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親友が「一緒に住む」と言い出して……。 #5 鎌倉駅徒歩8分、空室あり

 三樹子が家に来たのは午後二時を少しまわってからだった。
 オレンジ色の大きなキャリーバッグをガラガラ引きずりながら、おうちカフェの入り口から入ってきた。

「おひさし〜」
 二年半ぶりに会う三樹子はまた逞(たくま)しくなっていた。昔は肩幅だけが広く足が細いトイレの紳士マークみたいな体型だったが、年を追うごとに下半身に肉がつき、今では長方形に限りなく近くなっている。

「元気にしてた?」
「あのさぁ、家を出てきた人にフツー元気って訊く? 今回という今回は、ほんとにもうくたくた。あー、疲れた」
 倉林さん同様、勝手知ったる我が家のごとくテラス席に腰をおろす。
「しっかし、いつ見ても落ち着くね、この庭。なんていうの、ナチュラルガーデン? 変に手を加えてないとこがいいよね」
 座ったまま伸びをしている。

 声を潜めていたヤマガラが身の危険はなさそうだと安心したのか、また鳴きはじめた。
「鎌倉ってやっぱ空気が澄んでるよね。それにこの鳥のさえずり……。そういや、あのあたりの木、ひとまわり大きくなったんじゃね?」
 敷地を取り囲むようにして茂っているケヤキを見ながら三樹子が言った。今年の夏は暑かったが、ここにきてようやく葉の先が赤く染まりはじめている。

(写真:iStock.com/nature picture)

「そうだね、三樹子ぐらいには大きくなったかも──」
「失礼しちゃうわね」
 マスカラをたっぷり塗った一重瞼がこちらを睨む。
「香良ってさ、虫も殺さぬ顔して、しれっとキツいこと言うよね。てかさ、虫と言えばあれ……」
 三樹子はテラスの前に咲くヒガンバナを指さした。
「あの黒いアゲハ、デカッ」
 赤い花のまわりでひらりひらり飛んでいる蝶は十センチ近い大きさだ。
「ああ、あれ。この辺の人は鎌倉蝶って呼んでるんだよ」
「なるへそ。たしかにあの黒い羽根の中の白い紋が武士っぽい。しっかしデカいな。羽根もツヤツヤ、黒光りしてる」

「そうそう。ツヤツヤといえば三樹子も脂肪のおかげでお肌いい感じだよ」
 三樹子を前にすると、不思議と思ったままのことが言える。
「褒めてんのかね、それ。ま、いいや。てかさ、突っ立ってないで、コーヒー淹れてよ、コーヒー。苦くて、気分がこうスカッとするやつ」
「はいはい」
 キッチンに行って、マンデリンを中挽きにした。

「落ち着くね、その音」
 豆を挽いていると、テラスから三樹子が話しかけてきた。脂肪に覆われてから、声にもツヤが出てきたようだ。
「もうすぐだから、そこで寛(くつろ)いでて〜」
 テラスに向かって返事をする。大きな声を出すのはひさしぶりだった。

「言われなくても寛いでる〜」
 ドリッパーに湯をまわし入れる。ほろ苦い匂いが立ちあがってくる。
 そういえば、前に家出してきたときも、三樹子のリクエストは「苦くて、気分がこうスカッとするやつ」だった。あのときは、父が淹れてくれたんだった。

 父親を早くに亡くした三樹子は、「パパ、パパ」とやけに懐いていた。今さらのように気がついた。十年ほど前、母も亡くした三樹子には、家出しても帰る家がない。
 琥珀色の雫が落ちきった。「美味しくなりますように」と心の中で唱えながらサーバーを揺する。

「お待ちどおさま」
 三樹子は芥子色(からしいろ)のぽってりとしたカップを包み込むように持ち、傾けた。
「はぁ、んまっ。香良、お店出せるよ」
「もう出してるし」
「ああ、失敬。そうだった」
 三樹子はきょう初めて、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「でも、ほんとうまいわ、これ。人に淹れてもらったコーヒーは格別よね」
 ひと口含んでみた。苦みのあとに果実味が花火のように広がり、すっと消えていく。

「ねぇ、これいくら?」
 三樹子がこちらの顔をのぞき込む。
「何言ってんの? いいよ、代金なんて」
「そっちこそ何言ってんの? 誰も払うなんて言ってねぇし。参考までに訊いただけ」
「なんだ、そういうこと。六百円だよ」
「マジで?」
 三樹子は細く整えた眉を寄せた。

「ねぇ、この立地、このクオリティよ。いくらなんでも、それじゃ安すぎ」
「そっかなぁ。お父さんもずっと同じ値段で淹れてたけど」
「だって、パパの場合は、趣味の延長線上でしょ。それに常連客だって、そこそこいたわけだし。ねぇ、このカフェ一日、どれくらい入ってんの」
 倉林さんと同じことを訊いてくる。
「ぼちぼちよ」
「ぼちぼちって、どうせ四、五人でしょ」
「まぁ、そんなとこかな」

 三樹子はチッチッチッと言って人差し指を振り子のように動かした。
「香良ってどこまでボーッと生きてんの。あんたねぇ、四十代半ばの女ふたりがこの先、生きていくのにどのくらいお金がかかるかわかってる?」
「え?」
「え? って何よ、その顔」
「今、女ふたりって言わなかった?」
「言ったよ、だってふたりじゃない。あたしとあんた」
 平然と返してくる。

「なんでふたり?」
 三樹子の脇に置いてある大きすぎるキャリーバッグに目がいった。
「三樹子、まさか──」

「そうよ。言ったでしょ、あたし家を出たって。あのバカ亭主と離婚したの。だから、ここで暮らすの。取り急ぎ、荷物はこれだけ。あとはあさって、ここに届くことになってるから」
「離婚って、そんな──」
 いくら三樹子でも唐突すぎる。

◇  ◇  ◇

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