張、焦りを取り除き、よいパフォーマンスができるような状態を作る。その精神性も千晶は気に入った。
仕事が忙しくて何度も教室を休みながら、それでもやめずにいる。その理由は、講師がイケメンだからだけでなく、素の自分に戻れるからでもあった。教室では、自分が医師であることは話していない。自意識過剰かもしれないが、その方が自然体でいられて楽なのだ。
急に眠気が差してきた。ベッドから起き上がり、シャワーを浴びる。アーモンド飲料とアサイージュースを飲みながら、メールをチェックするが、特に大事な用件はない。ほっとしてソファーに座り、テレビをつけた。深夜のバラエティ番組はどれも騒々しく似たようなものばかりだ。興味が湧かず、しばらくチャンネルを替え続けた。
久しぶりにモンステラの水やりをする。葉が増えすぎた。ハサミを持ってきたものの、けなげに伸びた葉はどれもいとおしく切ることができない。ハサミを戻し、埃っぽくなった葉をティッシュでなでる。
テレビを消し、スクワットを行うことにした。回数は一回だけ。
ゆっくりと時間をかけて、徐々に沈み込む。中腰の、いわゆる「電気椅子」の姿勢を保つ。苦しくなると、「フッフッフッフッ」と呼吸法を繰り返す。リラックスの神経、迷走神経を刺激するためだ。これによって、つらさでパニックになった心が落ち着き、より長く頑張ることができる。
最初は三十秒しかできなかったスクワットが、いまでは三分近くまで続けられるようになった。
スクワットが終わると、そのままベッドに倒れ込む。ワインの力を借りず、あっという間に眠りに落ちた。
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